史跡

浜松城の前に徳川家康が入場した引間城址・元城町東照宮

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浜松城(正確には浜松城公園)の東、国道152号線を挟んで東側に家康が初めて浜松に入場した引間城(ひくまじょう)址があります。

公園の駐車場から歩いて5分程度のところにあり、現在は、「元城町東照宮(もとしろまちとうしょうぐう)」という神社になっています。

ここは、家康入城前の永禄11年(1568年)12月に城を守る第四代曳馬城主、飯尾乗竜(今川家重臣)の正室、お田鶴の方を攻めて徳川が占領した城です。

武田信玄との三方ヶ原の戦いでは、引間城から信玄を追って出撃し、敗れて這う這うの体で逃げ帰りました。

 

家康公ご住居跡

徳川家康公は一五六八年から遠江国に御馬を進め、飯尾豊前守の城であったここ引間城 (曳馬城) を開かせ、一五七〇年に移られた。

この場所は家康公が寝起きされた引間城主廓の南西角にあたる。

家康公は、ここに住んで城の普請をされ、大きくした城を「浜松城」と命名、その御殿に移られた。

この地は「家康公浜松初住の地」であり、家康公の浜松時代はここに始まる。

家康公の二九歳から四五歳にあたる浜松の一七年間はまさに艱難辛苦を乗り越え、幕府を開くのちの大出世のきっかけをつかまれた時期である。

家康公のどん底からの快進撃はここから始まったのであり、この国に平和をもたらした開運のご住居跡である。

磯田道史誌

 

この坂を登ると引間城址です。

御城印所もあり、椿姫バージョンと、家康バージョンの2種類を販売していました。

境内の東側に家康・秀吉二公の像があります。

 

「若き日の家康・秀吉二公と引間城』

元城町東照宮の建つこの地は、浜松城の前身・引間城の本丸跡です。

戦国時代のこの城には、後に天下人となる二人の武将が相次いで訪れています

天文二十年(一五五一年) 尾張の農村を出た少年時代の豊臣秀吉公(当時十六歳)が今川家臣の居城であった引間城を訪れ、頭陀寺の松下氏に仕えるきっかけを得たとされています。

元亀元年(一五七〇年)には、今川家から独立を果たした徳川家康公(当時二九歳)が遠江を平定し、この城に住み、浜松という地名も定めました。

この城は期せずして、二人の天下人が戦国武将としての一歩を踏み出した運命の地となりました。

ここ引間城跡の東照宮と二公像は「出世の街浜松」を代表するまさに聖地といえます。

秀吉公(一五三六~一五九八)

浜松時代 一五五一 (十六歳)~一五五三 (十八歳)

家康公(一五四二~一六一六)

浜松時代 一五七〇(二十九歳) ~一五八六(四十五歳)

監修 浜松市文化顧問 磯田道史

 

秀吉は当初今川氏の家臣・松下氏に仕えていましたが、松下氏に仕える前に引間城を訪れていたという事です。
家康はともかく、秀吉は多少こじ付け感がありますが・・・。

 

家康は、この引間城に住みながら、新しい浜松城の建設を進めました。

 

元亀元年(1570年)、徳川家康は、 岡崎城から引間城に拠点を移し、城の根本的な拡張工事を行い浜松城と改名しました。

城の中心部を現在の天守の辺りへ移し、 引間城は新城の中に組み込まれました。

なかでも、 天正6年 (1578年) 頃からの築城工事は大規模なもので、 浜松城は家康が新規に築いた城ともいえます。 天正14年(1586年) に駿府城へ移るまで浜松城が家康の本拠でした。

浜松城は、三方原台地の端部の地形を利用し、 本丸や二の丸などが東西に連なっており、北側には守りに適した湿地が広がっていたと推定されます。

家康により拡張された浜松城の範囲は、江戸時代の浜松城の天守曲輪・本丸・二の丸・西端城曲輪・清水曲輪・作左曲輪・出丸等の範囲に当たるとみられます。

家康が築いた頃の浜松城は、 その後に城主となった豊臣氏家臣の堀尾吉晴による改修工事でその大部分が地下に埋もれていますが、 曲輪の位置や大きさには変わりがなかったようです。 家康時代には、 まだ石垣や天守はなく、土塁に囲まれた曲輪に、 板葺きの屋敷が建てられていたと想定されます。

 

 

公園の駐車場への帰り道の下り坂です。

三方ヶ原で敗れ引間城へ到着した家康は、全ての城門を開いて篝火を焚き、いわゆる空城計を行ったと伝えられています。

空城計は諸葛孔明が使った計略で、わざと自分の城を空っぽの状態にして見せて、敵の警戒心を誘う計略のことです。

NHKの大河では信玄に見破られますが、体調もあり、時間を取られたくない信玄はそれと分かってスルーして兵を西へ進めます。

浜松城に来たら是非こちらの引間城の跡地にも足を運んでみてください。

浜松城の記事は「若き日の徳川家康が17年間過ごした浜松城址

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