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トンボロ地形の江ノ島 芸能の江ノ島神社と岩屋洞窟

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神奈川県の江ノ島は地形的には、陸に繋がる陸繋島(トンボロ)です。

有名なフランス世界遺産のモン・サン・ミッシェルと同じです。

1        青銅の鳥居

島の入り口にある鳥居です。

この青銅の鳥居の奉納者の名前に吉原遊郭の旦那衆の名前が刻まれています。

その中に扇屋宇右衛門の名前がありますが、「ブラタモリ×鶴瓶の家族に乾杯 新春スペシャル2023~江の島でブラブラ乾杯」の中で、タモさんが仕入れた扇屋の花魁花扇の逸話を鶴瓶さんが新作落語「山名屋浦里」として発表したとのエピソードを語っていました。

青銅製の鳥居

江の島弁財天参拝の玄関口となる鳥居です。

古くは木製の鳥居でしたが、 1821年に青銅製で再建されました。

鳥居の柱には再建に尽力した大勢の人々の名前が刻まれており、信仰の篤さを物語っています。

正面の額には「江島大明神」と書かれてといますが、特徴的な筆跡は弁財天のお使いである蛇をかたどっています。 鎌倉時代、我が国にモンゴル軍が襲来した戦い (文永の役)で敵側が退散した事への神恩感謝として、 第91代の後宇多天皇が奉納したとされる勅額(天皇から賜った額)を写したものです。 1997年に藤沢市の指定文化財に登録されました。

 

 

2        岩本楼

岩本楼は明治迄約700年お寺・岩本院として続きましたが、廃仏毀釈の影響を受けて旅館に変わりました。

江戸時代には岩本院の御師(おんし:社寺へ参詣者、信者の為に祈祷、案内をし、参拝・宿泊などの世話をする神職)は15人程度いましたが積極的に江戸でPR活動をしたことで観光客が江ノ島を訪れることになりました。

島の人(江戸時代は170人程度)も唐風の洋装と楽器のお囃子を江戸に行って練り歩くこともしたそうです。

富士山が見える部屋(富士見の部屋)が有名です。

旧岩本院(岩本楼)

江の島の歴史の中で、貴重な役割を担ってきたのが、この岩本院です。

中世、江の島には弁才天を本尊とした、 「岩屋本宮」・「上之宮」 (現中津宮・なかつのみや)

「下之宮」 (現辺津宮・へつのみや)の三宮があり、それぞれ岩本坊・上之坊・下之坊の各別当寺が管理にあたっていました。

この三坊の中で 「岩本坊」 は、 「岩屋本宮」及び、弁才天の御旅所であった 「奥津宮」 の別当寺で、江戸時代に、院号の使用を許され 「岩本院」 と称し、江の島全体の総別当でした。

この岩本院の先祖は源氏一族の中の 「宇多源氏」の流れをくむ、近江源氏として有名な 「佐々木氏」です。

江戸時代には、文学や芸能にもとりあげられ、中でも歌舞伎の「青砥稿花紅彩画 (通称「白浪五人男」)に出てくる「弁天小僧菊之助」は、 「岩本院の稚児」がモデルといわれています。

岩本楼の富士山が見える部屋(富士見の部屋)はかつて、沢山の有名人が泊まりました。

 

3        奉安殿

本殿の隣にある奉安殿には2体の弁天様が祀られています。

1つは、頼朝が作らせた鎌倉時代の戦神としての弁天様。

もう1つは、江戸時代に作られた財運、芸事の神様としての弁天様です。

江の島弁財天への参詣の歴史は古く、広島県の宮島、滋賀県の竹生島と並び「日本三大弁財天」として篤く信仰されて来ました。

弁財天は当初、武人守護の神として信仰を集めていましたが、時代が進み泰平の世になることで、次第に“芸能・音楽・知恵・福徳の神”として信仰されるようになりました。

集英殿では勝運行願の神として信仰される八臂弁財天(国重要文化財)や音楽芸能の生運を願う人々の信仰を集めている妙音弁財天(市重要文化財)の御尊像をお祀りするほか、多くの宝物を収蔵しています。

 

4        江ノ島の関東ローム層

海中から隆起してできた島なので、関東ローム層の年代を調べると隆起の時期が分かります。

江の島の関東ローム層と「江ノ島縁起」

この場所で観察できる赤土は関東ローム層中の武蔵野ローム層と呼ばれる地層です。

これは、第四紀後期更新世(約 12.6~1.17万年前)に活発な火山活動をしていた箱根山、富士山などの火山から降り注いだ火山灰や火山砕屑物が江の島の基盤をつくる葉山層と呼ばれる固い岩石の上に堆積してできたもので、 関東一円に広がっています。

