史跡

対馬③金石城跡、対馬藩主宗家墓所、清水山城跡

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対馬の中心・厳原町(いずはらちょう)の今屋敷付近には金石城跡、対馬藩主宗家墓所、清水山城跡など歴史的に重要な場所があります。

この地域が整備されたのは平成になってからで金石城の庭と石垣が復元され、2022年の博物館開館によってより観光としての体裁が整って来ています。

今回は、壱岐から高速船に乗って厳原港に向かい、この地を見学しました。

1        金石城(かねいしじょう)跡

金石城は対馬・宗氏の居館が置かれた城です。

城址内入口に建つ櫓門は平成元年(1989)12月から同2年10月にかけて「自ら考え自ら実践する地域づくり(ふるさと創生1億円)」事業で復元したものです。

なかなか良い投資だったと思います。

史跡 金石城跡

国指定 平成七年三月二八日

平成二八年三月一日(追加)

金石城は中世末から近世にかけて、宗氏の居館が置かれた城である。

東流する金石川に沿って、高低差のある細長い平坦地に造られ、東西約四〇〇mの敷地が石垣で区画構成されている。

東端から一二〇mほどにある櫓門を抜け、枡形部を過ぎて対馬宗家関係資料など複数の絵図に描かれた大階段を上がると、館があった平地に出る。

この地に居館が置かれたのは一六世紀のことで、発端は享禄元(一五二八)年に起きた一族の内紛であった。

当時の居館であった池の屋形を焼失し、 金石原の地に難を逃れた一四代宗盛賢(のちの将盛)が新たに建てたのが金石屋形である。

ここが体裁を整え、 城となったのは、一七世紀後半のことであった。

将盛が屋形を築いてから一三〇年ほどのち、 第三代藩主宗義真の治世において城下に大火が相次いだ。

ことに万治二(一六五九)年と寛文元(一六六一)年に起きた大火はすさまじく、町に甚大な被害を与えた。

義真は幕府の援助を受けながら再興を期して大規模な町の整備に取り組み、好況の倭館貿易にも支えられて金石屋形の拡張と改修も行った。

国分寺を金石原から現在地の天道茂に移して、城壁を整え櫓を建て、現在の城の体裁が完成した。

こうして寛文五~九(一六六九)年ごろにかけて整い備された屋形は金石城と称され、対馬治世の拠点となった。

なお、その後、義真は延宝六(一六七八)年に桟原(さじきばら)に居館を造って住まいを移し、幕末に至った。

文化八(一八一一)年に易地聘礼(えきちへいれい)で朝鮮通信使が来島した際には、幕府上使 小笠原大膳大夫 (小倉城主)の宿館として用いられた。

そのため新たに各種施設を多く建築しているが、詳細な城内の様子を描いた絵図が対馬宗家関係資料に残されている。

城の西にある、かつて「心字池」と呼ばれた旧金石城庭園は、対馬藩士で倭館窯での作陶にも携わった中庭茂三が、藩主の命により一七世紀末に作ったと推定される庭園で、平成一九(二○○七)年に国から名勝の指定を受けた。

対馬市教育委員会

金石城跡は、対馬藩主宗家の執政の拠点として17世紀後半に整備された城館の遺跡です。 史跡に指定されたその城内西隅に旧金石城庭園はあります。

旧金石城庭園は長い年月のなかで手を加えられ、埋め立てられていき、 本来の姿を失っていました。

近年では 「殿様の池」という口伝えと、 わずかに見えていた巨石と池が かろうじてそこにかつて庭園があったことを偲ばせるのみでした。

ところが平成4年に城の北西部にある櫓跡で古い石敷きが発見されました。

そこで当時の厳原町は、緊急に発掘調査をおこないましたが、 その結果、 付近に石垣など多くの遺構が残っていることを確認しました。

厳原町は、この調査の成果を受け、 その全容を明らかにし、 貴重な財産である史跡を保護するとともに、地域資源として活かすよう、 整備に取り組むことを決定しました。

その後、8年間の発掘調査と9年間の整備復元工事を経て、 ついに旧金石城庭園は、藩主によってつくられた江戸時代の姿を蘇らせたのです。

庭園の作庭年代は明確ではありません。

ただし、宗家文書の「毎日記」の記事に、城の庭造りに関するくだりがあり、 元禄3年 (1690) から同6年 (1693) にかけて中庭茂三(なかにわもさん)の手により作られた可能性が指摘されています。

