美術館/博物館

高遠町歴史博物館と絵島囲み屋敷

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高遠町歴史博物館は、高遠城址のすぐ近くにあり、地域の歴史や文化を展示しています。以下は主な展示品の内容です:

貴船社の山車:船の形をした珍しい山車で、市の有形文化財に指定されています。

釣手土器:縄文時代中期の土器で、祭祀に使用されたと考えられています。

周発台模型:砲術家・阪本天山が発明した砲架の実物大模型です。

高遠城郭想定復元模型:江戸末期の高遠城を500分の1スケールで再現した模型です。

五聖像:孔子と儒教の四賢人の木像で、高遠藩藩校・進徳館に祀られていたものです。

また、館内には「絵島囲み屋敷」の復元や、桜の映像を楽しめる「桜シアター」もあります。

1        貴船神社 山車

貴船神社 山車

伊那市指定有形文化財

(伊那市高遠町藤沢荒町貴船神社)

貴船神社は、永禄 (1558~1569)の終りから天正 (1573~1591) の初めころ、山城国愛宕郡貴船の里(現京都府)より勧請された神社です。

水神様である高龗神(たかおかみのかみ)を祀っており、祈雨の神として信仰され、四月中旬に例祭が実施されています。

この山車は、高さ約4.4メートル、幅約2.5メートル、長さ約7メートル。

平成17年に伊那市文化財の指定を受け、その翌年、荒町区より伊那市に寄贈されたものです。

高遠藩主だった保科正之公が、寛永13年(1636) に出羽山形藩に転封された際に寄進したものが前身で、 その後、江戸時代に造られた2代目とされています。

棟束(むなづか)や懸魚(げぎょ)などの古い部分は、享保(1716~1736) 頃の様式で、2階正面の小脇壁は中国の故事「寒山拾得(かんざんじっとく)」 1階の簾(すだれ)には酒の湖でおわんに乗る伝説上の動物 「猩々(しょうじょう)」 が色鮮やかに描かれています。

大正12年(1923) 頃まで神社の例祭で、 騎馬行列の最後尾に付いて引き回され、雰囲気を盛り上げていました。

鉾持(ほこじ)神社の例祭には人形で飾った山車が出ます。

江戸時代には、 その上で子どもによる 「忠臣蔵」 などの手踊り狂言が行われました。

仲町の山車は嘉政5年(1852) につくられたもので、 大工棟梁は宮下久右衛門、 彫刻は立川儀兵衛など名工が腕をふるいました。

この山車はいまも、 灯籠祭りの際には紅白の幔幕(まんまく)で飾られて町へ引き出され、お練り行列に華やかさと格式を添えています。

 

2        縄文土器

伊那市内の縄文集落

伊那市には360か所をこえる縄文時代の遺跡があります。

縄文時代の集落は、台地のがけ寄りで、近くに沢の水が流れ、風当たりの強すぎない場所が選ばれました。

市内では月見松遺跡と御殿場遺跡が家の跡・土器ともに多く発見されていて、伊那の縄文時代を考える上で重要な遺跡です。

高遠町は縄文時代中期後葉 (4500~4000年ほど前) の遺跡が多いのが特徴です。

今のところ原遺跡の規模が群を抜いています。

山の恵みを求止めて、天竜川方面から移ってきたのかもしれません。

 

3        高遠藩

三代将軍家光の異母弟である保科正之は1631年から1636年まで高遠藩主でした。

 

 

高遠城の変遷

高遠城の最初の記録は「高白斎記」の天文16年(1547)3月8日の記事にある 「高遠山ノ城鍬立」 です。

武田信玄によって今の城址公園の場所に高遠城が築城または改修されたということを示しています。

高遠城は武田勝頼、 武田信廉、 仁科盛信というように武田の一族が続けて城主となりました。

これは高遠が交通の要衝であったためでしょう。

そして、天正10年(1582)3月に織田信忠の軍勢に攻められ、仁科盛信が自刃して果てた後も高遠城は使われます。

徳川氏に取り込まれた保科正直が城主となり、 その後、豊臣系の武将の毛利秀頼 (城代勝斎)、京極高知 (城代岩崎左門)と続き、 多胡へ行っていた保科正光が戻ってきて城主となり、ここから高速藩時代を迎えます。