長い年月の間に火山灰に含まれる鉱物の鉄分が酸化した鉄さびが赤土の色を作っています。

赤土の中に、 やや粒が荒く、 白っぽい帯のような地層が何本か確認できます。

これは軽石層(パミス) と呼ばれ、 主に箱根火山の大噴火の時に短時間で大量に降り積もった火山砕屑物です。

ここでは、下層から三浦軽石層 (MP)、 東京軽石層 (TP)、 箱根三色旗軽石層 (SP) の3つの軽石層を見ることができます。

箱根火山由来のローム層の中で、 江の島で観察できるのは約8万年前のものからですので、島が陸化したのもその時代ではないかと推察されます。

有名な 「江ノ島縁起」は平安時代中期に書かれた五頭竜と弁天様が登場する江の島誕生の物語です。

その中に 「欽明天皇13年(西暦552年)4月13日真っ黒い雲が天空を覆い、 深い霧が立ち込め、大地震が10日も続いた後、雲の上から弁天様が従えた四天王や風神雷神が空から石を降らせ、海からは真っ赤な火柱とともに岩が噴き出して江の島は誕生した」 との記述があります。

平安中期には、大地震による島の隆起や富士山の噴火で火山灰や軽石が降ってきた記録もあり、このような自然現象が人々の暮らしや信仰と結びついて、 「江ノ島縁起」 誕生となったのかもしれません。

 

5        山ふたつ

山ふたつのくびれ部分は洞窟の天井部分が崩れ落ちてできたものです。

江の島は上空から見るとひょうたんのようにくびれた形をしており、ここは江の島を二分するくびれ部分にあたることから

俗に「山ふたつ」と呼ばれています。

波によって削られてできた洞窟の天井部分が崩れ落ちたことにより、現在のようなくびれた形になったといわれています。

山ふたつの谷底には遊行僧が修行したと伝わる洞窟がありますが、現在は危険なため立ち入りが禁止されています。

6        岩屋

岩屋は断層に沿って海食された洞窟です。

江の島岩屋

江の島岩屋は波によって削られて形成された洞窟で、 弁財天信仰及び江島神社発祥の地とされています。

弘法大師や日蓮上人、源頼朝など多くの高僧や武将が岩屋を訪れて、祈願のため岩屋に籠ったといわれています。

昔は夏になると岩屋に海水が入ってくるので、四月から十月の間は岩屋本宮の御神体を山の上の本宮御旅所 (今の奥津宮)に一時的に移していたとされます。

現在の岩屋は奥行152m の第一岩屋と56m の第二岩屋に分かれており、第一岩屋は富士山の氷穴につながっていると伝わるなど、数々の伝説が存在する洞窟です。

 

全長152m 硬い砂岩のため、途中で崩れないで奥まで海食が進みました。

地質から見た海食洞の生成過程

今からおよそ7~8万年前、 海上に顔を出した江の島は、 現在よりーまわり大きかったはずですが、 はげしい波の力に削られ今のような形になったものです。

島の南岸にある 「岩屋」 は今からおよそ6000年前から、 断層に沿って波が堀進んだもので、 150m程の長さがあります。

島のまわりにはほかにもこの様な海食洞がいくつかありますが、 どれも岩の割れ目の弱い所に沿って波が掘り進んだことがわかります。

島の中央の大きなくびれを 「山二つ」 と呼んでいますが、 これは大きな洞穴が崩れて出来たものと考えられます。

「山二つ」 のそばには、現在も波が掘り進んでいる岩屋があり、 竜池洞と呼ばれています。

岩屋の石造物

この岩屋は古くは「役の行者」が参籠したと言われ、内部に弁財天が奉られ庶民の信仰の対象になり岩屋詣でが盛んに行われていました。

そして岩屋詣でに来た印に様々な石造物を奉納しそれが今に残されています。

その中には竜神や巳像等の弁財天に因んだ石造物が数多く見られます。

今のように参道も整備されていない昔にこのような石造物を岩屋まで運ぶのは並大抵の事ではなかったと思われます。

このような事からも庶民の信仰の厚さが感じられます。

歌川広重の相州江之島岩屋之図となります。

下り坂と、洞窟、波の感じが岩屋の特徴をとらえています。

北条時政と龍神伝説

北条時政は鎌倉幕府の初め、江の島に三十五日間参籠して、子孫の繁栄を祈願したといわれている。

そして満願の夜に、赤い袴に柳裏の衣を着けた端厳美麗な女房が、忽然として時政の前に現れて 「汝が前世は箱根法師である。

六十六部の法華経を書写して、それを六十六箇国の霊地に奉納した善根によって、再びこの地に生を得たのであるから、汝の子孫は、末永く日本の主となって栄華を誇るがよろしい。 但し、 その挙動が政道に違うようなところがあれば、 七代を過ぎずして滅びるだろう」 と言い捨てて帰っていった。