昭和期に朝鮮のお姫様と宗家当主の結婚を記念した碑です。

旧対馬藩主・宗家の当主である伯爵宗武志(そう たけゆき)と、朝鮮王朝第二十六代高宗の王女 (翁主) 徳恵姫は1931年(昭和6年)5月8日結婚しました。

当時、宗家は莫大な借財を抱え、婚姻によって経済的な基盤を得ようとしていました。

一方、徳恵姫は、統合失調症を患っており順風満帆な婚姻とは言い難かったようです。

一九三一(昭和六)年、新婚の宗武志(そう たけゆき)公と徳恵姫はそろって対馬を訪れ、島民の盛んな歓迎を受けた。

徳恵姫は朝鮮王朝第二十六代高宗の王女 (翁主)である。

この碑は結婚を祝って当時対馬に住む韓国(朝鮮)の人々によって建てられた。

また清水山城には対馬の人々による慶祝のツツジ植栽の記念碑が遺されている。

その結婚は二十五年にわたり、多くの困難にもかかわらず、一女正恵姫と共に信頼と愛情の絆で結ばれていた。

しかし両民族の関係はまことに厳しく、時代の激流の中で一九五五年やむなく離別に至り、武志公は一九八五年、徳恵翁主は故国において一九八九年、逝去された。

ここに歴史に埋もれていたこの碑を再建し、お二人の苦難の生涯を想い起こしつつ、双方の民族の真の和解と永遠の平和を希うものである。

 

搦手門の櫓台です。

粗加工積みと呼ばれる積方で、戦国時代後期の1600年前後の積み方です。

金石城【搦手門(からめてもん)】

金石城の西端部に位置し、対馬藩主宗家墓所との境にあたる。

隣接した東には「心字池」と呼ばれた元禄六(一六九三)年の築造と推定される国指定名勝 旧金石城庭園がある。

現在は一般に搦手門と呼ばれるが、 九世紀に描かれた複数の絵図には「銅門(あかがねもん)」と記されている。

一七世紀後葉から一八世紀頃の作成と目される、対馬宗家関係資料の絵図にもその姿が見えるが、造られたのは寛文年間であろうか。

城内の公園整備工事の最中に石敷きが発見され、平成四(一九九二)年の発掘調査で櫓台の石垣など各種遺構が検出された。

平成九~一六(二〇〇四)年度の調査では、櫓台に連なる水路や階段、石塀が見つかった。

本来は東側も西側の櫓台と同じ姿をしていたが、昭和三〇年代以降の学校施設建設工事でわずかな基礎を残して大半が破壊されていた。

現在の姿は築造時の姿が推定できるように、階段とともに下部約三分の一を復元整備したものである。

 

金石城の南を流れる金石川と石垣です。

石垣は平成になって復元整備されたものとのことでした。

2        清水山城跡

金石城から山手の方を眺めるとそこに石垣が見えます。

ここは豊臣秀吉が、宗氏に築かせた清水山城の石垣です。

この山城からは海が一望でき敵の来襲の様子がよく見えます。

ブラタモリではこの石垣の上に立った案内人が城下のタモリさんに手を振って、見通しの良いことを証明していました。

 