高遠藩時代の高遠城は絵図が何枚も残されているため、保科家の時代に大手を東から西へ変えていること、城郭の変遷、 城周辺に住んでいた人物などを知ることができます。

享保10年(1725)7月7日には大地震があり、城も被害を受けたため修復しました。

長く使われ続けた高遠城は、 明治5年(1872) に廃城となり、建物は取り壊しや競売による移転でなくなり、更地となりました。

この状況を憂えた旧藩士らが桜の馬場から桜を移植して公園にし、 昭和 11 年 (1936)には高速閣が建設され、 桜の高遠城址公園としてますます整備されていくこととなりました。

天文14年(1545)、200年間続いた高遠氏は武田信玄によって滅ぼされ、2年後に堅固な高遠城が築かれました。

天正10年(1582)、 織田信長は武田攻めを開始。

武田方が次々と敗走・ 降参する中、高遠城に立てこもった仁科五郎盛信(信玄の五男)は、敵方の降伏勧告を退け、3月2日早朝、 織田信忠率いる軍勢の総攻撃を受けました。

織田軍6万に対し、 城兵およそ1000。

多勢に無勢ながらひるむことなく、激しい戦闘を繰り広げ、 盛信は落城とともに自害しましたが、この戦いは武田勢唯一の本格的な抵抗として特筆されます。

江戸時代の藩主

江戸時代の高遠藩主は保科家、鳥居家、内藤家と変わりました。

最初の藩主は保科正光です。

慶長5年(1600)、2万5千石の禄高で最初の高遠藩主となり、翌年に城へ入りました。

その後は徳川秀忠の息子で養子となった正之が2代藩主となります。

正之は徳川家光に認められ、寛永13年(1636) 20 万石の最上藩主となり、その後23万石の会津藩主となりました。

正之が去った後、 最上の鳥居忠春が高速藩主となりました。

忠春と息子忠則は新田開発などに力を入れましたが、 元禄2年(1689) に家臣の問題を機に忠則が自害し、嫡男の忠英が能登の西貝へ1万石で移りました。

高速領は松本藩水野氏の預かりとなり、 検地が行われました。

元禄4年(1691) には内藤清枚が3万3千石藩主となり、8代頼直が明治2年(1869) に版籍奉還をするまで約 180 年間高速を治めました。

清枚は絵島お預かりの大役を任されました。

7代頼寧は産業振興に力を入れ、藩政を改革しました。

頼直は進徳館を開設しました。

内藤家は文化活動を好み、 絵画や書を多く残しています。

小原庄助ゆかりの盃

小原氏は高遠城主保科氏に仕え、保科正之に従って会津まで同行しました。

小原庄助はその小原氏の一族ともいわれ、この盃は庄助が保科氏からたまわったものと伝えられています。

小原庄助さんは架空の人物ではなかったの?

最後の藩主のおかげで残った品々

最後の藩主内藤頼直公は明治4年(1871) 3月に領内の神社に武具を奉納しました。

その8か月後の11月に高遠県が筑摩県に吸収され、 頼直公は免職となり、 東京住まいを命じられました。

頼直公は高遠を去る前に、身辺整理をしようと考えたのでしょう。

明治5年(1872)正月 23 日から、城にあった武具などを調べさせます。

25日には家臣を集めて労いと励ましの手紙を渡し、酒をふるまいます。

2月6日から10日にかけては旧領内の全村にあてて武具などの品物を下賜しました。

下賜された人の中には、御礼に献金をする人、品物を献上する人がいたので、 頼直公は3月になってからさらにお返しをしています。

そして、高速を去る直前に藩士達にも内藤家家紋入りの盃や羽織などを下賜しました。

元の藩主がここまで礼を尽くしたという事例は全国各地を見ても稀なことではないかと思われます。

幸い、伊那市では岩崎家資料の日記や帳面、各地区に遺されている帳面や実際の品物で把握できているため、 今後も少しずつ明らかになっていくことでしょう。

4        周発台模型と五聖像

阪本天山考案の周発台

安永7年(1778) 阪本天山は自ら考案した新式の大砲発射装置を用いて、大砲の試射に成功しました。

「周発台」と名づけられたこの装置は、砲身を摺り台と呼ばれる台にのせ、これを円筒状の方円床上に据えつけたもので、砲身は仰角85度まで、 左右の向きは180度まで自由に動かすことができました。

