美術館/博物館

東京都埋蔵文化財センターと遺跡庭園「縄文の村」

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東京都多摩市にある東京都埋蔵文化財センターは、東京都内の遺跡の発掘調査や発掘品の保存・活用を行っている施設です。

多摩センター駅から徒歩約5分に位置します。

展示室では、多摩ニュータウン開発などで出土した縄文時代から近世にかけての土器や石器などを展示しており、発掘調査の成果を分かりやすく紹介しています。

 

多摩ニュータウンは「平成狸合戦ぽんぽこ」の舞台になった場所です。

 

隣接する遺跡庭園「縄文の村」は、多摩ニュータウンの開発に伴い発見された集落跡(都指定史跡)をそのまま保存・再現した屋外施設です。

園内には、約6,500年前から4,500年前の竪穴住居や敷石住居が復元されているほか、50種類以上の当時の植物が植えられ、縄文時代の集落景観と自然環境が忠実に再現されています。

 

1       東京都埋蔵文化財センター

多摩センター駅から東へ徒歩5分ほどです。

 

1.1      展示ホール

ようこそ

多摩ニュータウン遺跡

稲城市、多摩市、 八王子市、町田市の4市にまたがる多摩ニュータウンは、東西14km・南北1~3km の約 3,000ヘクタールの広さをもつ街です。

1965(昭和40)年に都市計画が決定され、1971(昭和46)年に第1次入居が開始、 現在は人口 25万人が住む街となっていますが、 近年、ニュータウンも高齢化を迎え、新たな街づくりが模索されています。

このニュータウン地域内からは、 約 1,000 個所もの遺跡が確認されており、 1965年から2005年までの40年間をかけて 770箇所の遺跡を発掘調査してきました。

その結果、このニュータウンに最初に人が住み始めたのは、およそ3万年前の旧石器時代までさかのぼり、 その後、約1万年間続く縄文時代では、人々が住んでいた集落や丘陵内に生息していたシカやイノシシを追いかけて狩りをした所など、数多くの生活の痕跡が明らかにされてきました。

次の弥生時代から古墳時代では、 極端に遺跡が少なくなり、 さびしい時代を迎えますが、 奈良時代から平安時代には、丘陵内に多くの村が作られ、 瓦や須恵器を窯で焼いたり、馬を放牧したりと再びにぎわいを見せます。

展示場では、これまでに発掘調査された数々の出土品を中心に、3万年にわたる多摩ニュータウンの歴史を、わかりやすく展示解説しています。 どうぞ、ごゆっくり見学してください。

東京都埋蔵文化財センター

 

1.2      土偶

多摩ニュータウンのヴィーナス

No.471 遺跡 [稲城市若葉台]

縄文時代中期前半

中期前半の大形土偶の好例であることから、 2009 年にイギリスの大英博物館で開催された 「土偶 The Powerof the DOGUI でも展示されました。

 

縄文のヴィーナス(長野県茅野市)、縄文の女神(山形市)というのは聞きますが、多摩ニュータウンのヴィーナスは初めてです。

 

1.3      企画展土の中の東京

1.3.1  鉄道の部品、上水

レールの種類と固定方法

初期のレールは上下両面が使用できる 「双頭レール」 で、 イギリスから輸入されました。

固定には「チェアー」とよばれる台座が用いられました。

やがて、底面が平らな「平底レール」 になると、「犬釘」 を用いて枕木に固定しました。

 

上水

人が生きていく上で最も重要なのは安全な水の確保。

トーキョーの前身である江戸の町にも上水は整備されていましたが、 度々起こったコレラの大流行などを契機に、より安全な近代水道の創設に向けた声が高まっていきました。

1898年(明治31) 淀橋浄水場からポンプを使用した加圧通水が始まると、 明治末年までには市域を網羅する水道網が整備されました。

 

1.3.2  レンガ

レンガ

1872年(明治5) の銀座大火以降、都市の不燃化を目指して、規模の大きな土木建築にはレンガが盛んに用いられるようになりました。

その膨大な需要に応えるため、 トーキョー周辺ではレンガ工場も多く操業していました。

レンガの製造方法① 「手抜き成形」

普通煉瓦(赤レンガ)は主に「手抜き成形」、「機械成形」に分けられます。

「手抜き成形」は一つ一つ型枠に粘土をつめて作られます。

上面をヘラで整えるのが特徴です。

レンガの製造方法② 「機械成形」

機械で押し出した粘土塊を切り分けてつくるのが 「機械成形」 です。

レンガの上下面に切断に用いたピアノ線によるチリメン状の皺がつくのが特徴です。

 