3        万松院

金石城の堀に架かる橋を渡り、宗家の墓所である万松院に向かいます。

万松院の正門ですが、ここは閉まっているので、脇から拝観料を払って入ります。

史跡 対馬藩主宗家墓所

国指定 昭和六〇年二月一八日

歴代の対馬藩主と正室および一族の墓所である。 元和元(一六一五)年に宗家一九代で初代対馬藩主の義智が死去し、居館としていた金石屋形の西に墓所を設けた。

寺として松音寺を建立したが、元和七~八年頃に法号に因んで「萬松院(万松院)」と改め、宗家の菩提寺となった。

三つの御霊屋があり、 上御霊屋には義智から宗家三二代義和までの藩主と正室、中御霊屋と下御霊屋には十代貞国と側室および童子の墓が並ぶ。

また、本堂西側の池泉庭奥には宗家出身者や一族を葬った裏御霊屋がある。

元禄年間以降に起きた大火で建物を焼失しており、現在の本堂および庫裏は明治一三(一八八〇)年に再建されたものである。

焼失を免れてきた山門は、江戸時代前期の建立と考えられる。

花崗岩製の大きな墓石や広い墓域から、江戸時代の日朝外交を担った宗家の威信や隆盛を窺うことができる。墓所は鏡積みを多用した石垣と石塀で区画、構成され壮麗である。

対馬市教育委員会

「対馬藩主宗家墓所」は歴代対馬藩主と正室及び一族の墓所で通称「万松院墓地」と言います。

「万松院」 は宗家19代で初代対馬藩主の義智の法号に因んだもので、菩提寺として営まれてきました。

正面の山門は江戸時代前期の建立と考えられ、左右の仁王堂は1737年(元文2)に造営されたものです。

墓地は主に上御霊屋、中御霊屋、 下御霊屋の三つの御霊屋から成り、藩主と正室、側室及び童子らを祀ります。

対馬藩は十万石の格式を与えられていましたが、花崗岩製の大きな墓石や背後に山を構える広い墓域に、 当時の隆盛と江戸時代の日朝外交を担った宗家の威信がうかがえます。

1985年2月18日に国指定史跡になりました。

本堂の入口には諫鼓(かんこ)の碑が、藩主の善政を伝えるものでしょうか。

諫鼓(かんこ)

領主に対し諫言しようとする人民に打ち鳴らさせるために設けた鼓

「諫鼓苔蒸す」----諫鼓を用いぬことの久しい

「諫鼓鳥」---諫鼓の上に鳥が遊ぶ、諫鼓を用いる必要がない

共に領主が善政を施すのを言う

「閑古鳥が鳴く」の閑古鳥はカッコウで、その鳴き声が、物寂しさを感じさせるために、人がいない様を表現しているとされていますが、この看板の「諫鼓鳥」とは少し意味合いが違うようです。

「諫鼓鳥」は中国の故事から来ていますが、同音の「閑古鳥」は鳴き声から来ているようです。

 

本堂の様子。珍しく撮影可でした。

朝鮮国王から送られた三具足(仏前に供える香炉、燭台、花立)や徳川歴代将軍の位牌が安置された部屋があります。

「徳川歴代将軍の位牌がなぜあるのか?」 については、たぶん易地聘礼(えきちへいれい)がきっかけとなっていると思われます。

これは、それまで江戸で行われていた国書の交換や将軍への拝謁、品物の献上などを、費用の削減や通信使を江戸まで迎える効果(幕府としての威光を高める効果)が薄れたとして対馬で聘礼(品物を贈る礼式作法)を済ませようとしたものです。

本来は江戸城まではるばる上り、将軍に拝謁するところを対馬で終わらせてしまうので拝謁に代わる何かが必要だったのだと思います。

位牌堂は拝謁の代わりに、朝鮮通信使がお参りするところでした。

これから132段の百雁木と呼ばれる石段を登って宗家の墓所に向かいます。

「雁木」の意味は、空を飛ぶ雁(がん)の列のようなぎざぎざの形や模様のことです。

ここでは階段が、雁の列のように連なっているということだと思われます。

宗家の墓所は、当時の姿が昔ながらに残っていることもあり、山口県萩市の「萩藩主毛利家墓所」や石川県金沢市の「加賀藩主前田家墓所」とともに日本三大墓地の1つとも言われています。

中御霊屋(なかおたまや)

藩主の側室や童子の墓が祀られる墓域。百雁木(ひゃくがんぎ)の中程東

側に位置し、上下二段で構成される。

上の段を中御霊屋(なかおたまや)、下の段を下御霊屋(しもおたまや)とも呼ぶが、総じて中御霊屋と称することが多い。

上段には三二代義和(よしより)の子や、幕末の文久二(一八六二)年に最後の藩主を襲封(しゅうほう)し、明治の版籍奉還後に厳原藩知事となった三三代義達-よしあき-(重正)の弟のほか、応仁二(一四六八)年に、貞茂以降三代が居を置いた峰町の佐賀から厳原町に府を移し、中村に屋形を築いた宗氏一〇代貞国の墓が祀られている。

