山中城跡は箱根の山の中、国道1号線沿いにあります。
名前の由来は分かりませんが、想像どおりであればなんてベタな名前でしょう。
北条氏の本拠地である小田原の西の防衛のために、箱根越えの街道の要所に築城されたものです。
北条氏が豊臣秀吉の小田原攻めに備えて、改修しましたが、結局間に合わず未完成のまま豊臣軍を迎え、わずか半日で落城しました。
旧国道1号線沿線にある山中城跡
国指定史跡山中城跡
(昭和九年一月二二日指定)
史跡山中城は、小田原に本城をおいた北条氏が、永禄年間(一五六〇年代) 小田原防備のために創築したものである。
やがて天正十七年(一五八九年)豊臣秀吉の小田原征伐に備え、急ぎ西の丸や出丸等の増築が始まり、翌年三月、豊臣軍に包囲され、約十七倍の人数にわずか半日で落城したと伝えられる悲劇の山城である。
この時の北条方の守将松田康長・副将間宮康俊の墓は今も三の丸跡の宗閑寺境内に苔むしている。
三島市では、史跡山中城の公園化を企画し、昭和四八年度よりすべての曲輪の全面発掘にふみきり、その学術資料に基づいて、環境整備に着手した。
その結果、 戦国末期の北条流の築城法が次第に解明され、山城の規模・構造が明らかになった。
特に堀や土塁の構築法、尾根を区切る曲輪の造成法、架橋や土橋の配置、曲輪相互間の連絡道等の自然の地形を巧みにとり入れた縄張りの妙味と、空堀・水堀・用水池・井戸等、山城の宿命である飲料水の確保に意を注いだことや、石を使わない山城の最後の姿をとどめている点等、学術的にも貴重な資料を提供している。
平成十一年三月
文化庁
静岡県教育委員会
三島市教育委員会
目次
1 三の丸堀
三の丸堀
三の丸の曲輪の西出丸まで南北に走るこの端は、大切な防御のための堀である。
城内の各曲輪を囲む堀は、城の縄張りに従って掘り割ったり、畝を掘り残したりして自然地形を加工していたのに対し、三の丸堀は自然の谷を利用して中央に縦の敵を設けて二重堀としている。
中央の敵を境に、東側の堀は水路として箱井戸・田尻の池からの排水を処理し、西側の堀は空堀として活用していたものである。
この堀の長さは約一八〇m、最大幅約三〇m、深さは約八mを測る。
山中城の特徴である障子掘りは、西櫓、西の丸周辺にあります。
形が残るように綺麗に整備されており、嬉しくなり何枚も写真を撮って来ました。
2 障子堀・畝掘
2.1 障子堀
障子の桟(さん)のように見えるところから障子堀と言われています。
現在は保全のため芝が植えてありますが、建設当時は用水池を兼ねた水堀でした。
障子堀
後北条氏の城には、堀の中を区画するように畝を掘り残す、いわゆる「障子堀」という独特の堀が掘られている。
西ノ丸と西櫓の間の堀は、中央に太く長い畝を置き、そこから交互に両側の曲輪にむかって畝を出し、障子の桟のように区画されている。
また、中央の区画には水が湧き出しており、溜まった水は南北の堀へ排水される仕組みになっている。
このように水堀と用水池を兼ねた堀が山城に作られることは常に珍しく、後北条氏の城の中でも特異な構造である。
2.2 畝掘
畝(うね)のようにみえることから畝掘(うねぼり)と言います。
敵が攻め込むためには、畝の道上の部分を歩く必要があり、一列になって進むしかなく、守備側はその手前を重点的に守ればよいので非常に効率的な防御が可能となっています。
3 帯郭
帯郭からは富士山が綺麗に見えます。
4 西の丸跡
西の丸
西の丸は三四〇〇㎡の広大な面積をもつ曲輪で、山中城の西方防備の拠点である。