従来の大砲では目標に応じて砲身の角度を変えることができなかったため、実戦で小回りがきかず命中率が低いという問題もあったのですが、周発台の使用で命中率は大幅に向上し、遠距離射撃も可能になりました。

従来の大砲は発射の反動で砲身が後ろに下がってしまうため、一回撃つごとに砲身を元の位置にもどす必要がありますが、 周発台ではそれが素早くできるように工夫をしたため、それまでは不可能だった大砲の速射も可能になりました。

このような画期的な装置は、大砲の先進地であったヨヨーロッパにも、当時はまだなかったといいます。

 

進徳館五聖像

幕末の万延元年(一八六〇)、内藤八代藩主頼直のとき、藩儒中村元起の懇願により、進徳館が創設された。

その館内に開館の二年後文久二年(一八六二)、辰野村の小沢伝十が孔子像一体を献上して祀られていたが、その後北福地村那須隆達ら四名の申し出により昌平坂学問所(現、東京都文京区湯島聖堂)の大成殿にならって、さらに高弟など四聖像が献進された。

そのとき、昌平坂学問所の五聖像を江戸の絵師、野口幽谷に依頼して聖像を模写し、それにより松川村(現、下伊那郡)などの彫刻師が四像を彫りあげ、元治二年(一八六五)二月中旬の釈奠(孔子を祀る祭礼)の日に、藩主(代拝)、重役、職員、生徒らが参加して盛大な式典が行われた。

それ以来現在に至っている。

なお五聖像の座位などは、左の通りである。

これは中国山東省曲阜 (孔子の生地)の孔子廟内の大成殿の座位にもしたがっている。

5        絵島事件

絵島事件とは

正徳4 (1714)年、江戸城大奥を舞台に一大事件が起こりました。

世にいう絵島事件です。

当時の将軍はわずか6歳の家継で、 政治の実権は前将軍・家宣の側近だった間部詮房(まなべあきふさ)と新井白石が握っていました。

古くから徳川家に仕える譜代大名らは、こうした状況を快く思わず、2人に対して反感を抱いていました。

また、 将軍が幼かったことから大奥の政治への影響力も増していました。

この頃の大奥における最大勢力は将軍の生母・月光院でしたが、 前将軍の正室・天英院も大きな力を持っており、大名らの「間部・新井VS 譜代大名」という対立が、 大奥の 「月光院 VS 天英院」という構図と結びついていきました。

またこの頃、商品経済が発達しました。

裕福な商人は大奥に商売を広げようと、芝居見物や土産物などを振る舞うことで女中たちに取り入ろうとしました。

賄賂が横行するなど大奥の風紀は乱れていたのです。

一方、幕府の財政は綱吉の時代を経てすでに行き詰まっており、大奥の経費は幕府にとってますます大きな負担となっていました。

そんな中、 月光院に仕える女中の筆頭であった絵島は、主人の名代として前将軍の墓参に出かけた帰路、芝居見物をし、門限に遅れます。

このことは、当日は大きな問題になりませんでしたが、 数日後、この規律違反が幕府役人の耳に入ると、芝居見物に同行した女中たちは皆「お暇御用済解雇(おひまごようずみかいこ)」 になりました。

絵島も兄・白井平右衛門宅にお預けとなり、親戚、芝居関係者、芝居の手配をした御用商人らとともに取り調べを受けました。

老中・秋元喬知(あきもとたかとも)ら幕府役人の追及は思いのほか厳しく、関係者には死罪、遠島、 追放など重い刑が課せられました。

この事件の顛末は 『江島始末集』 等に詳述されていますが、記録に見える重罪者だけでも30名以上、その他にも多くの者が罰せられたとみられ、総勢70名以上が処罰されたと言われています。