1.3.3  陶器

空襲(太平洋戦争)

大戦末期、 トーキョーは100回を超える空襲を受けたとされます。

特に、 1945年(昭和20)3月の下町大空以降、 住宅地を狙った無差別攻撃が行われるようになりました。

トーキョーの約半分が廃墟と化し、死者10万人以上、 罹災住戸約70万戸にのぼると言われています。

都市と周辺の器

普段使いの器も時代の変化と連動していました。

周辺の村々では近世からの伝統的な形が好まれましたが、 都会の人々は、 新しい形をいち早く取り入れました。

これらは幾たびの変遷を経て、現代に繋がる食器文化を醸成していきます。

陶製便器

染付朝顔形小便器・角形大便器

新宿区 納戸町遺跡出土

近世末頃に登場した陶器製の便器は、明治以降、衛生観念の広まりにつれて普及を始めます。 耐久性が高く、 清掃も容易なため、都市部では、一般住宅でも屋内にトイレを設置するようになっていきます。

大正に入ると、清潔感があり、汚れに気づきやすい無地の便器が増えていくことになります。

この陶製便器は明治時代に作られたもので、 富裕層を中心に人気を博しました。

1.3.4  薬瓶・文房具

~薬瓶・文房具~

明治政府は1868年 (明治元)、 「西洋医術許可の布告」により医療に西洋医学を採用しました。

左側の処方薬瓶には病院名が記されています。

また、 様々な市販薬が発売されており、中には現在の私たちにも馴染みのある名前も見受けられます。

1874年(明治7) 西洋の技術導入により洋紙の国内生産が始まります。

それに伴い、 筆記具のペンやインクも普及していきます。

それまで自作されていた糊も商品として、 販売されるようになりました。

1.3.5  紀伊和歌山藩徳川家屋敷跡第3遺跡

紀伊和歌山藩徳川家屋敷跡第3遺跡

出土品②

一部の碗に記された 「冨田屋」 「トミタヤ」は、江戸時代から宮中の御用を勤める陶器商 「櫻井商店」の屋号です。

天皇と共に京都からトーキョーへ移ってきました。

これらの食器は、明治時代後期以降に宮家からの注文で誂(あつら)えられたものと考えられます。

港区 紀伊和歌山藩徳川家屋敷跡第3遺跡

現在、「仙洞御所」や「迎賓館」がある 「赤坂御用地」 内の発掘調査では、戦後間もない頃に廃棄された地下室が検出されました。

戦前の宮内省に関連する施設の一部と考えられます。

1.3.6  新宿区霞ヶ丘町遺跡

新宿区霞ヶ丘町遺跡出土のナイフ

「SEKI H.K.K / NON STAIN STEEL」銘のナイフは新宿区霞ヶ丘町遺跡から出土しました。

同地は、陸軍の訓練を行う練兵場 (青山練兵場)があった場所です。

徴兵制のあった近代において、軍は西洋文化を広める役割を果たしていました。

関刃物株式会社 「SEKI H.k.k」

1919年(大正8) 岐阜県関市で創業とされる。

当初は軍用ナイフ製造を目的として設立されが、洋食器のカトラリーも手掛けていました。

NON STAIN STEEL はステンレス鋼の別称。

1.3.7  旗本花房家屋敷跡遺跡出土の洋食器

旗本花房家屋敷跡遺跡出土の洋食器

明治初期に海軍省の外国人官舎があった場所から、イギリス製の食器が出土しています。

同省に関わった英海軍関係者のものと思われます。

遠い異国の地で、 母国風の暮らしを味わうために持ち込んだのでしょうか。

また、当時、 海外で人気を博した国産のカップ&ソーサーも出土しています。

 

1.4      常設展

1.4.1  後期旧石器時代

食料を求めて移動する暮らし

多摩ニュータウン地域で人々が暮らし始めたのは、今から約 32,000 年前、 氷河期の終わり頃でした。

気候は現在の北海道に近く、 主な食料は針葉樹林にすむ大型の獣や川を遡ってくる鮭、 草木の実などでした。

人々は、ナウマンゾウやオオツノジカなどの獲物を求めて、 移動する生活を送っていました。

遺跡からは、狩りや動物の解体に使ったと考えられる様々な石器や、調理に使用したと思われる焼けた石などが見つかっています。

1.4.2  後期旧石器時代末

土器の出現

16,000年前頃に土器が出現し、 縄文時代が始まります。

土器によって食材の加工や調理技術は飛躍的に進歩しましたが、 一方で、 縄文時代のはじめの頃の人々の生活は旧石器時代とあまり変わらず 獲物を求めて短期間で移動を繰り返していたようです。