下段には一七世紀後半に城下町の整備をおこなった二一代義真の側室や二七代義蕃の夫人、二八代義暢の子が祀られている。墓石はいずれも花崗岩製の五輪塔で、貞国のみが砂岩製の宝篋印塔(ほうきょういんとう)である。

百雁木は登り切りました。

最後の階段を登って大杉の生えている場所が藩主が眠る上御霊屋です。

上御霊屋(かみおたまや

墓所の北端にあり、各御霊屋の中でもっとも高い位置に設けられている。

沢で東西に分かれた敷地には、宗家代から三二代までの藩主(当主)とその夫人や子の墓が建てられている。

東部には文禄慶長の役に際して朝鮮との交渉や戦での先陣に立ち、万松院の由来となった宗氏一九代・初代藩主宗義智(そうよしとし)の墓がある。

墓は他の花崗岩製の五輪塔とは異なり、砂岩製の宝篋印(ほうきょういん)塔で江戸初期の様式をよく示している。

並ぶ墓石のうち、国書偽造に端を発する「柳川事件」の際の藩主で、日朝修好体制を確立させ、佐須銀山の開発と藩政の基盤作りを成した二〇代・第二代藩主義成と夫人、そして桟原城の築造や金石城の拡張、お船江、矢来建設など現代の町並みを形成する城下町の整備を一七世紀後半に敢行し、中興の祖とも評されるべき二一代・第三代藩主義真と夫人の墓は格別に大きく威容を誇る。

対馬藩の倭館貿易が好況だった時代を物語る遺構である。

西部には幕末以降の当主が墓を並べており、現在に連なる宗家の歴史と変遷を窺える。

 

 

宗家19代で初代藩主・宗義智、通称「万松院」のお墓です。

秀吉の始めた朝鮮への出兵(文禄・慶長の役)では義父の小西行長とともに先導役を命じられました。

また1600年の関ヶ原の戦いでは、西軍に味方しますが敗戦。

小西行長は処刑され、義智の妻・マリア(行長の娘)とは離縁します。

義智は、新たに天下人となった徳川家康によってお咎め無しとされますが、断絶した朝鮮王朝との国交回復を命じられました。

20代義成(光雲院、義智の第二子)の墓。

義成の時代に対馬藩存続の危機となる柳川一件 (やながわいっけん)が起こります。

これは 江戸時代 期に 対馬藩主・ 宗義成 と 家老 ・ 柳川調興 が 日本 と 李氏朝鮮 の間で交わされた国書の 偽造 を巡って対立した事件です。

中興の祖とも評される21代義真(義成の長子)と正室(京極夫人)の墓。

義真の時代は、朝鮮貿易と銀山経営が最盛期を迎え、まちづくりを行い、江戸幕府からも10万石格を称することを認められました。

4        対馬朝鮮通信使歴史館

時間の関係で、前を歩いて通り過ぎるだけでした。

石碑と説明文だけカメラに収めました。

江戸時代の朝鮮通信使

朝鮮通信使は、慶長一二年(一六〇七)から、文化八年(一八一一)までの間に、一二回来日した。

それは、日本と李氏朝鮮との間の善隣友好の誼(よしみ)を通わす国家外交使節でもあり、一大文化使節でもあった。

時に、正便以下五〇〇名にも及ぶ一行の来日は、壮麗絵巻を成し、洗練された学問 芸術と、絢爛とした異文化の香りを伝えるものであった。

この朝鮮通信使の、有形・無形の行跡は、現在も各地に色濃く遣り、近世、日本が鎖国の時代にも、ことばと慣習を異にしながら、誠信の心による礼を交した隣国と、その人々へのさらなる尊崇の情念を拡げさせる。

世紀を超えて、今、新しい東アジア国際社会の構築の時に鑑み、朝鮮通信使の恒久的に有する史的意義への思いを深くするものである。

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