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夏目漱石が晩年を過ごした「漱石山房」が記念館として公開されています

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新宿区立漱石山房記念館は、夏目漱石の生誕150周年を記念して2017年(平成29年)9月24日に東京都新宿区が開設した記念博物館です。

この場所にかつて漱石が晩年を過ごした「漱石山房」がありました。

山房とは、辞書で調べると書斎の事のようです。

しかし、例として「漱石山房」が出て来るので山房といえば「漱石山房」なのでしょう。

 

今回は新宿からバスに乗って「牛込保健センター前」まで行き、そこから歩きました。

駅が近くにないので、行くのは少し不便かもしれません。

 

バス通りの「牛込保健センター」の信号から西に、「漱石山房通り」を進むと、ほんの2,3分で記念館にたどりつきます。

 

1        漱石山房記念館

記念館の入口近くの掲示板です。

漱石は、晩年のおよそ9年間をここで過ごしました。

夏目漱石終焉の地

所在地 新宿区早稲田南町七番地

指定年月日 昭和六十一年十月三日

この地は、作家・夏目漱石が明治四十年(一九〇七)九月二十九日から亡くなる大正五年(一九一六)十二月九日まで暮らした、通称「漱石山房[そうせき さんぼう]」の跡地である。

漱石山房は木造平屋建ての和洋折衷の建物で、漱石は洋間二間を書斎・客間として使用した。漱石は『坑夫』を皮切りに、『三四郎』『それから』『門』『こころ』『道草』などの代表作をこの地で発表し、『明暗』の連載半ばに胃潰瘍により世を去った。享年四十九歳。

漱石没後の大正七年(一九一八)には、漱石の夫人鏡子がこの土地を購入し、母屋の増改築を行うとともに、漱石が使用していた書斎・客間・回廊を曳家し、保存した。

その後、漱石山房は昭和二〇年(一九四五) 五月二十五日の空襲で焼失し、跡地は昭和二十五年(一九五〇)に東京都の所有となった。

跡地は長らく都営アパート (昭和五十二年に区へ譲渡され、区営アパートとなる)の敷地として使用されていたが、昭和五十一年(一九七六)にはその一部に漱石公園が、平成二十九年(二〇一七)九月二十四日には、区営アパートの移転に伴い、全国で初めてとなる本格的な漱石の記念館「新宿区立漱石山房記念館」が開館した。

平成三十年三月

新宿区教育委員会

 

行った時のテーマ展示は熊本県玉造温泉を舞台にした「草枕」です。

漱石が、ロンドン留学中に見たジョン・エヴァレット・ミレイの川に身投げしたハムレットの中の登場人物〈オフィーリア〉の絵から、草枕に出て来る変わり者と名高いバツイチの女性・那美が、赤い椿の浮かぶ水面に浸かっている様を想像しています。

 

記念館の入口で漱石がお出迎えです。

入館して左手にはカフェ。

記念館内は写真撮影できるところが限られていて、この復元書斎はその一つ。

書斎内の書籍の再現について

書斎内の書籍の再現については、書棚に配架されている洋書について、夏目漱石の旧蔵書 3,068冊からなるコレクションを所蔵する東北大学附属図書館の協力により、その背表紙の写真を撮影させていただき、再現しました。

東北大学附属図書館の夏目漱石旧蔵書は、英文学関係の図書が中心で、 漱石による書入れも多く、漱石の日記 ノート、試験問題、原稿草稿などの断片資料も含まれています。

漱石文庫が東北大学に譲渡されることになったのは、 当時の図書館長で、 漱石の門下生であった小宮豊隆 (1884~1966) の尽力によるものです。 搬入は、昭和18 (1943)年からはじまり、昭和19(1944)年3月に完了しました。 これにより、漱石の蔵書は戦災を免れ、 今日に伝えられることになったのです。

 

廊下の先には椅子でくつろいでいる漱石の像。

 

2        漱石公園

記念館を出て、隣接する漱石公園へ。

公園の入口では漱石の胸像がお出迎え。

明治の文豪夏目漱石は、 現在の喜久井町で生まれ早稲田南町で亡くなりました。 漱石の作品には、 早稲田・神楽坂界隈が数多く登場します。 漱石は、ときには一人で、ときには弟子たちとこの周辺を散策し、 買い物や食事を楽しみました。 漱石を身近に感じながら、 歩いてみてはいかがですか?

