史跡

大徳寺は沢山の塔頭を持つ巨大寺院、枯山水が有名

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大徳寺(だいとくじ)は、京都市北区紫野にある臨済宗大徳寺派の大本山で、山号は龍宝山です。鎌倉時代末期の1315年、宗峰妙超(大燈国師)により開創されました。

応仁の乱で焼失したものの、一休さんとして知られる一休宗純が復興に尽力

安土桃山時代には豊臣秀吉が、織田信長の葬儀を行い、菩提寺(総見院)を建立したほか、諸大名が競って子院(塔頭)を建てたことで隆盛を極めました。

茶道とのゆかりが非常に深い寺院としても有名です。千利休をはじめとする数々の茶人が参禅し、茶の湯文化の中心的舞台となりました。

利休が二層目を増築したとされる三門「金毛閣」は、その上に自身の木像を安置したことが豊臣秀吉の怒りを買い、切腹へ至る原因の一つになったという逸話で知られています。

広大な境内には国宝の唐門や重要文化財の仏殿・法堂などの禅宗伽藍が立ち並び、20を超える名刹塔頭が点在しています。大仙院や高桐院をはじめとする美しい枯山水庭園や数々の国宝・重文級の文化財を擁し、今なお格調高い禅の雰囲気を伝えています。

朝鮮通信使ゆかりの地

大德寺

近世の大徳寺には朝鮮国の外交使節団が四度滞在している。

最初は一五九〇(天正十八)年のことである。

この時 朝鮮・中国へ侵略を準備していた豊臣秀吉は朝鮮国王の朝貢入洛を求めた。

これに対して対馬島主らが「秀吉の天下統一祝賀」に名目をすり替えて使節団派遣を朝鮮側に依頼し、実現にこぎつけた。

一行約三百名は同年七月二一日に大徳寺入りし、総見院などに宿泊した。

やがて秀吉の命令で文禄・慶長の役(任辰倭乱・イムジンウェラン)が始まる。

一六〇七(慶長十二)年、戦後初めての朝鮮節団約五百名が 寺に宿泊した。

徳川家康の国書に対する朝鮮国王の回答国書を携行し、あわせて戦中の民向被虜人を連れ帰ることが目的だった。

通信使の正使らは天瑞院、その他の随員は総見院、真珠庵、護衛の対馬藩主や五山僧は興臨庵、聚光院、大仙院などで宿泊した。

京都所司代は蹴鞠や猿回しを呼んで歓待した。

三度目は一六一七(元和三)年、四度目は一六二四(寛永元)年で、宿館には連行されて京都近辺で日本の主人に仕えていた被慮人が訪れ、帰国を促した通信使の随員たちから家郷の消息を聞いて慟哭する場面もあった。

 

1       南門

大徳寺の駐車場側の南門から入場します。

大徳寺の内側から南門を撮影。

南門から入ってすぐ左に曲がります。

 

2       龍源院

龍源院の沿革

京都紫野の臨済宗大徳寺の塔頭で、 南派の法源地本院として、由緒の殊(ゆいしょのこと)に深く、 朱色の大徳寺山門の前に、 厳然と位置している大徳寺の中でも古い寺である。

その名称も大徳寺の山号〔龍寶山〕 の “龍” と、 今日の臨済禅で唯だ一つのみ存続している松源一脈の“源” の両字よりなっている。

今より約500年前、 文亀2年 (1502) 大徳寺のご開祖、大灯国師より第八代の法孫である東溪宗牧禅師 (時の後柏原天皇より特に仏恵大円禅師の号を賜わる。=1455~1517) を開祖として、 能登 (石川県) の領主であった畠山義元公、 九州の都総督であった大友義長公 (大友宗麟の祖父) らが創建された。

明治の初め頃、 神仏分離によって現在大阪の住吉神社の内に在った往時の慈恩寺と、 岐阜高山城主金森長近公が大徳寺に創建した金竜院とを合併して、今日に至っている。

 

