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岐阜県中津川市の中山道・中津川宿にある間家大正の蔵

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間家大正の蔵は、岐阜県中津川市の中山道・中津川宿にある歴史的建造物です。

東濃地域屈指の豪商であった間家が、大正6年(1917年)に建てた鉄筋コンクリート3階建ての倉庫で、当時の近代工法を取り入れた建築として貴重なことから、中津川市の指定文化財に指定されています。

館内では中津川の商人や宿場町に関する資料が公開されているほか、敷地内の庭園には1600年頃の作とされる織部灯籠(キリシタン灯籠)や、地域の教育発展に尽力した間家9代目の胸像が移設・建立されており、宿場町の歴史と文化を伝えるスポットとなっています。

間杢右衛門(はざま もくえもん): 一族を美濃へ連れてきました。

織部灯籠:江戸時代初期に茶人・武将であった古田織部(ふるた おりべ)が考案したとされる石灯籠の一種です。茶庭(露地)の定番として広く親しまれています。

入館にあたって

この 「間家大正の蔵」 (旧間家倉庫) は大正6年頃に建てられた鉄筋コンクリート構造の建物で、 平成4年11月に間家から市に寄贈された後、市の有形文化財 (平成7年2月16日)に指定されています。

蔵の構造的特色としては、明治以降の近代的工法と従来の土蔵造りが混在した建築方法が用いられ、発展過程のまっ最中であった当時の鉄筋コンクリート構造の過渡的な状況を如実に現しています。

蔵の所有者であった間家は、 江戸時代の初め頃に中津川村に移り住み、 中津川宿新町に屋敷を構えました。

塩等の仲買業務の商売をはじめ、金銭の貸付けを行って東濃随一の豪商といわれるようになり、また多くの間家一門と共に政治、経済、文化に大きな足跡を残しています。

引き続き明治以降も近代産業や教育の発展に貢献し、常に中津川の経済界をリードしてきた間家が建設したという、歴史的な環境もご理解いただきながら、当時として、 最高の技術で建設された倉庫をごゆっくりご覧ください。

間家のルーツは滋賀県(近江)にあります。

近江を拠点とする京極、蒲生と仕え、間杢右衛門(はざま もくえもん)からその一族が美濃へ移住します。

それが中津川の間家の始まりです。

蔵の1階見取り図

歳々店卸寶集録帳

天保15年(1844)

この帳面は間家八代喜矩が嘉永3年(1850)の時から書き始め、書かれている内容の期間は天保15年(1844) から明治34年(1902) までである。

借金の返済経過、店の運営、金銭の出し入れ等事細かに記載され、質素にして勤勉家であった喜矩の性格が現われている。

一番最初の所には、養子である自分の代でいままでの借金を全て返済したことが記述されている。

赤穂浪士四十七士として有名な間喜兵衛(光延)、間十次郎(光興)、間新六(光風)の「間一族」が輩出されています。

「間家賛歌」

制作年不詳

下田歌子 1854年~1936年

恵那市岩村町生まれ 出生名 平尾勢起(せき・鉐)

教育家、歌人、実践女子大学創設者

明治五年 十八歳で中に出仕し和歌の才を愛でられた明治天皇の皇后 (後の昭憲皇太后) から歌子の名を賜る

家の美挙(学校建設、被災者の義等の活動)を聞き及んで詠んだもの


中津川村銀札

中津川村庄屋肥田家が発行していた銀と交換できる紙幣。

この紙幣には手書きで「卯正月十九日限り」とあり、 一定期間しか通用しなかったことが分かる。

銀一目 (匁) は3.75g で、 小判一両の60分の1に相当し、銀百目は約一両三分 (銭九千文)とほぼ同額で、高額な紙幣であった。

幕末頃に発行されたものと推定されている

中山道宿場通用札

落合宿から鵜沼宿までの区間しか通用しなかった札(紙幣)。

明治2年(1869)に発行された札は「百文」と「五百文」の二種類であった。

表に金額、裏にはそれぞれの宿場の発行元名(問屋)が木版されている。

落合宿は中津川から木曽方面に1つ行った宿です。

間四郎 「峽南録」

昭和3年(1928)、 三十九歳の時から書き綴られた大福帳そっくりの日記帳。

外に歌日記等を含めると八百冊をゆうに越えている。

日常の出来事、スケッチ、 交友録、 葉書、新聞の切り抜き等が収められ、紐解くと「間四郎人生歴史観」 が伺える。

間孔太郎

明治31年(1898) 8月10日、 間鷲郎の長男として中津川に生まれる。

明治維新時に活躍し、また国学者として知られる間秀矩の曾孫に当たり、祖父の元矩は初代中津町長であった。

大正13年(1924)に26才の若さで中津町長となり、以後町長として7期22年、 さらに昭和35年(1960) から市長として2期8年間在職し、前後30年の長きにわたり首長として 郷土中津川のために精魂をかたむけ、 本市発展の礎を築いた。

この自治功労に対して、市は昭和46年(1971)3月8日 「名誉市民」の称号を授与した。

 

間四郎

明治21年(1888)8月4日、 間杢右衛門道矩の四男として中津川に生まれる。

東京高等商業学校(現一橋大学)を明治44年(1911) 卒業。

さらに大正2年(1913) 同校専攻部商工経営科(論文農村問題)を卒業後、三菱合資会社に入社、 大正10年(1921)三菱電機株式会社に移り、昭和12年(1937) 常務取締役に就任。

昭和18年(1943) 中津町に三菱電機中津川工場を誘致する際、大きな役割を果たし成功させた。

本市の工業発展の基礎を固めた功により昭和46年3月、「名誉市民」の称号を授与された。

飾り気のない飄々とした人物で、 書・和歌・絵画等に造詣も深く、昭和3年(1928) の秋から書き綴り ご自身で製本・装丁した和綴じの日記 「峡南録」 (腰間録)が残されている。

日記に収められている膨大な見聞録やハガキ、新聞などの切り抜きは貴重な資料となっている。

地元の名士として発展を遂げた中津川・間一族の歴史と威光を伝える展示でした。

 

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