その姿を見やると、 端麗であった女房は、忽ち二十丈ばかりの大蛇 (龍) となって海中に入ってしまった。

その跡を見ると、大きな鱗が三つ落ちていたが、時政は、 祈願成就をよろこび、 三鱗をもって旗印の紋とした。

いま北条氏が七代を過ぎて、なお栄えているのは、 過去の善因のためであるとして、 江の島信仰の功徳をたたえている。

「太平記」 五巻より

 

北条時政は北条得宗家初代当主で、北条政子の父親です。

源頼朝の旗揚げに参加して、北条家の基礎を作りました。

天女と五頭龍(江之島生まれの伝説)

昔むかし、 鎌倉の深沢という場所にある底なし沼に五つの頭をもつ悪い龍が住みつき、 村人を苦しめていました。

この龍に子供を生贄として取られることから、人々はこの「地を 「子死越」 と呼び、 恐れられていました。

ある時、 子死越南方の海上に密雲が何日にもわたってたれこめましたが、天地が激しく揺れ動いた後、 天女が現れ、 雲が晴れると今まで何もなかった海上に一つの島ができていました。

これが現在の江の島とか。

天女の美しさに魅せられた五頭龍は、結婚を申し込むのですが、 悪行が止むまではと断られてしまいました。

その後、龍は心を改め、 結婚することができたと言われています。

この伝説の天女が、 江の島に祀られている弁財天といわれ、五頭龍が龍口明神社として鎌倉市腰越に祀られています。

 

第一岩屋と第二岩屋があります。

人が掘ったものではなく自然が作ったものとは思えないほど深い洞窟です。

今からおよそ3000万年位前、 神奈川県下はほとんどが海底で、 江の島付近は、静かな海であったらしく砂や泥が厚く積もりました。

この地層を葉山層群と呼んでいます。

今から2500万年程前になると、 葉山層は隆起し、丹沢から江の島を通り三浦半島、 房総半島まで続く長い山脈のようになったのです。

その後、 葉山層は削られ、その上に新しい地層が積もりました。 島の北側には、 葉山層の上に積もった逗子層が見られます。

現在、藤沢付近では江の島にのみ葉山層が露出しています。

岩屋も葉山層から出来ていて、 多くの断層や細かいひび割れが入り外観からは堆積した面がはっきりしない地層です。

江の島は、度々隆起を繰り返し、島が海面に姿を現したのはおよそ7~8万年前の事と考えられています。

 

6.1         第一岩屋左奥

6.2         第一岩屋右奥

江ノ島詣での最終目的地。

与謝野晶子歌碑

沖つ風吹けばまたたく 蝋の灯に

志づく散るなり 江の島の洞   晶子

 

こよなく江の島を愛した歌人与謝野晶子は、 歌壇、 文壇に止まらず、教育、評論、 社会運動等、 多彩な活動により不滅の金字塔を樹立した、 二十世紀を代表する文化人であります。

歌集「青海波」 (明治四十五年一月刊行) にあるこの歌は、明治四十四年七月に詠まれました。

それから九十年余り、 蝋の火は今なお灯され、 岩屋を訪ねる人の足許を照らしております。

書は、晶子研究の第一人者、歌人尾崎左永子女史の筆になります。

碑は、藤沢市在住の中山成彬氏の発願により建てられ、市に寄贈されたものであります。

平成十四年十月吉日

藤沢市長 山本 捷雄

 

6.3         波食台: 波によって削られた平らな土地

6.4         第二岩屋

天女と五頭龍(江の島生まれの伝説)

昔むかし、鎌倉の深沢山中の底なし沼に五つの頭をもつ悪龍が住みつき、 村人を苦しめていました。

子供をいけにえに取られることから、この地を子死越と呼んで恐れられていました。

ある時、子死越前方の海上に密雲が何日にもわたってたれこめましたが、天地が激しく揺れ動いた後、天女が現れ、 雲が晴れると今まで何もなかった海上に一つの島ができていました。

これが現在の江の島とか。 天女の美しさに魅せられた五頭龍は、結婚を申し込むのですが、悪行が止むまではと断られてしまいました。

その後、 心を改め結婚することができたと言われています。

この伝説の天女が、 江の島に祀られている弁財天といわれ、 五頭龍が龍口明神社として鎌倉市腰越に祀られています。

 

7         山田検校像

江島神社の奥津宮にあります。

江の島をたびたび訪れ、江島神社に伝わる天女と五頭龍伝説を題材にした「江の島曲」を処女作品として世に発表したとされています。

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