人々の暮らしが大きく変化するのは、12,000年前ころの本格的な気候の温暖化以降のことになります。

 

1.4.3  縄文時代早期

竪穴住居の生活が始まった

地球規模の火山活動が徐々に減り、気候温暖化は一段と進みました。

大型動物にかわって増加した、 脚の速いイノシシやシカなどの中小の動物が狩猟の対象になりました。

このため、 弓矢や 「陥し穴」 などの新しい狩りの方法が発展しました。

また、食料に占める植物の割合も増し、それらを加工するための土器や石器が数多く作られました。

多摩ニュータウン地域では、この頃から竪穴住居が作られ始めます。

 

1.4.4  縄文時代前期

拡大する丘陵人(おかびと)の動き

温暖な気候は前期中頃 (約 6,000年前)にピークとなり、 海水面は現在よりも3~5m ほど上昇していました。(縄文海進)。

多摩ニュータウン地域では、発見される住居跡は少ないものの、丘陵のほぼ全域で前期後半の土器が見つかっていることから、 丘陵人たちの活動の範囲が拡がっていったことがうかがえます。

土器には、いろんな文様が様々な道具を使って描かれ、石器の種類も増えました。

また、 現状耳飾りなどの装身具も作られました。

 

1.4.5  縄文時代中期前半

大きなムラが出現した

約5,000 年前、 温暖な気候は安定し、獣や魚、山菜や木の実が豊富な落葉広葉樹や照葉樹の大きな森が広がっていました。

丘陵人たちは豊かな自然環境を背景に大きなムラを作り、安定した定住生活をするようになりました。

ムラには決められた場所に 「捨て場」 があり、 土偶や石棒 などのまつりや儀式に使われた道具も発見されています。

土器の文様にはヘビなどの動物をモチーフにしたものが多く、有孔鍔付土器のような特殊な形の土器も作られます。

 

1.4.6  縄文時代中期後半

丘陵に往き交う人々

南関東で最大規模を誇る No.72 遺跡では、 中期後半(約 4,500年前) の住居跡が 275軒も発見されました。

多数の遺物の中には、このムラの人々が遠方のムラの人々とさかんに交流していたことを示すものも含まれています。

例えば、 黒曜石は主に中部地方から、 ヒスイは北陸地方から運ばれたものです。

また、 わずかですが近畿・東海・東北地方などの土器も見つかっています。

これらの品々のうち、 黒曜石やヒスイは、このムラを中継地点として、さらに複数のムラへ運ばれたと考えられています。

 

1.4.7  縄文時代後期

丘陵からおりる人々

多摩ニュータウン地域では、 後期前半(約4,000年前) までのムラは、少ないながらもみられます。

この時期の遺跡からは、石を規則的に並べた配石遺構などの特殊な遺構やまつりで使われたと思われる道具が多く見つかります。

これらの道具には、丘陵人の安寧や豊かさへの祈りが込められているのでしょう。

後期後半になると、人々はなぜかこの丘陵からいっせいに姿を消してしまいます。

 

1.4.8  弥生時代

米作りがはじまった頃

二千数百年前、大陸の影響により、 米作りや金属の使用が始まりました。

しかし、 この新しい文化が関東に伝わるのはやや遅れて、途絶えていた人々の姿がこの丘陵に戻ってくるのは弥生時代中期になってからです。

中期後半にはムラも出現し、 方形周溝墓と呼ばれるリーダーの墓もつくられますが、遺跡は多摩ニュータウンの南西部に限られ、その数も多くありません。

低地から離れた尾根頂部を生活の場を選んだ理由は何だったのでしょうか。

 

1.4.9  古墳時代前期

列島各地に前方後円墳が出現した頃

近畿地方では、大王を中心とするヤマト政権が各地の豪族との結びつきを強め、支配力を及ぼしていきます。

それを示すように、3世紀後半以降、 列島各地に前方後円墳などの大きな古墳(墓)がつくられるようになりました。

この多摩丘陵でも、低い墳丘をもつ周溝墓が出現し、南西部では複数のムラが形成されます。 ムラでは鉄製農具の普及により農地の開墾が進み、 開発が一時的に活発化しました。