漱石山房の記憶

夏目漱石は、明治40年9月、 この地に引っ越してきました。 そして大正5年12月9日、『明暗』 執筆中に49歳で亡くなるまで、 多くの作品を生み出したのです。漱石が晩年住んだこの家を 「漱石山房」といいます。 漱石は面会者が多かったので、木曜日の午後を面会の日としました。 これが 「木曜会」の始まりです。「木曜会」は、漱石を囲む文学サロンとして、若い文学者たちの集う場となり、漱石没後も彼らの心のよりどころとなりました。

旧夏目邸建物基礎

平成二十七年(二〇一五)四月、 漱石山房記念館建設に伴う埋蔵文化財試掘調査の際に見つかったもので、房州石[ぼうしゅうせき](凝灰岩[ぎょうかいがん])の建物基礎と水廻りと考えられるタタキ状の遺構が確認された。

漱石山房は、漱石没後の大正九年(一九二〇)に鏡子夫人により建て替えられ、その際に漱石の書斎・客間と廻廊は敷地の南東隅に曳家[ひきや]し、母屋とは渡り廊下でつながれた。

確認された遺構は、規模や戦災の際に堆積した焼土との関係から、建て替えられた夏目邸の母屋の遺構であると考えられる。

 

猫の墓

夏目家で飼った動物のうち、『吾輩は猫である』のモデルとなった「福猫」は、明治四十一年(一九〇八) 九月十三日に亡くなると、裏庭のサクラの木の下にみかん箱に入れて埋葬され、「この下に稲妻起こる宵あらん」という句を添えた二寸角の白木の墓標が建てられた。その後、文鳥も合葬された。 犬のヘクトーの墓も近くに建てられ、 「秋風の聞えぬ土に埋めてやりぬ」という句を添えた。

猫の墓と呼ばれるこの石塔は、 福猫の十三回忌にあたる大正九年(一九二〇) 夏目家で飼われた生き物たちを供養するため、漱石の長女・筆子の夫・松岡譲[まつおかゆずる]が造らせた九重塔で、台石には津田青楓[つだせいふう]の描いた猫・犬・鳥の三尊像が刻まれていた。しかし、昭和二十年(一九四五)五月二十五日に空襲で漱石山房が焼失した際に損壊し、現在の石塔はその残

を利用して昭和二十八年(一九五三)十二月九日に再興されたものである。現存する漱石山房の唯一の遺構である。

 

公園内の道草庵には、関連するパネルや書籍の展示があります。

 

