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日本の鉄道の始まり旧新橋停車場(鉄道歴史展示室)

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新橋は、明治5年(1872年)、新橋~横浜間(29km)に日本初の鉄道が走った時の東京側の始発駅でした。

鉄道建設に当たり、反対する黒田清隆、西郷隆盛ほか政治家の説得に当たったのが、大隈重信と井上勝でした。

また、東海道宿場のはたご屋、車ひき、雲助、馬方からも仕事が奪われることを理由に反対する声が上がりました。

建設当時、鉄道を通す品川の海岸線のルート上には兵部省の所有地・芝高輪町があり、「軍事を優先させるべき」と考えた西郷隆盛らが土地の引き渡しに難色を示したため、海に築かれた石垣の上に軌道を作りました。

これが高輪築堤で高輪ゲートウェイ駅を新設するための軌道敷変更工事でその遺構が見つかっています。

そんな反対運動の中、やっとのことで運行に踏み切った鉄道ですが、できてみると反対の声は小さくなり、全国に鉄道網が普及するきっかけとなりました。

開業時の全区間の運賃は上等が1円12銭5厘、中等が75銭、下等が37銭5厘でした。

下等運賃でも米が5升半(約10 kg)買えるほど高額なものであったということです。

「東京汐留鉄道舘蒸汽車待合之図 」/ 立斎広重 : いせ喜・伊勢屋喜三郎, 明治6(1873)

国立国会図書館デジタルコレクション

 

当時の浮世絵

 

1        旧新橋停車場(鉄道歴史展示室)

2003年に古写真を元に復元されました。

新橋駅から旧新橋停車場(鉄道歴史展示室)までは歩いて5分位です。

 

正面にパナソニックの巨大ビルがそびえています。

旧新橋停車場はビル手前の右。

港区で感じる鉄道開業150年

1872年 (明治5年) 10月14日に日本最初の鉄道が新橋横浜間に開業してから、 今年で150年。

開業時の初代新橋駅があった場所はいま、旧新橋停車場 鉄道歴史展示室となっており、再現された当時の外観や関連展示が楽しめます。

また現在の新橋駅では蒸気機関車をはじめ鉄道関連のモニュメントと出会うことができます。

鉄道発祥の地である港区で、 開業150年を感じよう。

 

旧新橋停車場

この建物は、 1872(明治5)年10月14日 (太陽暦)に開業した日本最初の鉄道ターミナル新橋停車場の駅舎の外観を、当時と同じ位置に、できるだけ忠実に再現したものです。

新橋停車場駅舎は、アメリカ人R・P・ブリジェンスの設計により、1871(明治4)年5月に着工、同年12月に完成し、西洋建築がまだ珍しかった時代の東京で、鉄道開業直後に西洋風に整備された銀座通りに向かって、偉容を誇っていました。

1914 (大正3)年、新設の東京駅に旅客ターミナルの機能が移り、 それまでの烏森駅が新橋の名を引き継いで現在の新橋駅となり、貨物専用駅となった旧駅は汐留駅と改称、物流の大拠点として戦前戦後を通じて東京の経済活動を支えました。

文明開化の象徴として親しまれた旧駅舎は、1923(大正12)年9月1日の関東大震災に際して火災のため焼失し、1934(昭和9)年から始まった汐留駅改良工事のため、残存していたプラットホームや構内の諸施設も解体されました。

1986 (昭和61) 年、汐留駅はその使命を終えて廃止され、跡地の再開発工事に先立つ埋蔵文化財の発掘調査が1991(平成3)年から行われた結果、旧新橋停車場駅舎とプラットホームなど構内の諸施設の礎石が発掘されました。 1996(平成8)年12月10日、駅舎とプラットホームの一部の遺構が史跡 旧新橋停車場跡」として国の指定を受け、この史跡を保護しつつわが国鉄道発祥の往時を偲ぶために、駅舎を再建することになったものです。

 

展示室の中は撮影禁止です。

発掘調査で出土した遺物が展示されています。

 

建物の裏手には再現されたプラットホームがあります。

 

プラットホーム(Platform) 構造

プラットホームは「盛土式石積(もりどしきいしづみ)」という構造で作られています。

両側面の真下には、溝状に地面を掘って基礎石を敷詰め、その上に切石を石垣のように積んで土留め壁が作られ、内側には土が詰められました。

基礎石には龍野藩脇坂家・仙台藩伊達家両屋敷の礎石などが使われました。

切石は笠石(石や煉瓦を積み上げた上部に載せる石のこと)を含めて6段あり、地表には笠石を含めた上3段が出ていました。

最下段部分は小口面を揃えて横に並ばせ、2段目から小口面と長手面を交互に並べて積んでいます。

ただし、一律的に小口面と長手面が交互になっているわけではなく、2・3段目では小口面が続く個所もあり、 4・5段目では長手面が並ぶ個所もあります。

 