しかも、これだけの処罰者がいる事件であったにも関わらず、事件の発覚から1ヶ月という異常なハイペースで裁決が進められたのも、この事件の特徴です。

大奥年寄・絵島と歌舞伎役者 生島の悲恋として描かれることが多い絵島事件ですが、 実際は、 絵島の門限破りをとらえ、大奥の乱れを正そうとしたものであったといえましょう。

絵島事件の2年後、7代将軍の家継が死去すると、8代将軍には、吉宗が就き、 破綻寸前だった財政の立て直しを中心とする大改革に着手することになります。

高速での絵島

高遠藩へ永遠流となった絵島は、 正徳4(1714)年4月1日に高遠城下に着きました。

三の丸長屋を仮の牢として3か月ほど過ごし、 城内から4kmほど離れた非持村火打平地籍 (現: 伊那市長谷) に設けられた囲み屋敷に入れられました。

その後、 囲み屋敷は享保4(1719)年に現在の場所に移されました。

囲み屋敷には、 番人として5人の藩士が交代で昼夜を問わず詰めていたほか、身の回りの世話をする下女もいました。

着物はすべて木綿、冬でも火鉢しか許されず、食事は朝夕2回で一汁一菜、 38歳の頃からは自らの意思で魚も断っていました。

酒や煙草はもちろん禁じられていました。

また、 筆記用具の使用も許されず、ひたすら読経の毎日だったといいます。

このような暮らしぶりを見た高遠藩は、 絵島事件にかかわったほとんどの者が減刑 赦免された享保7(1722)年頃より老中に赦免を働きかけましたが、結局かなわず、 寛保元年(1741) 4 月 10 日、高速で 27年余を過ごし、 絵島は亡くなりました。

享年61。幕府からの役人による見分が行われた後、 本人の希望通り、高遠城下の日蓮宗蓮華寺に葬られました。

芸術の題材としての絵島事件

絵島事件が起こった江戸時代中期、 浄瑠璃や歌舞伎では、実際の事件を題材にした作品が数多く作られていました。

元禄15年(1703)に起こった討ち入りで有名な赤穂事件は、寛延元年(1748) に 『仮名手本忠臣蔵』として上演されています。

しかし、 絵島事件は幕府に直接関係した事件であったため、脚色することは許されませんでした。

明治に入り、歌舞伎『宝来曾我島物語(ほうらいそがしまものがたり)』 (明治3年・1870初演河竹黙阿弥作・かわたけもくあみ)に扱われたのをはじめとして、次々に劇化され、 「江島生島物」 と呼ばれる一つのジャンルとなっていきます。

有名なのは、舞踊劇『江島生島』(大正2年 1913 初演 長谷川時雨作)で、今でも度々上演されています。

文学の世界では、 田山花袋が大正5年(1916) に、 蓮華寺で絵島の墓を探しあてたときのことを雑誌 『太陽』に寄稿したことで、 絵島事件が注目されました。

その後、斎藤茂吉・今井邦子などの歌人が絵島の墓を訪ねて紀行文や詩歌を発表したり、舟橋聖一や吉屋信子が絵島事件を題材にした小説を著しました。

特に、舟橋聖一著 『絵島生島』 (昭和29年 1954)は、舟橋自身の脚本によって舞台化されて人気を博し、さらには映画化 (昭和 30年・1955) テレビドラマ化 (昭和46年 1971)もされて、 絵島事件は広く世間に知られるようになりました。

平成18年(2006)には、この事件を扱った映画『大奥』が公開されるなど、 絵島事件は今なお多くの人々を惹きつけています。

 

 