しかし、ほどなくして人々は再びこの丘陵から姿を消してしまいます。

カマド

5世紀中ごろに朝鮮半島から伝わったとされるカマドは、 熱効率が良いことから、それまでの、床を掘りくぼめて直接火を焚く炉に代わって広く普及しました。

そして、 ガスコンロが普及する近代まで、 調理施設として使われ続けることになります。

1.4.10      古墳時代後期

台頭する新興勢力

6~7世紀になると、 4世紀後半以降、人の活動が途絶えていた丘陵に古墳群や横穴墓群が出現します。

これらの墓には、 新たにこの丘陵に移り住んだ集団の有力者とその親族が葬られたと考えられます。

彼らは、丘陵の開墾や、 土器 木器作りなどの手工業生産を生業としていました。

この頃の住居には、 朝鮮半島から伝わったカマドが普及し、日常生活のうえでも大きな変革があった時代です。

石積みを有する横穴墓

横穴墓とは、崖や斜面をくり貫き、 内部に河原石などを敷き詰めて墓室を形成した

ものです。

横穴墓は複数で掘削されることが多く、 多摩ニュータウン地域およびその周辺からは、 12 群46基が発見されています。

No.313 遺跡では、墓の入口に大規模な石積みのある横穴墓が発見されました。

横穴墓の内外からは六窓鍔をもつ大刀や鉄鏃をはじめ、 遠く静岡県の浜名湖西岸で生産された須恵器大甕やフラスコ形長頸瓶などが発見されました。

1.4.11      奈良時代

窯業生産と丘陵開発の進展

710(和銅3)年、 飛鳥の藤原京から奈良の平城京に都が遷され、本格的な律令国家が建設されました。

武蔵国の国府 国分寺が近隣に設置されたこともあり、多摩丘陵での瓦や須恵器などの生産が活発になります。

その際、 丘陵の豊富な粘土と燃料としての木材資源がさかんに利用されました。

No.342 遺跡 No.446 遺跡、 No.513 遺跡などからは、瓦や須恵器を焼いた窯跡が発見されています。 また、 No.107 遺跡からは、 「官」の字の焼印が押された木皿が出土したことから、 役所との関連性がうかがえます。

武蔵国分寺の創建と 「文字瓦」

国分寺創建にあたり、 武蔵国はいくつかの郡などに瓦を献納させました。

多摩ニュータウンNo.513 遺跡の瓦に記された文字も、「多 (田)」は多磨 (麻) 郡、

「兒」は児玉郡、「榛」 は榛沢郡・・・というように、供給元を表すと考えられます。

「多」が最も多いのは、窯が多摩郡内に位置したからですが、 その他の文字の存在は他郡の瓦生産も引き受けていたことを示しています。

国分寺にも近接した大丸地区は、 当時の武蔵国内で最も盛んな窯場だったのです。

1.4.12      平安~鎌倉時代

自立する村と経塚の出現

丘陵の村では鉄の武器や馬具の生産が活発になり、 武蔵国府の衰退に伴い自立化への途を歩みはじめます。

こうした村々が統合されて、手工業や牧などを営む富豪層が現れます。

やがて、かれらは 「つわもの」とよばれる武士団に成長します。

12~13世紀には、 「末法思想」 の流行により、 多摩の富豪層は競って領地内に経典を納めた経塚を築き、 そこを聖地としました。自らの権力を誇示するように、No.513 遺跡の経塚、 落合経塚 (No.650遺跡) が見晴らしのよい丘陵頂部から発見されています。

1.4.13      室町~安土桃山時代

東国武士団の駆ける丘陵

鎌倉幕府が倒れると、 時代は有力な大名が覇を争う動乱の世になっていきました。

交通の要衝であるこの丘陵にも、 武士の居館がいくつか築かれました。

これらの遺跡からは、武家の威信やそれに基づく生活文化を示すように、 中国製や古瀬戸などの上質なやきものなどが出土しています。

また、 城や多量の銭を埋納した遺構なども発見され、当時の緊張した様子もうかがえます。

こうした武士の多くは江戸時代に入ると、武士の身分を捨て村の中心的な存在となっていきました。

1.4.14      江戸時代

江戸と共に生きる村々

徳川幕府の成立により、 江戸の町は世界でも有数の都市に発展しました。

人々の生活を支えるため、周辺の村々でも、 野菜などの生産がさかんになりました。

田畑に適した平地に乏しい丘陵では、 里山の資源を活かし、 燃料用の炭が多く焼かれました。

一方、 村々にも全国各地の産物が江戸を通じて流通するようになりました。

食器をはじめ、 生活用具に様々なやきものが用いられるようになったのも、この頃です。

こうした暮らしぶりは、多摩ニュータウンの開発直前まで名残りをとどめていました。

1.4.15      遺跡

大丸遺跡の模型

大丸(おおまる)遺跡 (No.513遺跡)

