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琉球王国の第二尚氏王統の歴代国王が眠る玉陵(たまうどぅん)

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玉陵(たまうどぅん)は、1501年に琉球王国の尚真王が父・尚円王の遺骨を改葬するために築いた、第二尚氏王統の歴代国王が眠る巨大な石造りの陵墓です。

2018年には建造物として沖縄初の国宝に指定されました。

 

第一尚氏王統 (1406年 - 1469年)は佐敷の按司(地方領主)であった尚巴志(しょうはし)が、三山(北山・中山・南山)を統一して築いた王統です。約60年続きます。

玉陵に関わる第二尚氏王統 (1470年 - 1879年)は、クーデター後に王位に就いた尚円(しょうえん)を始祖とする王統です。尚円はもともとは伊是名島に百姓の子として生まれた金丸という人物で政権を奪取後は第一尚氏の一族を皆殺しにしています。

 

玉陵

第二尚王家歴代の墓であるこの玉陵は、首里城への要路 綾門大道(あやじょう うふみち)に臨み 東は天界寺に隣接するなど重要な位置にあります。

墓陵内は、琉球石灰岩の高い石垣によって囲まれ全ての庭には珊瑚砂利が敷きつめられています。

東室、中室、西室の三基に分かれた墓堂は、自然の岩壁をうがち外部を切石積の家型とした沖縄特有の形式をもつ墓陵といえます。中室は、洗骨までの間霊柩を安置するのに使用し(シルヒラシ)、東室には洗骨後の王および王妃、西室にはそれ以外の家族の遺骨を安置したと伝えられています。

また、前庭左側に西面して建つ「たまおどんのひのもん」(尚真王二五、大明弘治一四年一五〇一)には、陵墓にまつわる当時の事情が伝えられています。

その他墓頂にある雄雌の石獅子や墓室前の高欄などからも琉球文化の粋をしのぶことができます。

昭和六二年三月

文化庁

沖縄県教育委員会

玉陵入口にある切符売り場「奉円館」の地下には資料展示室があります。先に入って概略を知ってから玉陵を見学するのがおすすめです。

玉陵(たまうどぅん)

玉陵は、 1501年、 尚真王(しょうしんおう)が父尚円王(しょうえんおう)の遺骨を改葬するために築かれ、第二尚氏王統の陵墓となりました。

墓室は三つに分かれ、 中室は洗骨前の遺骸を安置する部屋、創建当初の東室は洗骨後の王と王妃、 西室には、 墓前の庭の玉陵碑に記されている限られた家族が葬られました。

全体のつくりは、 当時の板葺き屋根の宮殿を表わした石造建造物になっています。 墓域は、2,442m。

沖縄戦で大きな被害を受けましたが、 3年余りの歳月をかけ、修復工事が行われ、往時の姿を取戻して今日に至っています。

1972(昭和47)年、 国の重要文化財(建造物) ならびに史跡に指定され、2000(平成12)年にはユネスコの世界遺産「琉球王国のグスク及び関連遺産群」 を構成する9つの文化遺産の一つとなりました。

尚真王代の栄華

1879 (明治12) 年、明治政府の廃藩置県によって 「沖縄県」 とされるまで、「琉球王国」は一つの独立国として、中国や日本などと交易を行なっていました。 そのはじまりは…。

1372年、 明 (中国) の洪武帝からの誘いにこたえ、 察度王(さっとおう)が弟の泰期(たいき)を遣わしたのを契機として、 琉球は中国と公式に国交を結びました。

第一尚氏王統の15世紀には、 中国との関係を中心に、 日本、朝鮮、 東南アジアの各地と、盛んに交易を行うようになりました。

その様子は、 国指定重要文化財 (美術工芸品) 「旧首里城正殿鐘 (万国津梁の鐘)」 に、 「舟楫(しゅうしゅう)を以って万国の津梁となし、 異産至宝(いさんしほう)は十方利(じゅっぽうさつ)に充満せり (舟で世界中の国々の港を橋のようにつなぎ、珍しい産物やこの上ない宝物で、 国中満ちあふれている)」 と記されています。

そして、第二尚氏王統第三代国王となった尚真王の時代 (1478~1526年)は、海外との交易によって得られた富をもとに、 琉球独自の文化が大きく華開いたのでした。

玉陵はもとより、 同じく世界遺産に登録されている国指定重要文化財(建造物) 「園比屋武御嶽石門(そのひやん うたき いしもん)」 (1519年)をはじめ、 国指定重要文化財(建造物)「旧円覚寺放生橋(きゅうえんかくじほうじょうばし)」 (1498年)、 「天女橋」 (1502年)、 国指定史跡「円覚寺跡」(1492年) など、 尚真王の時代につくられた文化遺産は、 今日もなお、そのころの気高く、華やかな文化を伝えています。

玉陵のジオラマ

東室

中室

沖縄には風葬の習慣がありました。

天然の洞穴を利用し遺体を安置しておきます。

そして一定期間を置いて遺骨を洗う(洗骨)のです。

この中央の部屋は洗骨まで遺体を安置しておく場所で、洗骨後、王、王妃の遺骨は左の部屋へ、その他の王族は右の部屋に安置されます。

西室

玉陵碑(県指定有形文化財)