田山花袋書 和歌屏風

江戸時代の刑罰

絵島事件では多くの処罰者がでましたが、 事態が表面化してから判決が下るまで、 どのように裁判が進められていったのでしょうか。

当時は身分によって裁かれる場所が異なり、武士は評定所、町人や百姓は奉行所で裁くと決められていました。

よって、絵島や白井平右衛門、奥山交竹院などは評定所、生島ら山村座関係者は北町奉行所で裁かれました。

まずは関係者の取調べが行われます。

当時は状況証拠によって罪が明白であっても、 有罪判決を下すためには被疑者の自白が必要だったため、 自白を引き出すための様々な拷問が行われました。

評定所や奉行所には拷問の設備がなかったため、 牢屋敷において拷問が行われました。

絵島に対しては「うつつ責め」という三日三晩眠らせない拷問が行われ、生島には「笞打ち」 や、 正座した膝の上に 50 キロもの伊豆石を何段にも重ねていく 「石抱き」 が行われたといいます。

絵島は芝居見物のいきさつは述べても、 生島との男女関係は一切否認し続けたそうです。

こうした取調べの結果、 罪状に応じて判決が申し渡されましたが、刑には死罪、遠島、 追放などの正刑、 正刑に付加される属刑 (引廻し、入墨、晒(さらし)など)、 特定の身分に適用される閠刑・じゅんけい (武士に対する蟄居や改易、 女性に対する剃髪など)があり、 必要に応じて減刑も行われました。

江戸時代前期には、犯罪の再発防止として残虐な刑が多用されましたが、 後期になると犯罪者を改心させて社会復帰を図らせる配慮が加わるようになりました。

この変化の画期となったのが、 8代将軍吉宗の時代に行われた「公事方御定書」(寛保2年・1742) の制定で、この法に基づき、評定所や奉行所で裁判手続きが進められました。

絵島事件の裁きは公事方御定書制定以前でしたので、 絵島らは評定所や奉行所の裁量により判決が下されたのでした。

 

赦免運動と絵島の死

絵島事件から7年が過ぎた享保6年 (1721) 2月、幕府より、追放された罪人の刑を軽くするという布令が出されます。

これを受けて、 翌年5月には絵島事件に連座したほとんどの者が減刑、 あるいは赦免されました。

高速藩でも絵島に赦免の恩恵を受けさせたいと考え、7月頃から密かに赦免を願い出る準備が進められました。

江戸詰の重役 野木多宮、 三好清左衛門と在所の重役 星野縫殿、 内藤蔵人の間で何度も書状がやり取りされ、 絵島の処遇について協議されました。

絵島の親戚のほとんどは事件の際に重罪となり、 今は身寄りがないので、仏門に入らせた上で15人くらいの扶持を与え、城下の空き屋敷か庵にでも住まわせるのがよいだろうということになり、この旨を老中松平相模守、 安藤対馬守らに伝え、内諾を得ました。

安藤対馬守が月番である享保8年(1723) 11月に、 正式に赦免の伺いを提出することが決まっていましたが、不思議なことにその後の記録には赦免に関する事柄が一切見られなくなります。

絵島は亡くなるまで髪を下ろさずにいたので、 赦免は沙汰止みになったようですが、その理由についてはわかりません。

赦免が中止になったまま十数年が過ぎ、 寛保元年(1741)4月10日に絵島は亡くなりました。

藩では絵島の死骸を塩漬けにし、絵島死去の届けと死骸処理についての伺いを幕府に提出したところ、御徒目付の杉浦惣十郎、平林太郎右衛門が、 検使として高遠に派遣されることになりました。

高速藩は御留守居の市江三郎右衛門を杉浦のもとに参らせ、道中の行程など尋ねながら、 絵島の死骸見分がどのように行われるのか、 検使の尋問はどのような内容なのかを探りました。

絵島の扱いが、 かねての掟通りでなければ、藩に対して御めがあるかもしれなかったからです。

そのような努力の甲斐もあり、見分はわずか一日で滞りなく終了し、 絵島の死骸は、本人の希望通り、 日蓮宗蓮華寺に葬られました。

 

6        絵島囲み屋敷

高遠町歴史博物館から、行けます。

まだ博物館が無かったころは無料で見学できた覚えがありますが、現在は、博物館の入場料を払わないと行けなくなりました。

 

絵島の囲み屋敷

絵島(江島)は七代将軍家継の生母、月光院に仕えて大奥に入り、やがて出世して大年寄となり大きな権勢を掌握するに至ったが、事件を起こし高遠に永々遠流(おんる)となった。