稲城市大丸にあった遺跡で、 昭和 56~61年 (1981~86)にかけて発掘調査されました。

現在は平らに削られ住宅地になっていますが、かつては多摩川に面した標高 75m の小高い丘でした。

丘の斜面からは、奈良時代の瓦を焼いた窯跡 15 基や中世の経塚1基、 板碑群3群等が、 丘の頂部からは中世の小規模な城郭 (物見櫓) 跡が発見されました。

ドングリが主食

縄文人の主食は、クリ、クヌギ、クルミ、 コナラ、トチノミといった木の実だったようです。

遺跡からは編みかごに入ったドングリや、 穴の中にたくわえられていたドングリが発見されています。

秋に大量に採れるドングリを家族みんなで拾い集め、年分の食料として大切に保存しながら食べていたようです。

クリ、クルミ、シイの実などはそのまま食べられますが、クヌギ、コナラ、 トチの実などは、 苦味 (アク)がありそのままでは食べられません。

水にさらしたり、 土器でゆでたりと特別な工夫でアクを抜き、 「石皿」 や 「磨石」といった石の道具で調理しながら食べていたようです。

北区西ヶ原貝塚の貝層

本貝塚は、縄文時代中期から晩期の馬蹄形貝塚で、その規模は東西約140m、南北約180mあります。

剥ぎ取り標本資料は、 2007~2008年の発掘調査で発見した後期前葉から中葉 (約 4,200~3,500年前)の貝層です。

使われなくなった竪穴住居の跡地に形成されたもので、 貝種はハマグリやヤマトシジミが多く見受けられます。

なお、 貝塚の西側の一部は、 その重要性をふまえ、平成11年3月に東京都の指定文化財 [史跡] に指定されています。

土器のコレクション。

1.4.16      尾張藩上屋敷の暮らし

尾張藩上屋敷の暮らし (上段)

尾張藩上屋敷跡から出土した陶磁器には、徳川御三家筆頭の家柄にふさわしい上質な明(中国) の青磁・色絵鉢は調度、青花皿は宴会などに用いられたものでしょう

また、奥向き (藩主の奥方達が住むエリア)辺りからは、 京焼や有田焼の雅な化粧道具などもみつかっています。

尾張藩上屋敷の暮らし (下段)

江戸時代は、道具の種類が飛躍的に増えた時代です。

例えば、 石を素材としたものには、刃物を研ぐ砥石、硯、温めて懐中にいれ暖をとる温石(おんじゃく)、 垢擦(あかすり)の軽石、 火打ち石や碁石などが見つかっています。

この他、台所用品 (杓子)、 照明具 (燭台)、嗜好具(煙管・きせる)、玩具(貝合わせ泥面子・賽子)、装身具 (簪・笄)、毛抜きなど、多くの素材を駆使して、様々な用途の道具が作りだされています。

1.5      都心の遺跡

新橋駅のにぎわい

旧新橋停車場は、 明治5年(1872) に日本初の鉄道起点駅として開業、 大正3年(1914)に東京駅にその座を譲るまで東京の玄関口としての役割を果たしました。

汐留遺跡出土品には、開業当初に技術指導を仰いだお雇い外国人の生活用具、 小形の電気機器に用いたダニエル電池やインク瓶などの事務用品、汽車土瓶 (駅弁と共に売られたお茶の容器) など、 当時の駅の様々な側面を見出すことができます。