玉陵碑は 1501 (弘治14) 年に建てられたもので、玉陵に葬られるべき人々を規定したものです。碑は中国の輝緑岩を用いて作られています。

碑文には尚真王のほかに8人の名が記されており、碑に記された人物とその子孫は永久に玉陵に葬られるべきであると記されています。

しかし、碑文には尚真王の長男尚維衡(しょういこう)と次男の尚朝栄(しょうちょうえい)の名が記されておらず、王室内で勢力対立があり、廃されたと考えられています。

また、 碑文の最後には「この書き付けに背くならば、天に仰ぎ、 地に伏して祟るべし」

と結ばれており、 呪詛的(じゅそてき)な文言が記された稀有な碑となっています。

 

玉陵碑は玉陵を建立した尚真王の母親 オギヤカ(宇喜也嘉)の意向を反映して建てられました。オギヤカは晩年、世添御殿(よぞえおどん)とも呼ばれていました。

玉陵の蔵骨器

玉陵の墓室には遺骨をおさめた蔵骨器が全部で70基あります。 ここではその中の27基を展示しています。

蔵骨器は時代によって変化していきます。

尚円王 (初代 1476年没)の蔵骨器は輝緑岩製で、龍などの細かい彫刻があります。

尚真王(3代目 1526年没)以降はその大半が石灰岩製で、質素なつくりとなります。

そして尚敬王 (13代目・1751年没) からは陶器製にかわっていき、 屋根にシャチホコがついています。

また、尚元王 (5代目・1572没年) 以降の蔵骨器には地蔵菩薩が描かれるようになります。

一方で尚真王から高豊 (8代目 1640年没)にかけての蔵骨器に記された文字 (銘書・みがち)は、後の1620~40年代にできたとの説もあり、 蔵骨器がもつ複雑な歴史がうかがえます。

厨子とは

厨子は本来、 仏像や経典などを収める容器をさしますが、沖縄では遺骨などを納める蔵骨器のことを厨子と呼びます。 厨子は石や陶器で作られることが多く、その形も家形と形を中心に多様な形と装飾が見られ、独特の発展を遂げました。 洗骨した遺骨を納めたことから本土の火葬用の骨壺に比べて大型のものが多いのも特徴といえます。

厨子の使用が始まるのは15世紀頃と考えられ、年代がわかるもので最古のものは那覇市立壺屋焼物博物館が所蔵する輝緑岩製石厨子で、 1492年の銘が記されています。 17世紀以降に陶製の厨子が登場すると資料数が増大し、沖縄本島全域で使用されることがわかっています。 戦後、洗骨に代わり火葬が一般的になると、厨子もサイズの小さいものが主流になります。

また、被葬者の名前や没年 洗骨年などを記した「銘書」を伴うことも多く、 葬墓制の変遷や祭祀をめぐる社会の変遷を知るための歴史資料としても貴重です。

奉円館を出て、いよいよ王陵に向かいます。

西の御番所(いりのうばんじゅ)

王府時代の歴史をつづった「球陽(きゅうよう)」によれば、 1748 (乾隆・けんりゅう13)年、初めて五陵門外の左右に御番所を建て、2人の御番役を任命したことが記されています。

また、1901 (明治34)年の記録によると、琉球最後の国王であった

尚泰(しょうたい)の葬儀の折、東西の御番所が近親の親族や僧侶の控所となったことなどが記されています。

ここの御番所は、法事の際には、主に女性方の控所として使われていたようです。西の御番所には、太平洋戦争前まで、格式のある家柄から選ばれた御番役が住み込み、御掃除人たちを使って、日常の管理を行っていました。

左の図は、こちらに暮らしたことのある方が記憶をもとに作成されたものです。 しかし、発掘調査の結果、西の御番所の構は、発見できませんでした。

第一門をくぐります。

中庭には玉陵碑が建っています。

そして次に中門をくぐります。

左から東室、中室、西室でそれぞれ階段があります。

東室。国王と王妃が眠る部屋です。

東室には、 37基の遺骨を納めた厨子 (ずし) が置かれており、尚円王から続く歴代国王と王妃ら40人が眠っています。

中室 洗骨前の遺体を安置する部屋です。

玉陵が使用された時代は棺を墓室内に安置して数年したのちに遺骨を洗い清めて改葬をする 「洗骨」 という葬法が主流でした。 中室は洗骨前の遺体を安置する場所です。

西室 王子や王女が眠る部屋です。西室には、 王子や王女など限られた王族が眠っています。

 

次に、王陵の第一門をでて東の御番所(あがりのうばんじゅ)に向かいます。

東の御番所(あがりのうばんじゅ)

東の御番所は、 法事の折には国王の控所として使用されました。

ところが、太平洋戦争直前には、 2間(約360cm) 四方ほどの大きさしかなく、国王の葬儀に使用する龕 (遺骸などを運ぶ御輿のようなもの)や、その他の道具類を保管する倉庫として使用されていたようです。

2000(平成12)年に発掘調査を行ったところ、東西約 18m、南北約12mにわたり、柱を支えた礎石や建物の周囲に巡らされた石敷、便所跡などの遺構が発見されました。 さらに、 瓦や釘、中国製の青磁や染付、壷屋焼の陶器などの破片も出土しました。

驚いたことに、西の御番所の部屋割を描いた図を反転させると、ほぼ柱の位置が一致することがわかりました。 そこで、遺構や写真などを元に分析し、東の御番所を復元しました。

復元にあたっては、砂などで遺構を保護し、元の面より約45cm上げて整備を行っています。

トックリキワタ(徳利木綿)

東の御番所の奥に生えています。

成長した幹の基部が膨らみ、酒瓶の「徳利(とっくり)」のような形になることから名付けられました。

南米原産の落葉高木で、沖縄では秋から冬(10月〜12月頃)に鮮やかなピンク色の花を咲かせるため、「南米ざくら」とも呼ばれ親しまれています。

 

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