2.1      表門 (重要文化財)

方丈・附玄関と共に同時代の建立である。 四脚門切妻造、 檜皮ぶき。

2.2      滹沱底 (こだてい)

滹沱底 (こだてい)

別名:阿・吽の石庭 (あ・うんのせきてい)

書院軒先の石庭で、 滹沱底といいます。

滹沱とは、中国の河北省鎮州城にある宗祖臨済禅師の住庵した寺の南に流れる河の名で、 後来吾宗の正豚を伝えることを言います。

別名阿吽の石庭といい、 阿吽とは吸う息、吐く息で、 天と地、 陰と陽、男と女、電流の+ と-と、 どの一つをも切り離すことの出来ない宇宙の真理をそのままに表現しているのがこの石庭です。

東・西の基礎石は昔秀吉が建てた聚楽第のものです。

 

滹沱底は、写真上にあるドーナツ状の石の事です。

2.3      東滴壺 (とうてきこ)

日本最小の石庭といわれ、 極めて小さな石庭でありながら格調高く殊に有名です。

庭の右側に平たい一枚の板石が置かれ円い波紋は一滴の水が滴り落ちる姿を表わしています。

一滴の水が小川となり大河となり、ついには大海となる様に、一滴の大切さ、一滴がそのまま大海につながっている事を表現しています。

 

2.4      方丈(重要文化財)

室町時代の禅宗方丈建築として、 その遺構を完全にとどめている唯だ一つのもので、我が国の建築史上、最も枢要な存在である。

方丈の棟瓦は、 附玄関、 表門の棟瓦と共に、京都八坂神社楼門の棟瓦と同じ室町時代最古の様式のものである。

一重入母屋造、檜皮ぶき。

2.5      井戸

2.6      一枝坦(いっしだん)

龍源院の方丈前庭を“一枝担” という。

これは当院開祖の東溪禅師 (1454~1518) が、 釈尊の拈華微笑(ねんげみしょう)という一則の因縁によって大悟せられ、その師、 実伝和尚より賜った室号の、霊山一枝之軒(りょうぜんいっしのけん)より銘されている。

この一枝坦には曽(かつ)て樹齢七百有余年を経た中国種の、 山茶花 “楊貴妃”という老木が生い茂り、11月中頃より翌年の4月頃まで、 真紅の花を一面に咲かせてあまりにも有名であったが、惜しきことに昭和55年春、 樹齢つきて枯れ去ってしまった。

蓬莱山とは仙人の住む不老長寿の吉祥の島である。

庭の中央右よりの石組が蓬莱山を現し、 右隅の石組が鶴島であり、 左の方の円い形の苔山が亀島で、 白い砂が大海原を現している。

この雑物一つなきそのままの端的な独創性の作庭は、おそらく他に全く類をみない庭園であろうかと思われる。

2.7      開祖堂

2.8      龍吟庭(りょうぎんてい)

室町時代に造られた須弥山式の枯山水で、 大徳寺では最も古く、真の禅院庭園として有名です。

三尊石組からなり、中央に突出している石が須弥山で一面の苔が大海を表しています。

須弥山とは佛説でこのように説明されています。

「私たちの宇宙世界は九つの山と八の海からなり、 その中心が須弥山と云い高さも深さも八万由旬とはかり知れません。

これが私たち本来具え有している絶対的人間性で、誰も窺い犯すことの出来ない本来の姿です。」

これを表しているのがこの龍吟庭で、これを自ら発見することが禅の覚りです。

右手廊下より見ますと石組みの線がわかります。

 

3       勅使門

勅使門(ちょくしもん)は、天皇の使者である「勅使(ちょくし)」が通るためだけに設けられた特別で格の高い門です。

4       山門(金毛閣(きんもうかく))