打ち割られた仙台藩の宴席用食器

仙台藩伊達家上屋敷の中て見つかった江戸時代後期の地下室の一つから、大皿など各種の宴席用食器百数十個が、粉々に割られた状態で出土しました。

これらが破棄された理由を示す記録は見つかっていませんが、この頃、藩の財政は非常に逼迫していましたので、財政緊縮の一環だったのかもしれません。

百万都市を支えた上水道

地面の下に網の目のように巡らされた木樋 (水道管)。

都心区の遺跡では、こうした光景をよく目にします。

幕府が整備した神田上水・玉川上水は、江戸市中の人々の生活を潤し、人口百万を擁する世界最大の都市へと発展する礎の一つとなりました。

玉川上水は近代水道にも取り込まれ、昭和40年まで水源として活用されていました。

2       縄文の村

遺跡庭園 縄文の村

多摩丘陵には縄文時代の遺跡が数多くあります。

この遺跡庭園もそうした縄文時代の遺跡の一つで、遺跡を壊さないように盛土をしてつくりました。

竪穴住居のまわりには当時の樹木や野草を植え、湧水もその場に再現しました。

庭園の中に入って縄文時代の生活に思いをはせて下さい。

東京都指定史跡

多摩ニュータウンNo.15遺跡

所在地 多摩市落合1-14-2

指定 平成元年3月24日

多摩ニュータウンNo.15遺跡は、縄文時代前期 前半と中期後半の集落遺跡です。

昭和四五年に 行なわれた発掘調査によって、縄文時代前期前半の竪穴住居跡が二軒、中期後半の竪穴住居跡 が八軒確認されました。

このなかには中期末の いわゆる敷石住居が三軒含まれていました。

また縄文時代早期の、獣の捕獲に利用されたと考えられる陥し穴も検出されています。

発見された住居は一〇軒ですが、同時期に存在した住居は二~三軒であったことが出土資料の検討から 判明しています。

なお丘陵先端部からは旧石器 時代に属する石器類も出土しています。

現在遺跡には、縄文時代前期前半と中期後半 の竪穴住居が各一軒復元され、中期末の敷石住 居も一軒移設されています。

これら 復元住居 の周囲には、当時の多摩丘陵に生育していたと 考えられる樹木が植栽されています。

平成二二年三月 建設

東京都教育委員会

2.1       敷石住居 縄文時代中期終末(A棟)

敷石住居 縄文時代中期終末

今から4,500 年前ごろ、 関東地方を中心に住居の床に平らな石を敷き詰める敷石住居が広く流行しました。

多摩ニュータウン地域でも、 敷石住居跡の発見例が多く、この No.57 遺跡からも3軒発見されています。

ここに復元したのは、八王子市堀之内の No.796 遺跡で発見された敷石を移築したものです。

 

2.2      湧水跡(わきみずあと)

湧水跡(わきみずあと)

縄文人も現代人も水の得やすい場所に住居をつくることには変わりがありません。

この湧水跡は、江戸時代から続く農家の生活用水として最近まで使われていましたが、涸れることはなかったそうです。

おそらく、ここに集落を残した縄文時代の人々も、この湧水を利用して生活を営んでいたことでしょう。

この湧水は、昭和後期までは実際に水が湧き出ていましたが、 その後、いろいろな建物などができるにつれて、 残念なことに涸れてしまいました。

 

2.3      竪穴住居(B棟)

竪穴住居

縄文時代前期

縄文時代の住居は、地面を掘り下げて柱を立て、その上に屋根を葺いたものでした。

この復元住居は、今から約 6,500年前の もので、南北に長い長方形です。

竪穴の形状 は、その後円形に変わり、後期中頃 (今から 約3,800年前) 以降にはふたたび方形となります。

 

2.4      竪穴住居 縄文時代中期後半(C棟)

保存ために火焚きを行っていました。

竪穴住居 縄文時代中期後半

縄文時代の竪穴住居の平面の形は、時期や地域により違いがあります。

この住居は鉄塔東側で発見された、 今から約 4,500年前の住居跡をモデルにして復元しました。

この住居は約 5m×4mの大きさでやや楕円形をしています。

入口部には、死産した新生児などを葬ったと考えられる土器が埋められていました。

 

2.5      竪穴住居の模型(D)

No.57 遺跡のあらまし

この場所は、北側の乞田川に向かって舌状にのびる台地の 上に残された、 典型的な縄文時代集落の跡でした。

発掘調査に よって、 住居跡などが発見されました。

調査した範囲には芝を植え、 住居跡2軒分を、もとの位置の 上に模型で表示しました。

 

2.6      縄文の森

縄文時代の森

縄文人にとって森は、 生活をするうえで重要なところでした。

春は 山菜、秋は木の実や山芋などの採取、冬はシカやイノシシなどの狩りにあけくれ、 また日々のくらしの道具の材料から住居の建築材まで、 多くのものを森に求めていました。

遺跡庭園には、 約50種の樹木を植えて、その当時の森を再現しました。

縄文人は住居近辺に有用な木、例えば、栗、クルミ、トチノキといった実のなる木を残し、それ以外の木は松明として伐採していったと言われています。

狩猟生活のため定住してなかったともいわれていますが、完全な移動生活ではなく、河川敷などの便利な場所には長く居たのではないかと考えられています。

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