史跡

浅野長政屋敷跡 愛知県一宮市浅野公園

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浅野公園(浅野城)

愛知県一宮市浅野字八剱にある浅野公園は、戦国時代、浅野長勝やその子長政の屋敷があったと伝えられている場所です。

1573年浅野長政が近江国へ移ると、織田信雄の家臣杉浦五左衛門道祐の居城となりました。

1600年「関ヶ原の戦い」の後は、廃城となります。

江戸時代は川口次兵衛が二の丸に屋敷を構え、代々この地に住んだと云わっています。

史跡 浅野公園

当地は尾張浅野氏発祥の地であり、戦国時代、浅野長勝やその子長政の屋敷があったと伝えられている。

長勝の養女が木下家定の妹の祢々(ねね)であり、後に木下藤吉郎に嫁す(かす)。

夫秀吉の天下統一をよく助け、自らも北政所として女性最高の地位につく。

祢々の義弟浅野長政も秀吉の五奉行の一人となり、浅野氏繁栄の基礎を築いた。

忠臣蔵で有名な播州赤穂の浅野氏はその支流である。

一九一七(大正六)年、地元が中心となって浅野史跡顕彰会が組織され、公園として保存される事となった。

一九五〇(昭和二五)年からは、一宮市によって管理されている。

広さ約九二〇〇平方メートル、小山を造り、堀や池を深くし、ヒトツバタゴなど珍しい植物やツツジが植えられ、また、一九八一(昭和五六)年には、桑田忠親氏の筆による祢々の歌碑も建てられている。

平成六年十月     一宮市観光協会

 

 

浅野長政は織田信長の弓衆をしていた叔父・浅野長勝に男子がなかったため、長勝の娘・やや(彌々)の婿養子として浅野家に迎えられ、のちに家督を相続しました。

天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いでは戦功を挙げて、近江国大津2万石を与えられました。

豊臣政権下では五奉行となり、太閤検地を主導しました。

天正15年(1587年)には若狭国小浜8万石の国持ち大名になりました。

文禄2年(1593年)の、朝鮮出兵でも功績があり、甲斐国府中21万5千石を与えられています。

は、慶長4年(1599年)、前田利長らと共に家康から暗殺の嫌疑をかけられて謹慎し、家督を幸長に譲って武蔵国府中に隠居しました。

かつて浅野城といわれただけあって、公園の外周は濠で囲まれています。

 

中央の広場は子どもたちの遊び場です。

馬蹄石(ばていせき)

山内一豊が自宅岩倉城へ急用で帰る途中浅野家に立寄った時の名馬の蹄跡と伝えられている(妻の内助の功により駿馬を買った話は有名である)

太閤千代シダレザクラ

このシダレザクラは、京都醍醐寺において豊臣秀吉と寧々が花見の宴で愛でたと伝えられる桜の母樹から、バイオテクノロジーによって育成されたクローン桜です。

寧々にゆかりのある浅野公園の開園100周年を記念して、醍醐寺の寬仁(かんじん)深い計らいにより、桜苗を授かることができ、市民に親しまれる公園となるように願って植樹されました。

平成30年3月

記念碑山

このあたりが昔の邸宅の中心であったかと想像される。

記念碑は従一位勲一等浅野長勲(ながこと)候筆による篆額(てんがく・古い書体の題字)であり浅野家の系譜 長政公の生い立ち業績等碑銘されている。

重量4,875kgであり、仙台市より搬入撰文は愛知県知事松井茂による。

 

この陰陽石は外堀復旧工事中に出土した。

子なき人または下(しも)の病になやむ人は、これを祈ると良いとされている。

 

碑には天正16年(1588年)4月に第107代後陽成天皇が秀吉の京都聚楽第へ行幸されたことを後になって寧々が偲んで詠んだ和歌がきざまれている

「たちばなを 庭のまがきに 眺むれば 雲井の花を 恋しくぞ思ふ」

これは歴史家桑田忠親氏筆で昭和56年(1981年)設置された。

 

「寧々の水」屋敷の中にあった井戸の跡だと思われます。

浅野長政公の長男幸長の娘春姫が徳川家康公九男義直(尾張徳川家初代藩主)と結婚 また長政公の次男長晟(ながあきら)は家康の三女振姫と結婚したことにより婚姻関係でありまた囲碁を通じて親交が一層深まった しばしば共に盤を囲んだ家康は長政の没後囲碁を絶ったと伝えられる。

表千家故宗信小川覚四郎氏によって造園された茶の湯は信長 秀吉の時代になると政治の道具として利用されるようになった。 特に茶人千利休は豊臣秀吉(浅野長政公の義兄)が安心して相談できる人材であった。

傘亭

狐山と呼ばれ、以前よりの小山であった昼寝刻には子ぎつねが遊びにたわむれたとのこと 秋夜 観月の地とされていた名月 春の桜 秋の紅葉 等四季折々の良いながめの風光明媚の場所であった。

3本の石杭の表面に 雪 月 花 を刻み傘亭に風致を添えている 雪は地上の美⇒純真無垢のけがれのない心 月は天上の美⇒心境の澄み切ったもの 花は人間世界の美⇒その咲くすがたを仏の心とか無心を表わす 四季折々の良いながめである。

 

広島藩は浅野宗家の流れを汲む藩です。

浅野の系統の人たちがお手植えした樹木が沢山ありました。

手植杉・記念碑

安芸広島藩最後の藩主浅野長勲(ながこと)公をはじめ海軍大臣のちの第21代内郭総理大臣 加藤友三郎氏その他各界各氏によるものです。

 

 

駐車場完備。

GW中でしたが混雑することもなく地元の家族が子供を連れて遊びに来る程度で、観光する人は皆無です。

穴場といえば穴場の観光地?でした。

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