伊豆の韮山城は、室町時代、初代堀越公方足利政知の家臣、外山豊前守が城を造ったのが始まりとされています。
本格的に築城されたのは、明応2年(1493)、伊豆に侵攻した北条早雲(伊勢新九郎盛時)が堀越公方を滅ぼしてからです。
韮山城は堀越御所から1.6km東、多賀山地から分岐した天ヶ岳とそれに続く尾根上に築かれています。
天ヶ岳の標高は128m、続く尾根は地元では龍城山と呼ばれ、最高所の標高は53m、周辺は標高16mの低地に囲まれています。
早雲は本拠地を小田原に移した後も韮山を離れることはありませんでした。
そして1519年(永正16年)韮山城で没しました。
韮山城跡
韮山城とは
明応2年(1493)、伊豆に侵攻した北条早雲(伊勢新九郎盛時)によって本格的に築城され、およそ100年にわたって存続した中世城郭。
早雲は、韮山城を本拠地として伊豆から関東地方へ進出し、戦国大名北条氏の基礎を築いた。
永正16年(1519)早雲が没したのも韮山城である。
北条氏の本拠地が小田原に移った後も、館山城は領国支配と防衛の重要拠点であった。
天正 18年(1590)、豊臣秀吉による小田原攻めの際、4万を超える軍勢に包囲されたが、約3か月にわたって持ちこたえ、小田原城と前後して開城した。
その後、徳川家康の家臣内藤信成が城主となり、慶長6年(1601)信成の駿府転封とともに廃城となった。
韮山城は通称「龍城山」に所在し、本丸•二の丸などの曲輪や、土星、堀などが良好な状態で残存している。
平時の居館などがあったと思われる平地部分には「御座敷」の字名が残る(現県立館山高枝校地)。
また、周辺には本城を囲むように「土手和田砦」、「和田島砦」、「天ヶ岳砦」、「江川砦」があり、現在でも曲輪や土星などの遺構が確認できる。
年代 伊豆の国市でのできごと 日本史上のできごと 明応2年(1493) 北条早雲、堀越御所を攻め滅ぼす 北条早雲、館山城を築城 明応4年(1495) 北条早雲、小田原城を奪う 永正16年(1519) 北条早雲、簸山城で没する 天文12年(1543) 種子島に鉄砲伝来 天正10年(1582) 本能寺の変 天正18年(1590) 韮山城、対豊臣軍籠城戦―開城 豊臣軍小田原攻め 内藤信成、鶴山城主となる 慶長6年(1601) 內藤信成駿府へ転封、31山城廃城
城址の東側、江川邸のある側に登山口があります。
駐車場は、池の近くにあります。江川邸の駐車場から歩いても近いです。
登山口にある池です。
三の丸跡は現在、韮山高校のテニスコートになっています。
三の丸から権現曲輪に向かいます。
道の両側には土塁。
熊野権現の建っている権現曲輪です。
1500年(明応9)、韮山城内に熊野神社を勧請したとする「熊野三所権現棟札」によって、それ以前に早雲の韮山城が築城されていたのが分かりました。
権現曲輪から二ノ丸へ向かいます。
二ノ丸から本丸へ向かいます。
本丸の眺めは最高です。
この本丸に立って、北条早雲も関東進出への野望を抱いていたのでしょう。
眼下の平地には県下でも屈指の進学校・韮山高校の校舎と校庭が見えます。
ここは、平時の居館「御座敷」などがあったと言われています。
韮山城跡周辺案内図
Alirayama Castle Ruins Area Information Map
韮山城跡の立地と構成
韮山城は中心となる①本城と、天ヶ岳に配置された 「外郭の遺構群」によって構成されています。さらに、 周囲には豊臣秀吉軍の「付城(つけじろ)」があります。
本城
本城は龍城山(りゅうじょうさん)とも呼ばれる細い尾根上にあります。
尾根の長さは約400m、幅は約100mです。
北から「三ノ丸」•「権現曲輪」•「ニノ丸」•「本丸」の4つの
曲輪が直線的に並び、本丸の南にも小さな曲輪があります。
現在地が本城の最高地点で、標高は約53mです。
周囲の低地部との比高差は38mあります。
本城のまわりの低地部分には、幾重にも堀が廻っていました。
現在②県立館山高校のある一帯には、「御座敷」•「大手」などの小字名が残っており、城主などが住んでいた場所であったと考えられます。
また、③韮山中学校と④城池付近は、当時も湿地が 広がっていました。
まわりには家臣や職人の住む屋敷が集中していたようです。
外郭の遺構群(砦)
天ヶ岳は、南北約1,100m 東西約700mの山体で、山頂部の高さは128mです。
山頂部に⑤天ヶ岳遺構群、北東と西の尾根末端部に⑥江川遺構群 ⑦土手和田遺構群があります。
各遺構群と山体の間には、独立性と防御性を保つための深い堀切を見ることができます。
付城跡
天正十八年(1590)、韮山城は豊臣秀吉軍に囲まれ ますが、その時に豊臣軍が築いた⑧太閤陳場付城跡 ⑨本立寺付城跡 ⑩迫越山(おっこしやま)付城跡 ⑪上山田付城跡 ⑫昌渓院付城跡が東側の山中に残されています。
韮山は伊豆半島の西側にあり、東へ進出する北条早雲の足掛かりとしては良い場所にあったということでしょうか。
平安時代末期の頼朝もここを拠点として、鎌倉幕府の足掛かりを得ました。
時を移して、室町時代に同様に東を狙う戦国大名がこの地から出てきたのも偶然ではないのかもしれません。