岡崎城は徳川家康が生まれた城です。
家康は、6歳から19歳までは人質として織田・今川で過ごし、桶狭間の戦いを契機に岡崎に戻りました。
ここで三河一向宗との闘いを経て、三河を統一し、28歳の年に浜松に移ります。
今回は岡崎城公園を散策です。
目次
1 天守閣
まずは、岡崎城の天守を目指します。
岡崎城の天守閣の正面です。1959年(昭和34年)に造られた鉄筋コンクリートの城です。
天守台の石垣は古い時代の、野面積みに見えます。
こちらは裏側から見た天守閣です。
裏手には廊下橋とよばれるアーチ型石橋が架けられていますが、江戸時代には屋根付きの橋が架けられていました。
ここからは、天守閣の中です。
天守閣からの眺め。
城の南側。菅生川方面。
城の西側、伊賀川方面。
東方面
この北側方向がビスタラインと呼ばれる線。
肉眼では、松平家の菩提寺である大樹寺の大きな門が見えたのですが、写真にすると分からなくなりました。
6 本丸周辺の縄張りと石垣
本丸周辺の縄張りと石垣
本丸周辺の縄張り
岡崎城は河岸段丘の先端に本丸を配置し、段丘が地続きとなる本丸北側には深い空堀がつくられ、 何重もの曲輪を造り出しています。
二の丸から持仏堂曲輪に入りニ重に折れ曲がった先の狭い通路 (帯曲輪) には絶えず本丸からの横矢が掛かる仕組みになっています。
岡崎城の本丸周辺の厳重な守りは、戦国時代の松平清康 (生没 1511-1535年 徳川家康の祖父) の改修を引き継ぎ、家康が築いたものです。
本丸周辺の石垣
徳川家康が1590年に関東に移封するまでの岡崎城は、空堀と土塁を巧みに配置した堅固な 「土造りの城」 でした。
家康の関東移封後に豊臣大名の田中吉政が城主 (在城 1590-1600年) になって以降、天守台や本丸周辺の堀や門に石垣が築かれていきます。
江戸時代前期には譜代大名の本多氏によって長大な菅生川端石垣が築かれるなど、 城全体を石垣で築き上げる近世城郭へと発展していきました。
現在も本丸周辺には多様な石垣の積み方や、曲輪の形状に合わせた湾曲する特異な石垣を見ることができます。
石垣は最も古い段階には自然石をそのまま使用して積まれますが、次第に自然石を割った割石が使用されるようになります。
さらに新しい時代には割石の形を整え、表面を平滑に加工した石材を使用する石垣へと発展していきます。
また意匠を凝らした 「みせる石垣」 として、大きな鏡石(天守台石垣東北面) や隙間なく積み上げられた切石積み (本丸大手門脇石垣) も見られます。
なお、 石垣の石材にはほぼ全て花崗岩が使用されています。
花崗岩は岡崎城に最も近いところでは本丸から北東に約1kmの甲山 (六供町) で産出するほか、 小呂町や稲熊町の丘陵地でも豊富に産出します。
清海掘(せいかいぼり)
清海堀
本丸北側に位置し、 本丸と持仏堂曲輪(じぶつどうくるわ)を隔てる堀です。
岡崎城の最初の築城者である西郷頼嗣(さいごうよりつぐ)の法名「清海入道(せいかいにゅうどう)」 に因み名付けられました。
城内でも古い時代に構築されたと考えられる曲線的な堀です。
本丸側は急斜面の土塁のままですが、対面側は後の改修により石垣が築かれたもので、築城の変遷がみられます。
2 猛将・本田平八郎忠勝の像
「どうする家康では」山田裕貴がやっている役です。
鹿の角の形の兜が特徴です。
3 しかみ像
世に伝うしかみ像「徳川家康三方ヶ原戦役画像」は、浜松の三方ヶ原で武田の大軍に無理な戦いを挑み、負け戦となり多くの家臣を失った家康が、自戒の念を忘れることのないように描かせたものと伝えられ、顔をしかめて苦渋の表情をあらわした珍しい肖像画です。
このしかみ像は、かの画像を基にして製作された石造です。
元亀3年(1572)10月3日、2万7千の大軍を率いて甲府を出発した壮年 武田信玄は、遠江に侵入すると徳川方の城を次々に落とし、12月には家康の居城である浜松城に迫りながら攻撃を行わず三方ヶ原に青年 家康を誘い出し大敗させ、家康最大の危機としました。
命からがら城に逃げ帰った家康は、将としての冷静さを失った自分を大いに反省したのであります。
自戒の像である「しかみ像」は、やがて戦乱の世を統一し、世界に冠たる平和国家を創り上げる礎になったと伝われます。
4 産湯の井戸
産湯の井戸
天文11年 (1542) 12月26日に徳川家康が誕生した際、この井戸から産湯の水を汲んだと伝えられています。
産湯は松平氏発祥の地である松平郷(愛知県豊田市)や産土神である六所神社(明大寺町)からも届けられたと伝わります。
著名な人物の産湯に使われた井戸は後世に神聖視されました。
5 家康公立像
家康公生誕450年祭記念像
このモニュメントは、平成4年に開催された「家康公生誕450年祭」の一環として、450年祭実行委員会が市内外から浄財を募って設置し、岡崎市へ寄贈したものである。
若き元康(徳川家康)の騎馬像は、城を背にし、やがて大権現として再生する日光東照宮の方角を向いている。
背景の石垣と滝は治世を象徴し、元康が胸に秘めた国盗りの夢が、生誕の地、岡崎の土中から盛り上がる様を示す。
7 天下人家康公:出世ペンチ
天下人家康公:出世ペンチ
徳川家康公はここ岡崎城で生まれ、幾多の困難を乗り越え、天下統一を果たしました。
このペンチは「石都岡崎」と呼ばれる岡崎の優秀な石職人の技術と、地元産の良質な御影石を使い造り上げられています。
家康公とこのベンチに座り、天下人を生んだ岡崎の流を感じてください
平成二十四年二月
8 胞衣塚(えなづか)
胞衣塚(えなづか)
天文11年 (1542) 12月26日に徳川家康が岡崎城内で誕生しました。
家康はその後、天下を統一し、 江戸時代の太平の世を築き上げました。
この胞衣塚は徳川家康の功績を広く知らしめるため、昭和11年 (1936) に公園整備の一環として建てられました。
胞衣とは出産時に排出された胎盤などのことで、子供の成長と出世を願う習わしから胞衣を壺に入れて埋納しました。 胞衣を埋めた場所には塚や碑がつくられ、信仰の対象となる場合もありました。
9 龍城神社
岡崎城の隣に鎮座する神社です。
家康公生誕の朝、金の龍が現れ、昇天したという伝説があります。
本殿の天井には龍の彫り物が飾ってあります。
吉兆の度に水が噴出する出世開運龍の井戸はこの神社の正面左にあります。
出世開運龍の井
康正元年(西暦一四五五年)岡崎城竣成の日 龍神の出現により 別名を龍ヶ城とした
天文十一年(西暦一五四二年)家康公 城内にご誕生の刻 金の龍が昇天したと伝える
吉兆の度にこの井水が噴出し 龍神に注ぐ不可思議にこれを祈り 出世開運の井と称えられている
夜の岡崎城と家康ゆかりの場所は以下で報告