西端の高い見張台はすべて盛士つみあげたもので、ここを中心に曲輪の三方をコの字型に土塁を築き、内部は尾根の稜線を削平し見張台に近いところから南側は盛土して平坦にならし曲輪は全体に東へ傾斜して、東側にある溜池には連絡用通路を排水口として、雨水等が集められるしくみである。
自然の地形と人知とを一体化した築城術に、北条流の一端をみることができる。
西の丸北側の土塁
山中城のどの曲輪も土塁で囲まれている。
石垣を使う以前の戦国時代の城は全て堀と土塁が築城のポイントであり、城内の何を隠す
か(人・馬・槍等)によって土塁の構築が考えられた。
土塁の傾斜は堀に対して急で、内部には緩やかである。
このように自然の谷が眼下に迫っている所は、土塁も重厚なものでなく、上留程度のも
のである。
5 元西櫓
元西櫓
この曲輪は西ノ丸と二ノ丸の間に位置し、周囲を深い空堀で囲まれた六四〇平方メートルの小曲輪である。
当初名称が伝わらないため無名曲輪と呼称したが、調査結果から元西櫓と命名した。
曲輪内は堀を掘った土を一メートル余りの厚さに盛土し、平らに整地されている。
この盛土の下部にはロームブロックが積まれていたが、これは曲輪内に溜まった雨水を排水したり、霜による地下水の上昇を押さえ、表面を常に乾いた状態に保つための施設と考えられる。
しかもロームブロック層は溜池に向かって傾斜しており、集水路ともなっている。
6 二の丸橋
橋の下の堀にも障子掘が見られます。
7 本丸堀と櫓台
本丸堀と櫓台
本丸と二ノ丸 (北条丸)との間の本丸西堀は、土橋によって南北に二分されている。
北側の堀止めの斜面にはV字状の薬研堀が掘られ、その南側に箱堀が掘られていた。
堀底や堀壁が二段となっていたので、修築が行われ一部薬研堀が残ったようである。
なお、箱堀の堀底からは兜の「しころ」が出土した。
土橋の南側は畝によって八区画に分けられ、途中屈折して箱井戸の堀へ続いている。
堀底から本丸土塁までは九メートルもあり、深く急峻な堀である。
堀の二ノ丸側には、幅三〇~六〇センチの犬走りが作られ、土橋もこの犬注りによって分断されていたので、当時は簡単な架橋施設で通行していたものと思われる。
一般的に本丸の虎口(入口)は、このように直線的ではないが特別な施設は認められなかったので、通行の安全上架橋とした。
説明板左手の、標高五八三メートルの地に二ノ丸櫓台(東西一二メートル、南北一〇メートル)がありそれを復元した。
8 本丸跡
本丸跡
標高五七八m、面積一七四〇㎡、天守櫓と共に山中城の中心となる曲輪である。
周囲は本丸にふさわしい堅固な土塁と深い堀に囲まれ、南は兵糧庫と接している。
この曲輪は盛土によって兵糧庫側から二m前後の段をつくり、二段の平坦面で築かれている。
虎口(入口)は南側にあり、北は天守閣と北の丸へ、西は北条丸に続く。
江戸時代の絵図に描かれた本丸広間は上段の平坦面、北条丸寄りに建てられており、現在の藤棚の位置である。
9 天守櫓跡
天守櫓跡
標高五八六m、天守櫓の名にふさわし山中城第一の高地に位置している。
天守は独自の基壇の上に建てられており、この基壇を天守台という。基壇は一辺七・五mのほぼ方形となり、盛土によって五〇~七〇の高さに構築され、その四周には、幅の狭い帯曲輪のような路が一段低く設けられている。
天守台には、井楼、高櫓が建てられていたものと推定されるが、櫓の柱穴は植樹により撹乱されていたため、発掘調査では確認できなかった。