 

 

鉄道工事の起点となった0マイル標柱。

0哩(ゼロマイル)標識

1870年4月25日 (明治3年3月25日)、 測量の起点となる第一杭がこの場所に打ち込まれました。

1936(昭和11) 年に日本の鉄道発祥の地としてO哩標識と約3mの軌道を復元しました。

1958(昭和33) 年10月14日、旧国鉄によって 『O哩標識』は鉄道記念物に指定され、1965(昭和40) 年5月12日、「旧新橋横浜間鉄道創設起点跡』 として国の指定史跡に認定されました。

創業時の線路

創業当時、枕木やレールの台座 (チェアー)は小石や砂の混じった土を被せられ、レールの頭だけが地表に出ていました。

レール断面は上下対照のI型で、双頭レールといいます。

この復元軌道の半分は小石を被せて当時に近い状態を再現し、残りは枕木や台座が見えるようにしました。

双頭レールは錬鉄製で、1873年にイギリスのダーリントンで作られ、官設鉄道で使われたあと、新潟県柏崎市の製油所で使われたもので、新日本石油株式会社、新日本石油加工株式会社の両社からご寄贈いただきました。

 

 

ここはプラットホームの遺構遺構。

 

2        JR新橋駅汐留口

SLの車輪とともにJR新橋駅汐留口近くに建つ「鉄道唱歌の碑」

井川遥のハイボールのパネルもいいですね。

 

鉄道唱歌の碑

鉄道唱歌の作者大和田建樹先生は安政四年(一八五七)四月二十九日愛媛縣宇和島に生まる幼少國漢文に親しみ十五歳以降特に國学に志した明治七年十八歳の秋上京遊学十七年東京大学講師翌年高等師範学校教授二十四年辞任爾来又官任せず門を開いて歌文を教え地方に出講し行餘謡曲能舞を嗜む学は漢洋に亘り著述は辞典註釋詩歌随筆百五十冊を越えたが三十二年鉄道唱歌東海道山陽九州奥州線磐城線北陸地方關西参宮南海各線の五冊を連刊就中汽笛一声新橋をの一句で始まる東海道の部は普く世に流布して津々浦々に歌われ鉄道交通の普及宣傳に絶大の貢献をなした先生明治四十三年十月一日に没す享年五十四今年恰も生誕百年に當って先生の遺弟待宵舎同人の発起により東海道鉄道唱歌にゆかり深い新橋驛構内に碑を建て永く先生を記念する 昭和三十二年十月安倍能成

 

 

3        旧新橋停車場の周辺の町名の由来

汐留

昭和七年(1932) 汐留町一、二丁目および新銭座町の一部を合併して設立された町で、当時は町域のほとんどが元汐留駅の構内に含まれており、北東に汐留川、東に浜離宮を控えた場所にありました。

汐留川は土橋で堀止まりのため潮汐の干満は外堀には通じず、 汐がこの堀で止まることから汐留川と呼ばれるようになりましたが、いつの頃からかこの辺りの地名のようになったとのことです。

 

芝口

かつての豊島郡芝村 (後に本芝、 現在の芝四丁目) を中心として「芝」と呼ばれる広い地域へ通じる場所ということから芝口と称されるようになったようです。 宝永七年(1710) には、一時期江戸の南の出入口として機能した芝口門がたてられ、 門の南側の日比谷町一、二、三丁目は芝口一、二、三丁目と改称されました。 文政年間 (1818~1830)、芝口三丁目の名主を勤めた長兵衛の十一代前の先祖長兵衛は芝口の前身、日比谷町の開拓者と伝えられています。

 

源助町

源助町は江戸時代のはじめ、 名主役の無浪源助が創設した町屋です。

その頃、 源助町横丁の桑山家屋敷内には水が赤く、 飲料にもならない 「油の井」 と称する井戸がありました。 あるとき、 この井戸から弁財天の像を一体掘り出したところ、 美しい清水が湧き 「弁天の井」と称するようになりました。

この弁天様は明和六年(1769)、 当時芝口三丁目にあった日比谷稲荷へ相殿して祭られるようになったそうです。

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