寺下は、城の南側に防備を固めるために4つの寺を集めたといわれています。
江戸時代に干拓が行われるまで、寺の南は川と干潟が広がっていたと言われます。
今回は、豊橋鉄道田原駅から歩いて寺下の各寺を散策してみました。
目次
1 城宝寺(浄土宗)
駅に近い城宝寺です。
江戸時代に、学者、画家、政治家として活躍した渡辺崋山の菩提寺です。
本堂奥の崋山霊牌堂には、 松林桂月画伯をはじめ、日本有数の画家・書家の寄付による天井画があります。
本堂です。
観光案内
城宝寺起源
一、渡辺崋山先生御墓所
自刃せられて検視の後人が二十四日めに江戸から来て瓶に入れたままこの下にお納め申し上げてあり
一、霊牌堂
華山堂には諸大家の献納書画あり
一、愛知県指定「城宝寺石標」
先住民族首長の塚にして前方後円の石廊という
一東海七福神奉安
弁財天を祀り福徳寿命の女神
七福神 最初の礼所 毎月十日例祭
一、弁天堂
弘法大師作 弁財天を祀る
徳川家康公この尊天のお護りにより 御朱印と城宝寺々号を扶寄せらる
弁天山長昌院城宝寺と改称せられ長昌院とは当山の院号にして奥ノ院、阿弥陀ヶ池の庭園に極楽浄土を表現した金色舎利殿あり
一、城宝寺とは英城鎮護の為め子々孫々相違なく御朱印を扶寄するとあり 田原城主 田因幡之守始め三宅備前之守代々城主尊信厚し
平成十八年十一月吉祥日 城宝寺執事
渡辺崋山のお墓です。
蛮社の獄で、田原藩に蟄居していましたが、藩に迷惑が掛かることを恐れ自刃しました。
自刃の地はここから少し離れた池ノ原にあります。詳しくは、
見よや春大地も亨す地虫さへ
二十六の若さで学問振興を内容とする 藩政改革を上申しましたが、却下されました。
この時に詠んだ句です。
ちっぽけな地虫でさえも、春になれば大地を突き通すのだから
自分たちの改革もできないはずがない、という思いが込められています。
境内に城宝寺古墳と呼ばれる古墳があります。
愛知県指定史跡
城宝寺古墳
面積六二二.五m
指定 昭和五十年十二月二十六日
城宝寺古墳は、 渥美半島で最大の墳丘が良好保存されている円墳である。
羨道(えんどう)部は修築されているが、玄室は原形をとどめ、長さ六・四m、幅二・四m、高さ二・二mほどである。
奥壁は一枚岩ではなく、横長の石が六段に積まれている。
天井石は五枚の大岩がのせられ、美道部に三枚がかぶせられている。
珍しい片袖式の石室の構造で、副葬品がないが、六世紀半ばごろのもので、郡内最大の独立墳である。
平成十年 田原市教育委員会
穴倉の由来
愛知県史跡指定(前方後円墳と言う)
昔は渥美の地形は今とは異なっており現在の低地は海であった、磯石の大石で岩窟洞を作りその中に首長の遺体を葬ったと言われている。
この中には大日如来が祀ってある。
弘法大師三十七才の時江ノ島から西国への帰途この岩窟洞の中で護摩の修行をしてこの土地の人々と結縁、弁財天を信仰せられました。
これがこのお寺の始まりとなりました。
2 慶雲寺(曹洞宗)
城宝寺から慶雲寺を目指して歩きます。
路は微妙に曲がっています。
明応元年(1492年)に長興寺三代目の汝南契禅大和尚により開基されたお寺で、 今川義元公の寄進とされる十一面観世音菩薩像が祀られています。
境内には嘉永4年(1851年)から150有余年慶雲寺を見守ってきた旧本堂の鬼瓦が展示されています。
本堂の前のソテツは、たはらの巨木・名木100選に選ばれています。
3 龍泉寺(浄土真宗大谷派)
慶雲寺と龍泉寺は道を挟んで隣り合っています。
どのお寺も一段高い丘陵地にあるため、登り階段があります。
龍泉寺山門の脇には、芭蕉が天津畷 (現在の豊橋市杉山町地内)で詠んだ句を刻んだ句碑があります。
また、日本で初めて西洋兵学の翻訳に着手した浦町出身の鈴木春山 (しゅんざん) のお墓があります。
豆知識
鈴木春山の母、 鈴木園(その) は、 浄土真宗の篤信者として全国的に有名です。
寿久三行や馬上尓
氷る影本うし
尾張藩を追われた愛弟子、杜国訪れて貞享四年厳冬、潮風の吹きさらしを保美に向う芭蕉は、天津畷(豊橋市杉山町天津地内)のあたりでこう詠んだのでした。
すくみ行や馬上に氷る影法師
寒風に身のすくむ思いで馬上の自分の姿は氷りついた影法師のようであると言うのです。
一般には初五が「冬の日や」となった句として知られています。
この碑は天明二年十月十二日(一七八二年)芭蕉歿後八十八年の忌日に田原の俳人たちが芭蕉を偲んてここに建てたもので、蒸門の杉山杉風の抹茶庵を復興した、田原藩士平山留蔵(俳名梅人)が建立の中心人物であったという記録が残っています。
尚、当時梅人から施入された芭蕉像一幅と芭蕉自筆の句帖切も当寺に現存しています。
龍泉寺
4 城下町の入口
慶雲寺と龍泉寺の間にある道は、江戸時代にはお城へ通じる道でした。
ここは、江戸時代の城下町の入口で木戸がありました。
人々は、この坂を登って新町通り、 横町、惣門、大手通りを経て、 田原城に向かいました。
歴史の名残りを感じながら、 田原城跡まで歩いてみましょう。
田原城下町入口跡の由来
龍門寺の古文書に
「慶長年間(一五九六~一六一四) 戶田公(戸田尊次殿様) 城下町を築くにあたり大外堀南西に新町をつくる」とあり、これによると「龍門寺は小牧長久手の戦役長びきて近郷被幣のためやむなく吉胡蔵王山より新町に移る」と記す
現在地は当時城下町の陸路正面の入口にあたり、時には木戸も建てられたようだ
巴江、加治、清谷の入江を前に城下を守る要塞ともなり、路はわざと見透しなく、曲がり曲がって城の大手門にいたる
新町はその道路を中心に開けた街である
龍門寺
坂を登ると、曲尺手(かねんて)と呼ばれる曲がった道がありますが、いわゆる鍵形と呼ばれる通路です。
曲尺手(かねんて)とは、城に攻め込む敵が直線的に進めないようにするため、 わざと鍵の手に曲げた道のことをいいます。
城下町によく見られる道で、 田原城跡に向かう道には、今も3か所の曲尺手が残っています。
豆知識
- 城下町は、間口の狭い家が多いことが特徴です。
間口の大きさで税金が決められていたため、 税金対策として間口が狭く奥に広い造りの家が多かったといわれています。
5 龍門寺(曹洞宗)
更に歩いて龍門寺まで進みます。
この道も曲がっているのが分かりますね。
防衛のために、寺が並んでいるのは、静岡・駿府城周辺の古地図でも見られますが、こうして現在でも町の中に並んでいるところも多いのではないでしょうか。