千利休が二層目を増築した際、禅の言葉である「金毛の獅子(悟りを開いた優秀な禅僧の例え)」にちなんで「金毛閣」と命名されました。

5       瑞峯院

瑞峯院の沿革

当院は、室町時代の九州豊前豊後の領主でキリシタン大名として有名な大友宗麟公が、大徳寺開山大燈国師から法系第九十一世徹岫宗九禅師に帰依し、禅師を開祖として創建された寺です。

大友義鎮公と申しておりましたが、二十二歳の折に得度を受け、宗麟と名を改め、瑞峯院殿瑞峯宗麟居士を以って、寺号を瑞峯院となっております。

又徹岫禅師は、後奈良天皇の御帰崇を蒙り普応大満国師の称号を賜り、上杉謙信公の青年時代、景虎公に禅の指導をし、宗心居士の名を与えております。

瑞峯院

当院開祖徹宗九禅師の大満田師は後奈良天皇やキリシタン大名として有名な大友宗麟公また上杉謙信公の御帰依あつく大友宗麟公自家の菩提寺として天文五年(三五三六年)に瑞峯院が建立され方丈(重文)唐門表門(重文)はその当時の建物です。

 

 

5.1      独坐庭

独坐庭

荒波に打ち寄せられても雄々と独生している蓬莱山の風景です

さわがしく忙しい日々の生活ひとときを静かに座ってこの蓬莱山のように雄大な泰然とした心境を体得したい!!

5.2      開眼庭 (十字架の庭)

閑眠高臥して青山に対す〟の禅語から銘じられ、閑眠庭と呼んでいます。

開基大友宗麟公が、晩年キリスト教を保護したり、宣教師フランシスコ・ザビエルについて、 洗礼を受けたりして、キリシタン大名として知られていることから、中庭にあるキリシタン灯籠を中心に、七個の石組からなり、縦に四個、横に三個の石の流れが十字架に組まれ、万民の霊を弔っております。

いずれも、これらの庭園は作庭界の権威重森三玲氏によって造られました。

方丈前の厳しい独坐庭、茶席、この静かな方丈裏の閑眠庭へと、大自然の境地に溶けこんで、日頃の忙しさを忘れ、本来のおだやかな自分にかえりたいものです。

安勝軒

表千家斎宗匠の指示により三畳台目 送勝手席と三畳角炉の席

 

開眼庭 (十字架の庭)

大友宗麟谷はキリシタン大名でしたので横に三ヶたてに四ヶの石の流れを十字架に組れ

万民の霊を弔っております

6       興臨院

大永年間に能登の戦国大名・畠山義総(よしふさ)が、小渓紹キン(しょうけいじょうきん)を開山として建立しました。

 

前田家とのゆかり:畠山氏の没落後、加賀藩主・前田利家によって修復され、以降は前田家の菩提寺として手厚く保護されました。

 

貴重な建築遺構:本堂(方丈)と表門(興臨院門)は国指定の重要文化財です。特に本堂は禅宗建築の代表的な遺構で、室町時代の建築様式を今に伝えています。表門は「興臨院の蛇腹門」とも呼ばれ、風格ある姿を見せます。

 

見どころと庭園:方丈前庭は、昭和の名造園家・中根金作によって復元された枯山水庭園です。大きな石組みと白い砂紋、苔が調和した静寂な空間が広がります。また、千利休の意匠を模した茶室「涵虚亭(かんきょてい)」を備えていることでも知られます。

 

通常は非公開ですが、春や秋の特別公開時期には拝観が可能となり、多くの参拝者が訪れます。

たまたま訪問した時は「夏の季節の拝観」見学できましたが、今回は見ずに帰りました。

7       仏殿

大徳寺のイブキ

大徳寺の現在の仏殿は寛文五年(一六六五)に再建されたものであるが、このイブキも、そのころに植栽されたものと思われる。

イブキは、ヒノキ科ビャクシン属の高木で、日本では本州(宮城県以南)・四国・九州に分布する。

イブキビャクシン又は単にビャクシンと呼ばれることもある。

一般に長命の木であるが、これほどの大木になることは稀であり、貴重である。

昭和五十八年六月一日京都市指定天然記念物に指定された。

京都市

8       三玄院(さんげんいん)

