史跡 美術館/博物館

栃木県佐野市の佐野城址

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旅の起点である佐野駅はJR両毛線と東部佐野線が乗り入れています。

 

1        藤原秀郷と佐藤の会

東部佐野線の佐野駅に着くと、「佐藤の会」の、のぼりが目につきました。

それにしては、のぼりのイラストは藤原秀郷と書いてあります。

一体、「佐藤の会」との関連性は何でしょうか。

その答えは、「佐藤の会」のHPに書いてありました。

佐藤姓の祖!? 藤原秀郷

藤原秀郷(ひでさと)は、平安時代の中ごろに活躍した武将で、中世東国武士の祖とされています。平将門の乱を鎮圧したことをきっかけに、秀郷は歴史の表舞台に登場しました。

秀郷の子孫には平泉の奥州藤原氏や歌人・西行を生んだ紀伊佐藤氏をはじめ、下野でも小山氏・長沼氏(のち皆川氏)・佐野氏・小野寺氏などの有力武士団が生まれました。以上のように、全国に広がった秀郷流武士団はまさに源平と並ぶ名門武士団と称しても過言ではありません。

そして、武芸の開祖と仰がれた秀郷の勇猛な戦いぶりは、超人的な武芸によって内乱を鎮め、大ムカデを退治したという「俵藤太」伝説をはじめとして、多くの物語や絵巻物に取り上げられ、ひろく親しまれています。

現在、全国に200万人いる「佐藤」の名字は、藤原姓を起源とする説が有力。佐藤の名字が台頭した経緯については諸説ありますが、佐野には歴史上の偉人である藤原秀郷の居城があったため、下野国佐野の地名に由来し、佐野の藤原で「佐藤」とする説が有力とされています。

「佐藤の会」HPから

もっとも「「佐藤姓」のルーツは、藤原秀郷ゆかりの地、佐野市かもしれません」と書いてありますので、ほとんど希望の範疇です。

ところで、藤原秀郷と百足(むかで)と呼ばれた近江国三上山に住む民との闘いの様子が、下記の小説には少し書かれています。

藤原秀郷の出て来るものは少ないので読んでいて嬉しくなりました。

結果は不幸なことになりましたが、それが、次の乱に連鎖します。

今まで歴史小説家があまり題材にしない平安時代の「大江山の鬼退治」に係る小説で結構楽しめます。

 

2        佐野城址

さて、駅の北口方面に広がる佐野城址に向かいます。

駅の北側は街が見渡せる丘になっていて、築城には理想的な場所に見えます。

2.1         三の丸

佐野駅北の城址公園口を出たところが遊具のある三の丸の城址です。

 

鐘撞き堂のような休憩所も公園の隅にありました。

2.2         城址碑

三の丸と二の丸の間に、城址碑が立っています。

佐野城は別名・春日岡城とも言われ、その地名には、延暦元年(782)藤原藤成がこの丘に春日明神を祭ったことに由来すると伝えられています。

慶長七年(1602)唐沢山城主・佐野信吉は、当時この地にあった惣宗寺(佐野厄除大師)を移転させるとともに、築城と町割を開始しました。

今日見られる佐野の街は、当時の佐野城を中心とした町づくりがその原形となっています。

佐野氏は、慶長12年(1607)唐沢山城を廃してこの地に移ったが、同19年(1614)所領を没収されて改易となり、築城後間もなく城は廃城となってしまいました。

城は独立丘陵を利用した連郭式の平山城で、南から三の丸・二の丸・本丸・北出丸と直線的に続く郭で築かれています。

これら縄張の主郭部は、全体で110m・南北390mの規模を有し、それぞれの間は空堀で区切られ、内堀へと続いていました。

現在、内堀から外堀の範囲は市街化が進み、完全に埋め立てられていますが、主郭部は当時の城割の姿を良好に留めており、貴重な歴史文化として後世に伝えるべく史跡・名勝(城山公園)に指定されています。

 

2.3         城山記念館

お城に関する簡単な展示がありました。

上のパネルに記載された、佐野信吉(さの のぶよし)は、安土桃山時代から江戸時代前期の大名です。

豊臣秀吉の奉行衆富田一白(長家)の五男として生まれましたが、天正20年(文禄元年:1592年)9月22日、下野国の戦国大名・佐野房綱の養嗣子となって佐野政綱と名を改め、佐野氏の家督を継ぎました。

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは東軍方に味方し、北方への抑えとなる働きをしています。

しかし、豊臣家に縁深いことがあだとなり、伊予宇和島藩主の兄富田信高の改易に連座する形で改易され、嫡男の久綱とともに信濃松本藩主小笠原秀政に預かりの身となりました。

2.4         二の丸

城山記念館も二の丸の中にあります。

記念館の近くに池があり、夏には子供達の水遊び場になりそうです。

 

二の丸と本丸の間は空堀で分断され橋が架かっています。

 

空堀は現在遊歩道となっています。

2.5         本丸

佐野城本丸の石畳と石垣
平成四年度の発掘調査で、佐野城本丸から石畳の通路と石垣が発見された。
石畳は、東西二・六メートル、南北五・六メートルほどの範囲で確認され、東部には水路と思われる幅二〇センチ、深さ二〇センチの溝がある。
石垣は、最も良く残っている部分で、長さ六・四メートル、高さ一・四メートルで、いずれも細長かくれきい角礫を使用している。
この東斜面には井戸跡もあり、石畳と石垣は、ここへの通路の一部であった可能性が高い。
出土した石畳と石垣は、形状を損なうおそれがあり、保存のために埋め戻しを行なっている。
現在、埋め戻した石垣と通路に沿って、この付近から出土した石を並べている。
平成六年十月
佐野市教育委員会

本丸からは街が見下ろせます。

昔のお殿様は、毎日眼下に広がる家臣や庶民の家並みを見て過ごしていたのでしょう。

2.6         北出丸

この場所は、「北出丸」あるいは「鐘の丸」といわれ、本丸の北側を守る場所です。

江戸時代の記録には、東西約46m、南北約54mと記されていますが、建造物等の詳細については不明です。

平成元年に一部発掘調査が行われ、テラスが建設された場所には、岩盤をくり抜いた柱穴と思われる遺構が発見され、多量の瓦も出土し、「隅やぐら」(見張台)の跡とも考えられます。

また、西側の階段周辺には、「搦手」(城の裏口)があったと考えられ、防御の点からも複雑な地形を構成しており、重要な場所であったことが確認された。

平成元年

佐野市

佐野城は周囲を見渡せる小高い丘に建っていましたが、戦略的に防衛に適しているという訳ではなく、交通の要所であることが重要であったように思えます。

佐野氏が、もう少し奥にある唐沢山城からこの地に移って来たのが関ケ原後の慶長12年(1607)の事ですから、すでに戦国の世は終わり、平和な時代の城として人の行き交う場所を選んで建てられたのだと思います。

 

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