本丸から櫓台への昇降路は基壇より南へ延びる土塁上に、一m位の幅で作られていたものと推定される。
10 北の丸跡
北ノ丸跡
標高五八三m、天守櫓に次ぐ本城第二の高地に位置し、面積も一九二〇㎡とりっぱな曲輪である。
一般に曲輪の重要度は、他の曲輪よりも天守櫓により近く、より高い位置、つまり天守櫓との距離と高さに比例するといわれている。
この点からも北の丸の重要さがしのばれる。
調査の結果、この曲輪は堀を掘った土を尾根の上に盛土して平坦面を作り、本丸側を除く、三方を土塁で囲んでいたことが判明した。
また、本丸との間には木製の橋を架けて往来していたことが明らかになったので、木製の橋を復元整備した。
11 兵糧庫跡
兵糧庫跡
ここは古くから兵糧庫とか、弾薬庫と伝承されていた場所である。
中央を走る幅五〇㎝、深さ二〇㎝の溝は排水溝のような施設であったと考えられ、この溝が兵糧庫を東西二つの区画にわけていた。
西側の区画からは南面する、三間 (六七m)、四間(八七m)の建物の柱穴が確認された。
このことから周辺より出土している平たい石を礎石として用い、その上に建物があったものと考えられる。
東側の区画からは、不整形な穴が数穴検出され、本丸よりの穴からは、硯・坏・甲冑片・陶器などが出土している。
12 諏訪,駒形神社
諏訪,駒形神社
鎮座地 三島市山中新田四〇番地の一
御祭神 建御名方命 日本武命
例祭日 十月十八日
由緒
史蹟山中城の本丸に守護神として 祀られた。
建御名方命は、大国主命の御子神で、父神の国讓りに抗議して、追われて信濃の諏訪に着き、これより出ずと御柱を立つ。
後、転じて日本第一武神と仰がれる。
日本武命は景行天皇の命を奉じ、九州熊襲や、東国を征した。
弟橘姫の荒海鎮静の入海は此の時である。山中城の落城(一五九〇 〕後、人々移住し箱根山の往還の 宿場として栄えた。
13 御馬曲輪方面
旧国道1号(旧東海道)を挟んで反対側にある御馬曲輪方面
14 箱根旧街道
箱根街道の両側に城の縄張りがあります。
防衛上重要な場所に作ったのがよく分かります。
箱根旧街道
腰巻地区の石畳復元・整備
箱根旧街道は、慶長九年(一六〇四)江戸幕府が整備した五街道の中で、江戸と京都を結ぶ一番の主要街道である東海道のうち、小田原宿と三島宿を結ぶ、標高八四六mの箱根峠を越える箱根八(約三二畑)の区間である。
この旧街道には、通行の人馬を保護する松や杉の並木が作られ、道のりを正確にするための一里塚が築かれた。
またローム層の土で大変滑りやすい道なので、やがてその道に竹が敷かれたが、延宝八年(一六八〇)頃には石畳の道に改修された。
三島市は貴重な文化遺産である石畳の活用を図るため、
この 「腰巻地区」 約三五〇mの区間を、可能な限り江戸時代の景観を保って、平成六年度(一九九四)に復元・整備した。
発掘調査の結果、石畳は幅二間(約三・六m)を基本とし、道の両側の縁石は比較的大きめの石がほぼ直線的に並ぶように配置されていた。
基礎は作らずにローム層の土の上に敷き並べたもので、石材はこの付近で採石したと思われる、偏平に剥離する安山岩を用いていた。
調査の成果を基に、管理のための下部基礎を設け、下図のように、石畳がよく残っていた所約六〇mの間は、江戸時代の石を元の位置に戻して復元し、石畳の少なかった所や全くなかった所約二九〇mの間は、江戸時代の石に加え神奈川県根府川町で採石した偏平に剥離する安山岩を補填した。
また排水路として、ここより上方の願合寺地区石畳に出ているものと同様の「斜め排水路」を二か所作った。