三玄院(さんげんいん)

天正十七年(一五八九) 浅野幸長・石田三成・森忠政(蘭丸の弟)が、春屋宗園和尚(大宝円鑑国師)を開祖とし、創建した。

弟子には、沢庵・玉室・江月・天祐和尚らがいる。

近衛信尹・黒田長政・藪内剣仲・古田織部・上田宗箇・小堀遠州・千少庵・長谷川等伯らは、春屋和尚に禅を学んだ人々である。

千宗旦(利休の孫)も幼少から修行をしていた寺で、茶道に与えた影響は大きく、大徳寺の法灯にも精彩を加えた。

三成・忠政・剣仲・織部・久我敦通・寺沢正成・桑山重晴・船越伊予守・名護屋山三郎(忠政の義弟)らの墓が祀られている。

織部好みの三畳台目・八窓の茶室「篁庵」(江戸時代建築)があり、本堂襖絵の龍と八方睨みの虎や四季花鳥図は、原在中の筆による。

京都市

 

9       大徳寺

大徳寺の広大な敷地内には、数多くの「塔頭(たっちゅう:小寺院)」が立ち並んでいますが、その中心・中央区画に位置しているのが大徳寺の本尊や伽藍(主要な建物)が集まる大徳寺の本坊(本山)です。

マップ上の「大徳寺」という表記は、具体的には以下の中心伽藍群を指しています。

仏殿(本堂):本尊の釈迦如来像が安置されている中心的なお堂。

法堂(はっとう):説法などを行うお堂で、天井には狩野探幽の「雲龍図」が描かれています。

三門(金毛閣):千利休にゆかりがあり、秀吉との不和・切腹のきっかけとなったことで有名です。

本坊(方丈・唐門):国宝に指定されている方丈や唐門がある、大徳寺の中枢部です。

周囲の興臨院や大仙院、龍源院などはすべてこの「大徳寺」に属する子院(塔頭)であり、中央の区画にある「大徳寺」こそが正真正銘の本体(本山)ということになります。

大徳寺

臨済宗大徳寺派の大本山で、広い寺域に別院二ヶ寺と二十一の塔頭を有する。

鎌倉末期の正和四年(一三一五)に、大燈国師(宗峰妙超)により開創され、花園上皇と後醍醐天皇の厚い帰依を受けた。

室町時代には、幕府の保護を辞退して在野の禅院として独自の立場を貫いた。

応仁の乱で建造物は焼失したが、「一休さん」として親しまれている四十七世住持の一休宗純が堺の豪商の庇護を受けて復興し、豊臣秀吉や諸大名により建造物や寺領が寄進され、江戸時代初期に現在の建造物はほとんど整えられた。

三門・仏殿・法堂・経蔵・庫裏(以上いずれも重要文化財)・方丈(国宝)など、主要建造物がすべて保存され、禅宗の典型的な伽藍配置を示している。

唐門(国宝)は聚楽第の遺構と伝えられており、豪華な彫刻に飾られた桃山時代の代表的建造物である。

方丈の室内を飾る狩野探幽の襖絵 (重要文化財)をはじめ、書画、古文書などの多くの寺宝を蔵する。

茶祖・村田珠光、千利休など多くの茶人の帰依を受け、茶道とのかかわりが深い。

京都市

見学はできません。

10  真珠庵

大仙院の奥にあります。

大徳寺の塔頭寺院の一つです。室町時代の高僧・一休宗純(一休さん)を開山とし、一休の没後、その弟子や信徒らによって1491年に建立されました。

一休宗純ゆかりの寺:一休の遺徳を偲ぶ寺院として知られ、境内の庫裏や本堂などには一休ゆかりの品々や歴史的重要文化財が多く伝わります。

 

