史跡

かつて梶原景時の所領地でもあった寒川神社

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寒川神社は神奈川県高座郡寒川町にあります。

最寄り駅はJR相模線の「宮山」駅です。

駅名は、寒川神社に隣接する宮山神社に由来しています。

 

寒川神社に歩いて行く途中で、川を渡ります。

 

着きました。太鼓橋と大鳥居。

 

寒川神 神社

御祭神

寒川比古命(さむかわひこのみこと)・寒川比女命(さむかわひめのみこと) 二柱の神を奉称して寒川大明神(さむかわだいみょうじん)と申します。

 

例祭日

九月二十日 (九月十九日 例祭宵宮祭・流鏑馬神事)

 

由緒

当神社は総国風土記によりますと、雄略天皇(四五七年~四七九年)の御代に奉幣(天皇より神社に献上品がされること)の記録があり、神亀四年(七二七年)に社殿建立とも伝わり、一六〇〇年以上の歴史を有しています。

以後、延暦十六年(七九七年)桓武天皇を始めとして歴代奉幣の記録があり、承和十三年(八四六年)に神階従五位下を始めとする神階授与もなされています。

また醍醐天皇の御代に制定されました延喜式神名帳によれば相模國十三社の内、名神大社とされており、関東地方の信仰の中心をなしていました。

中世においては源頼朝、小田原北条氏累代による社殿造営や社領寄進がなされており、武田信玄からは武運長久を祈願して鉄錆地(てつさびぢ)六十二間筋兜(けんすじかぶと)(神奈川県指定重要文化財)が奉納されるなど特に崇敬の念は篤く、徳川家代々においても社殿再建、社領寄進など古来より武家からの崇敬は極めて篤いものがありました。

明治期になりますと、明治四年五月に制定されました官国幣社制度によって、例祭において国費から幣帛料が奉納される「国幣中社」に列せられました。

その後、大正時代における関東大震災、昭和の御大典という時代を経て、昭和二十年八月十五日、大東亜戦争の終戦後、同年十二月の神道指令によって、神社の国家管理制度が廃止されました。

昭和二十一年二月、神社神道の宣布と祭祀の執行による氏子の教化育成を目的として、全国の神社及び神社関係者を統合する神社本庁が設立され、当神社も神社本庁による包括神社となっております。

戦後、日本全体の復興とともに、八方除信仰を中心とした御神徳の宣揚に努め、全国の崇敬者からの御崇敬と多くの御参拝をいただいております。

 

社殿

平成の御大典記念事業として平成九年に御本殿、幣殿、拝殿、翼殿、廻廊等の増改築が行われました。

 

境内

神聖なる神嶽山(かんたけやま)を背に、約一万五千坪を有しており、平成二十一年には御本殿奥庭の禁足地を「神嶽山神苑」として開苑致しました。

 

鳥居をくぐると右手に噴水のある池が。

相模国一之宮寒川神社「神池橋」記

「重脩寒川神社太鼓橋記」によりますと、鎌倉時代以降、多くの武将たちの崇敬をあつめ、広壮な御神域と御社殿を有した寒川神社は、天正年間以後次第に御神域が荒廃し、明治の初めには、昔の姿を留めていなかったとあります。

それを嘆いた宮司丹羽与三郎は、明治二十四年三月から御神域の整備に取り掛かり、神社復旧の手始めとして、明治二十五年六月には、長さ三十三尺、本石造りの太鼓橋の再建に着手し、同年十一月に完成いたしました。

しかし、大正十二年九月一日に関東地方南部を襲った関東大地震により、太鼓橋の橋桁が水路に落下するなど、甚大な被害を被りましたが、昭和六年には、それまでの本石造りの太鼓橋から、長さ十六尺・幅十五尺の鉄筋コンクリート造りの太鼓橋に架け替えられました。

その後、平成二十三年までの約八十年間にわたり氏子崇敬者の皆様をお迎えしてまいりました。

平成二十二年十一月には、宮司利根康教により境内整備事業工事委員会が招集され、老朽化が進んできていた太鼓橋の改築並びに周辺整備事業の施工が決まりました。

平成二十三年二月に、太鼓橋改築工事が始まると共に、改築される太鼓橋の名称が公募されました。

同年九月に多数の応募の中から、厳選の結果「神池橋」の名称に決定しました。

同年十二月には神池橋と周辺整備工事が完了し、白御影石で整えられたその姿は、参拝者を迎えるにふさわしい清浄で重厚かつ麗美な佇まいとなりました。

平成二十三年十二月

 

梶原景時の屋敷跡も隣駅の「寒川」近くにあります。

景時は頼朝から寒川町に所領を賜っていました。

『吾妻鏡』にも梶原景時の所領は相模国一宮にあったと書かれており、相模一宮とは寒川神社のことです。

景時も何度もこの神社にお参りしたのですね。

 

参道は長いです。

手水舎です。

神門(しんもん)です。

神門をくぐると本殿です。

 

天体観測は昔の人たちにとって先端科学でした、有名な陰陽師もそうですが、観測によって日々の吉凶を占う暦が作られました。

 

方位盤と渾天儀(こんてんぎ)

寒川神社は、古くより全国唯一の八方除の守護神として信仰されています。

八方除とは、地相・家相・方位・日柄等から起因する、すなわち方位神によるあらゆる悪事災難を除く方災厄除の神としての御神徳です。

ここに、方位盤・四神の彫塑・渾天儀という八方除に因む三つの構造物の構成による記念碑を製作しました。

方位盤は四正(東・南・西・北)と四隅(北東・東南・南西西北)の八方位と中央の九星・十干十二支を、 八方には易の八卦を配当しています。

一般的な気学方位盤とは異なり、八方位を均等に配置し正八角形の意匠でわかりやすく象られています。

四神は天の四方の方角を司る霊獣で南は朱雀、西は白虎、北は玄武を配します。

渾天儀は、本来天体の位置・星等を測定する器具です。

特に星の運行は人々ばかりでなく国家の命運をもにぎると考えられました。

天文観測により暦が作られ、さらに暦によって日々の吉凶が占われたのです。

龍は天空を支えるという故事にならい、渾天儀の四隅に配置しています。

寒川大明神を敬仰する氏子崇敬者の皆様には、この方位盤と渾天儀により方位除についてより深くご理解をいただき、八方除信仰の礎としてご活用下さいますよう祈念いたします。

平成二十四年十月吉日

寒川神社 宮司 利根康教識

 

再び神門(しんもん)から帰ります。

こちらが南門。

この後、もと来た道を戻り、宮山駅から帰路につきました。

交通の便はあまりよくない所ですが、かなり大きな神社でびっくりしました。

時代を遡れば、この場所も相模の国の中心地であったのかもしれませんね。

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