最近、NHK大河「鎌倉殿の13人」で人気沸騰の鎌倉旅行です。
今回は、江ノ電沿線を攻めてみました。
江ノ電鎌倉駅は、JR鎌倉駅の西側に隣接しています。
目次
1 江ノ電一日乗車券
江ノ島電鉄を乗り倒そうと、一日乗車券「のりおくん」を購入しました。
今回は、「のりおくん」+長谷寺拝観のセット券で、¥970
ただし、このセット券は、2022-3-31で廃止となったようです。また、「のりおくん」自体の価格も4-1から改定になり¥650→¥800になることが掲示されていました。
「のりおくん」の利用ガイドには、「のりおくん」を見せると、お得な割引が得られるお店が書いてあります。
本日の旅程は「鎌倉殿の13人」関連の場所で、長谷寺、大仏はついでです。
鎌倉→腰越(満福寺)→極楽寺(成就院、極楽寺)→長谷(長谷寺、大仏)→和田塚(和田塚、畠山重保墓塔)→鎌倉
江ノ電が来ました。いざ出陣!
七里ヶ浜から腰越までは、海岸沿いを走ります。
右手に江ノ島が見えたところで撮影。
腰越駅に着きました。
ここから満福寺までは歩いて3分です。
江ノ電はここから先・江ノ島駅まで路面を走ります。
2 満福寺
満福寺の入口です。
義経が、兄・頼朝に宛てた手紙・腰越状がこの寺で書かれたことで有名です。
山門に続く階段の前には江ノ電の踏切があります。
山門から、江ノ電か来るのを待って撮影しました。
文学案内板 源義経と腰越
鎌倉時代前期の武将、源義経は、幼名牛若丸、のちに九郎判官称した。
父は源義朝、母は常盤。源頼朝の異母弟にあたる。
治承4年(1180)兄頼朝の挙兵に参じ、元暦元年(1184)兄源範頼とともに源義仲を討ち入洛し、次いで摂津一ノ谷で、平氏を破った。
帰洛後、洛中の警備にあたり、後白河法皇の信任を得、頼朝の許可なく検非違使・左衛門少尉となったため怒りを買い、平氏追討の任を解かれた。
文治元年(1185)再び平氏追討に起用され、讃岐屋島、長門壇の浦に平氏を壊滅させた。
しかし、頼朝との不和が深まり、補虜の平宗盛父子を伴って鎌倉に下向したものの、鎌倉入りを拒否され、腰越に逗留。
この時、頼朝の勘気を晴らすため、大江広元にとりなしを依頼する手紙(腰越状)を送った。
「平家物語」(巻第十二 腰越)には次のように記されている。
さればにや、去んぬる夏のころ、平家の生捕どもあひ具して、関東へ下向せられけるとき、腰越に関を据ゑて、鎌倉へは入れらるまじきにてありしかば、判官、本意なきことに思ひて、
「少しもおろかに思ひたてまつらざる」よし、起請文書きて、参らせられけれども、用ゐられざれば、判官力におよばず。
その申し状に日く、 源義経、恐れながら申し上げ候ふ意趣は、御代官のそのひとつに選ばれ、勅宣の御使として朝敵を傾け、累代の弓矢の芸をあらはし、会稽の恥辱をきよむ。(略)
(引用文献 新潮日本古典集成 昭和五十六年)
しかし、頼朝の勘気は解けず、かえって義経への迫害が続いた。
義経の没後、数奇な運命と悲劇から多くの英雄伝説が生まれた。
「義経記」や「平家物語」にも著され、さらに能、歌舞伎などや作品にもなり、現在でも「判官もの」 として親しまれている。
「中世には鎌倉と京を結ぶ街道筋のうち、腰越は鎌倉~大磯間に設けられた宿駅で、西の門戸であった。義経はここ満福寺に逗留したと伝えられている。」
詳細は鎌倉文学館(長谷1-5-3・電話23-3911)にお尋ねください。
平成八年二月 鎌倉教育委員会 鎌倉文学館
「義経宿陣之趾」
検非違使とは今でいうと警視庁の幹部のこと。
これが、御恩と奉公を旨とする武家社会のルールに違ったため頼朝が激怒します。
文治元年(皇紀一八四五)五月源義経朝敵ヲ平ラゲ降将前内府平宗盛ヲ捕虜トシテ相具シ凱旋セシニ頼朝ノ不審ヲ蒙リ鎌倉ニ入ルコトヲ許サレズ腰越ノ驛ニ滞在シ欝憤ノ餘因幡前司大江廣元ニ付シテ一通ノ款状ヲ呈セシコト東鏡ニ見テ世ニ言フ腰越状ハ即チコレニシテ其ノ下書ト傳ヘラルルモノ満福寺ニ存ス
昭和十六年三月建 鎌倉市青年團」
本堂に着きました。
本堂入口の左に像がありますが、これを見ると、腰越状は弁慶らしき僧が筆を執って代筆しています。
義経も鞍馬のお寺で過ごした時期があったので、文章を書くことはできたはずなのですが、なぜ自分で書いていないのでしょう。
弁慶の像の後ろあたりに、弁慶の腰掛石があります。
本堂の右手前には、弁慶の手玉石と義経の慰霊碑。
力持ちの弁慶が、手玉として遊んだということです。
腰掛石までは、何とか信じられましたが、手玉石はもう殆ど作り話に聞こえます。
拝観料を払って、本堂脇の庫裏に入ります。
入口正面には大きな福禄寿。
天井には見事な鎌倉彫の板細工が施されていました。
草案も弁慶が書いていたのか・・・・。
江戸時代に製版された腰越状が展示されていました。
歌川国芳が描いた義経19臣です。
屋島の戦い。
壇ノ浦の合戦。
平家を滅ぼした後、頼朝と不仲になった義経が隠れ住む吉野に追っ手が差し向けられます。
愛妾の静御前は、ここで鎌倉方に捕えられ、鎌倉へ移送されました。
勧進帳で有名な安宅の関です。このあと義経一行は奥州藤原氏の拠点で、成人まで育った平泉に逃れます。
弁慶が所有していた椀(とのことです)
平泉に逃げた義経は、藤原秀衡の死後、その子・藤原泰衡に攻められて自害します。
下の襖絵は、義経を守って堂の入口に立って雨の様な敵の矢を身体に受けて立ったまま絶命した、いわゆる「弁慶の立往生」を描いたものです。
鎌倉彫の襖
龍の天井絵
廊下と本堂天井には沢山の家紋
写真が一杯になりましたので、とりあえずここまでが、江ノ電沿線の旅、第一弾としてアップします。
江ノ電の旅シリーズは以下です。
江ノ電一日乗車券で「鎌倉殿の13人」の旅#2 極楽寺・成就院
江ノ電一日乗車券で「鎌倉殿の13人」の旅#3 長谷寺・鎌倉大仏
江ノ電一日乗車券で「鎌倉殿の13人」の旅#4 和田塚・畠山重保邸跡と墓塔