渋谷区の「松濤(しょうとう)」は、高級住宅街です。
その中心にあるのが鍋島松濤公園ですが、公園内の池は底からは水が湧き出る涌水池です。
湧水は、関東ローム層の下に渋谷粘土があることで水の浸透が妨げられ、滲み出て来るものです。
かつてこの地は紀州徳川家の下屋敷でしたが、1872年(明治5年)に旧佐賀藩第11代(最後)の藩主であった鍋島直大(なべしま なおひろ)に払い下げられます。
直大は、維新で失職した武士を集めて茶園「松濤園(しょうとうえん)」という茶園の経営を始めます。
「松濤」は松の梢を渡る風の音が、あたかも海岸に打ち寄せる海の波(濤)の音のように聞こえることから、その風音を例えたもので、転じて茶道用語で、茶釜の中でお湯がたぎる時の音を示したものだとのことです。
茶園は1890年(明治23年)に東海道線が開通すると静岡茶などが流入し、茶業が振るわなくなったため大正時代の末期に廃業されます。
跡地には、華族や政財界の要人、実業家などが次々に豪邸を建てたことで、現在に至る高級住宅街としての街並みが形成されました。
1928年(昭和3年)に豊多摩郡渋谷町が字名町名地番を改正した際には町名は松濤園にちなんで「松濤」と名付けられました。
公園の入口には金属製のオブジェがあります。
鍋島松濤公園沿革
この辺一帯は、元紀州徳川家の下屋敷であったが、明治五年に鍋島家 の所有となり、同九年開拓して公園を造り松濤園と称した。
池は当時すでにあって、防火や田畑の灌漑用として使われていた様である。明治三十七年になり茶園 は畑としたが、池のあたりは元のまま残していた。
大正十三年に小庭園として木を植え、運動器具を設置して、一般の人々の娯楽施設並びに児童の遊び場とし、鍋島遊園地と名付け今日に至った。
昭和七年十月一日市域拡の際にすべてを公演地として東京市に寄付され、新市域では公園のさきがけとなった。
東京市は長く保存管理して、鍋島侯爵のご芳志(ほうし)を後世に伝えることとしたい。
昭和八年十二月 東京市
これは、昭和八年に当時の東京市が、公園を整備し開園した際に、正門に取り付けた沿革板を復元したものです。
平成五年 六月
鍋島松濤公園の付近一帯は、江戸時代には紀州徳川家の下屋敷でした。
明治時代になって、その跡地を購入した鍋島家が、士族授産のために開いた茶園につけた名称が松濤園でした。
松濤とは茶の湯のたぎる音から出た名で、この銘のお茶を生産していました。
それがもとになって、昭和三年(一九二八)にこのあたりの松濤という町名が生まれました。
松濤園のなかにあった、池を中心とするこの一画が現在の松濤公園 です。
大正十三年(一九二四)に鍋島家が児童遊園地としての施設をつくって公開した松濤遊園地 が、昭和七年(一九三ニ)十月に東京市 に寄附され、昭和九年から渋谷区の管理に移り、戦後に区立の公園となりました。
かつて渋谷区内には、数多くの自然湧水地 がありましたが、開発などにより著しく減少してしまいました。
松濤公園の池は、数少ない湧水地として貴重であると同時に、池の周辺には昔ながらの面影が残されています。
渋谷区教育委員会
公園内のトイレです。
渋谷区のThe Tokyo Toiletプロジェクトで、有名な建築家が斬新なデザインで設計したトイレの一つです。
公園内には下図のように5つのトイレがありますが、それぞれのトイレにはピクトグラムで対象者が分かるように配慮されています。
ここのトイレはオリンピックスタジアムの設計で名を馳せた、隈研吾の設計です。
いかにも木を素材にデザインを行う隈さんの設計ですね。
外郭の木材は吉野杉を使用しています。
竣工から1年以上経っても、木材の表面が新築時と同じ色合いを保持しているのは白い塗料を薄く塗ってあるからだと思われます。
今回はトイレ内の画像は貼ってありませんが、もし行く機会があれば中を覗いてみるとおもしろいですよ。
内部にも、木材がふんだんに使われています。
公園の近くには松濤美術館もあります。
こちらの設計は「哲人建築家」とも呼ばれた白井晟一(しらい せいいち)です。