11  大仙院

三世(さんぜい)の古渓和尚(こけいおしょう)は、豊臣秀吉の怒りにふれて、加茂の河原でさらし首にされた千利休の首を寺に持ち帰り、手厚く葬りました。

由緒ある寺の歴史の中で、このことは特に有名な話で、そのため利休を中心とする茶道とのつながりが最も深いお寺でもあります。

大徳寺の塔頭の一つで、大徳寺北派の本庵である。

永正六年(一五〇九)に六角近江守政頼の子・古嶽宗亘(こがくそうこう大徳寺七十六世住職)を開祖として創建された。

本堂(方丈)は創建当時の建物で、内部の床の間と玄関は日本最古といわれ、方丈建築としても最も古い遺構の一つとして国宝に指定されている。

書院も入母屋造で重要文化財である。

相阿弥の山水画、狩野元信の四季花鳥図、狩野之信の四季耕作図(すべて重要文化財)など、襖絵は室町時代の名作障壁画として名高い。

庭園は、室町時代の枯山水を代表する名庭といわれ、狭い庭に白砂と無数の岩石を配して、山と滝と渓流を見事に表しており、国の史跡及び特別名勝に指定されている。

歴代和尚には、千利休と懇意にしていた古渓宗陳和尚、紫衣事件で徳川幕府に一歩もひかなかった澤庵宗彭和尚がいる。

京都市

 

 

11.1  玄関(国宝)

国宝玄関

平生からの身だしなみの良い生活は、各人の人格を立派に飾りつける奥深い玄関であるとする禅の考え方が日本に入って来ると、建物そのものにも、 玄々たる関門, 奥深い関所, 玄関が設けられる。

当初のものは、 玄関そのものが、このように奥深い廊下の形を持っていた(1509年建築, 日本最古)。

京都の禅寺を歩くと, 玄関に脚下照顧の字を見るが, 他人にあなどられる事のないように、日常生活を注意し, 加えて、 はき物の並べ方を注意したものである。

 

11.2  方丈

国宝方丈

方丈建築とは, 従来の神や仏, そして支配階級を飾りつけるための建物であった寝殿りを,禅寺で生活に便利なように工夫改造したもので、 現代住宅のさきがけと言える。

大仙院の方丈は,その最も古いものの一つである(1509年建立)。

京都の禅寺のあちこちに良く似た方丈を見かけるが大仙院の方丈はそれらの規範となるものであった。

畳・部屋割り・障子・襖・玄関・床の間と, 中国から持ち帰った日常生活を重ずる新しい禅の考え方は,日本では現在住宅の基盤にまで発展した訳である。

狩野元信筆 「四季花鳥の図」

元信は之信の兄であり、弟と共に狩野派画家の始祖であるこの絵はほゞ中央に老松と奔流する滝を描き、両端に鳥や草をそえた岩と木を置き、その空間に鴨・雉・牡丹・芙蓉蓉・鳥草などを水・岩山・土と共に季節の変化に合わせて据えている。

鮮やかな色彩と共に、この確な構成は、非常に優雅な格調を持っているが、後代の花鳥図に比べて一段と重みを感ずるのは、やはり中国の元明画の本質的な影響によるものと思われる。

狩野之信筆 「四季耕作の図」

之信は元信の弟であり、 共々に狩野派の始祖とされる人である。

これは種まきから収穫までの農耕の生活を春夏秋冬の四季にわたって描いたもの。

非常に引き締った筆法で描かれてはいるが、一面画中の人物でもわかるように大へん叙情味にも溢れた, 之信の最高の傑作である。

室町時代から江戸時代にかけて, 耕作図はよく描かれたが,これは富国の本は農にあり、君主の徳は民の労苦を知るにありとした儒教思想によるものであった。

 

11.3  玄関の石畳

特別な日には、左下を 子とし右回りで丑、寅と十二支を飾るという事でした。

そしてもと来た道を帰りました。

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