絵島事件は、正徳四年(一七一四)正月十二日、月光院の名代で芝増上寺の前将軍家宣の霊屋へ参詣した帰途「山村座」で芝居見物し、刻限に遅れて帰城したことに端を発する。

家宣の正室天英院と月光院の勢力争いなども拍車をかけ、絵島のほか死罪二、流罪十、その他大勢の人々が罪に問われる当時としては非常に大きな粛正の嵐であった。

月光院の口添えにより減刑され遠流となった絵島は、最初ここより四キロ上流の非持(伊那市長谷)の囲み屋敷に入れられたが、享保四年(一七一九)この花畑の地籍に移された。

そして寛保元年(一七四一)四月、六十一才で病死するまでこの囲み屋敷で幽閉の生活を送ったのである。

この囲み屋敷は残存する古図により昭和四十二年に復元されたものである。

塀には忍び返し。

刺さると痛そうですが、この程度の密度であれば、出入りは可能そうです。

実際のものは、もうちょっと堅固なものだったのでは。

 

7        保科正之公 生母お静(志津)

お静地蔵の由緒

この三体のお地蔵様はお静の方が わが子正之の成長 栄達を祈願し目黒にある成就院に寄進したものであります。

その願いが叶い生涯を終えられたこの高遠の地に 成就院のお静地蔵を縮小し建立いたしました。

お静地蔵は今なお霊験あらたかな大願成就地蔵菩薩として信仰されております。

保科正之公 生母お静(志津)

保科正之公(幼名幸松)の生母お静は天正十二年(一五八四)小田原で神尾家二女として誕生しました。

成人して二十五歳のとき二代将軍徳川秀忠公の母付侍女として江戸城に奉公しました。

容姿端麗にして聡明な素養を身につけていました。

まもなく秀忠公の寵愛を得て子を身籠り慶長十六年(一六一一)に幸松は誕生しました。

しかし秀忠公の正室 お江与の方は大変嫉妬深くお静と幸松は危険を避けるため、武田信玄の娘見性院と信松尼の愛情と助けを得て江戸城内の比丘尼屋敷で暮らしました。

元和三年(一六一七)幸松七歳の時に高遠城主保科正光公の養子となり母子ともにこの高遠に迎えられました。

正之公は知将の武士たちから教えを受け同時に四季折々に展開する大自然と人々の営みからも多くを学び鋭い感性研き清貧な人格を身につけていったのでした。

お静は秀忠公が他界後は浄光院と名を改め 母親の深い愛情を幸松にそそぎ大成を願っていました。

正之公は二十一歳で高遠城主となり二十五歳の時お静は五十二歳の生涯を高遠の地で終えました。

江戸の目黒にある成就院は三代将軍家光公が正之公を異母弟だと知らされた逸話のある寺です。

そこにはお静が正之公の大願成就を願い奉納した金剛宝 金剛幢 金剛願の地蔵がありこれをお静地蔵と呼んでいます

正之公は七歳から二十六歳まで高速で心身を鍛え凛々しい青年に成長しました。

その後家光の信頼は益々深まり 高遠藩の人々を伴って最上藩から会津藩へと転封されました。

兄家光没後 慶安四年(一六五一) 四十一歳からは江戸に招かれて二十年間四代将軍家綱公を助けて武断政治から文治政治へ転換を図りました。

この問民衆の立場に立った人道主義的善政を実施し幕政と藩政を両立させながら江戸幕府二百六十五年の基礎を築き上げました。

高い理想と安全安心の世の中をめざした 正之公と 大願成就を願った生母お静の顕彰碑をこの地に建立します。

平成二十一年四月四日

伊那市観光協会

絵島事件は絵島が歌舞伎役者の生島新五郎との密会を疑われ、関係者1400名が処罰された綱紀粛正事件ですが、本事件は月光院派の失墜を狙った天英院派の陰謀であったとも言われています。

あらぬ罪を着せられて、この地に流刑となったのであれば、絵島の無念は相当なものだったでしょう。

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