3        夏目漱石の生涯

漱石は、生涯に何度も転居していますが、旧居跡も訪問して報告しています。

慶応三年(一八六七) 二月九日 (新暦) 夏目直克・千枝の五男として、江戸牛込馬場下横町(現在の新宿区喜久井町一番地)で誕生。
金之助と命名される。
生後間もなく四谷の古道具屋に里子に出されるがすぐに連れ戻される。
慶応 四年(一八六八) 内藤新宿の名主・塩原昌之助の養子になる。
明治二年(一八六九) 養父母とともに浅草三間町に転居。
明治三年(一八七〇) 疱瘡にかかり、薄く痘痕がのこる。
明治四年(一八七一) 養父母とともに内藤新宿に戻り、休業中の妓楼「伊豆橋」に留守番代わりに住む。
明治 六年(一八七三) 三月 浅草諏訪町に転居。
明治七年(一八七四) 浅草寿町の戸田学校下等小学第八級に入学。
明治 九年(一八七六) 四月 養父母の離婚により塩原姓のまま養母とともに夏目家に戻る。 五月 市谷学校下等小学第三級(その後、区立愛日小学校に統合)に転校か。
明治十一年(一八七八) 四月神田猿楽町の錦華学校小学尋常科第二級後期に転校し、卒業。
明治十二年(一八七九) 三月 東京府第一中学 (一ツ橋中学、現在の日比谷高校)に入学。
明治十四年(一八八一) 一月母・千枝死去。 東京府第一中学を中退し、漢文を学ぶため二松学舎に転校。
明治十七年(一八八四) 小石川の新福寺(現在の文京区竹早)に下宿。
九月大学予備門予科の第一高等中学校)に入学、同級に中村是公・芳賀矢一ら。
明治二一年(一八八八) 一月夏目家に復磨七月第一高等中学校本科英文学科に進学。
明治二二年(一八八九) 一月 正岡子規と親交を深める。 子規の『七集』を漢文で批評し、その際はじめて「漱石」と署名する。
九月紀行文集『木屑録』書く。
明治二三年(一八九〇) 九月帝国大学文科大学(現在の東京大学) 英文学科に入学し、小石川区指ヶ谷町に住みます。
明治二五年(一八九二) 四月徴兵の関係で分家し北海道に転籍する。 五月 東京専門学校 (現在の早稲田大学) 講師となる。
子規と関西を旅行した後、単身岡山を訪ね、再び松山で子規に会う。
この時、高浜虚子・河東碧梧桐と知り合う。
明治二六年(一八九三) 帝国大学大学院に進学。 東京高等師範学校英語嘱託となり (月給三七円五十銭)小石川伝通院のそばの法蔵院に間借り。
明治二七年(一八九四) 十二月 大学院時代からの友人菅虎雄の紹介で、鎌倉円覚寺の帰源院に参禅する。
明治二八年(一八九五) 愛媛県尋常中学校の英語科嘱託教員として赴任(月給八十円)、 教え子の松根東洋城は後に漱石門下、
真鍋嘉一郎は主治医となる。 子規が帰郷し、漱石の下宿に住む (愚陀仏庵)。
十二月貴族院書記官長中根重一の長女鏡子と見合いし婚約。
明治二九年(一八九六) 四月熊本の第五高等学校講師として赴任(月給百円)、教え子の寺田寅彦は後に漱石門下。
六月鏡子と結婚。七月教授に就任する。
明治三〇年(一八九七) 六月父・直克死去。
明治三一年(一八九八) 七月熊本市内坪井七八番地に転居する(現在、内坪井旧居として公開されている)。
明治三二年(一八九九) 五月長女華子誕生。
明治三三年(一九〇〇) 六月 文部省から英語研究のため二年間の英国留学を命じられ、九月横浜から出航 (学費年千八百円、留守手当年三百円)。
明治三四年(一九〇一) 一月次女恒子誕生。 英文学概論を書く。(後の『文学論』)
明治三五年(一九〇二) 強度の神経衰弱にかかる。 九月 正岡子規没 (享年三六)。十二月帰国の途につく。
明治三六年(一九〇三) 一月帰国。三月本郷区千駄木五七番地に転居。
四月 東京帝国大学英文科講師(年俸八百円)、第一高等学校英語講師(年俸七百円)となる。
十一月三女栄子誕生。 この年、神経衰弱が悪化する。
明治三七年(一九〇四) 九月 明治大学講師を兼任。十二月高浜虚子主宰の「山会」で自作の「猫伝」を朗読。
この頃、野村伝四が門下となる。 橋口五葉との交流が始まる。
明治三八年(一九〇五) 一月『吾輩は猫である』を『ホトトギス』に、「倫敦塔」を『帝国文学』、「カーライル博物館」を『学』に発表。
十二月四女愛子誕生。 この頃、森田草平・鈴木三重吉・小宮豊隆・野上豊一郎・中勘助らが門下に加わる。
明治三九年(一九〇六) 四月『坊つちゃん』を『ホトトギス』に発表。
九月『草枕』を『新小説』に、十月「二百十日」を「中央公論』に発表。
面会日木曜日の午後三時以降と定める (木曜会)。十二月本郷区西片町十-ろ-七号に転居。
明治四〇年(一九〇七) 一月『野分』を『ホトトギス』に発表。 三月 東京帝国大学と第一高等学校の職を辞し、朝日新聞社に入社(月給二百円)。
六月長男純一誕生。 『虞美人草』を連載。
九月牛込区早稲田南町七番地に転居 (漱石山房、現在の区立漱石公園)。
十一月謡を習い始める。この頃、安部能成・林原(岡田) 耕三が門下に加わる。
この頃より胃に苦しむ。
明治四一年(一九〇八) 『坑夫』『夢十夜』『三四郎』「文鳥」を連載。十二月次男伸六誕生。
明治四二年(一九〇九) 『永日小品』 『それから』を連載。 九~十月中村是公の招きで満州・朝鮮を旅行する。
この頃、阿部次郎が門下に加わる。
明治四三年(一九一〇) 三月五女子誕生。『門』を連載。 六月 胃潰瘍のため長与胃腸病院に入院。
八月 転地療養のため修善寺温泉の菊屋旅館に滞在。二四日大量吐血し、一時危篤状態におちいる。
十月帰京し長与胃腸病院に再入院。 『思ひ出す事など』を連載。
明治四四年(一九一一) 二月文学博士号を辞退。
八月 関西講演旅行中に胃潰瘍が再発し大阪で入院。
九月帰京。
十一月雛子急死 この頃、内田百聞・津田青楓が門下に加わる。
明治四五年→
大正元年(一九一二 )
一~四月『彼岸過迄』を連載。十二月『行人』を連載 (中断を経て大正二年十一月完結)。
大正二年(一九一三 強度の神経衰弱となる。 胃潰瘍のため療養する。この頃、赤木桁平・岩波茂雄・和辻哲郎が門下に加わる。
大正三年(一九一四) 四~八月『こゝろ』を連載。胃潰瘍のため療養する。
大正四年(一九一五) 一~二月『硝子戸の中』を連載。三月京都に旅行中、胃潰瘍を再発。 六~九月『道草』を連載。この頃、
江口良・芥川龍之介・菊池寛・久米正雄・松岡譲が門下に加わる。
大正五年(一九一六) 五月『明暗』を連載(未完)、十一月 胃潰瘍が悪化。
十二月九日死去(享年四九歳)、新海竹太郎によりデスマスクがとられ、鏡子の申し出により東京帝国大学で医学解剖が行われる。十二日葬儀、法名は文献院古道漱石居士。二八日 雑司ヶ谷墓地に埋葬される。

 

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