美術館/博物館

小平市にある東京ガスのガスミュージアム#1

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小平市にある東京ガスのガスミュージアムは、都市ガス事業の歴史、くらしとガスのかかわりを紹介する歴史博物館です。

おしゃれな建物ですが、入場料は何と無料です。

1        渋沢栄一とガス事業

日本のガス事業に深くかかわった渋沢栄一のパネル展示です。

第15代の将軍・徳川慶喜の異母弟・徳川昭武の付き添いで、欧州へ渡ったことが、日本の近代化に対する考え方の基礎となりました。

 

渋沢栄一とガス事業 「公益追求』実践の軌跡

渋沢栄一は、 明治7年(1874)、 34歳の若き頃から、 古希を迎える明治42年(1909) までの35年間、 東京のガス事業をけん引しました。

本展示では、常に公益追求の信念を貫きながら、民間の力でガス事業を成長させ、近代都市東京の経済とくらしの発展に大きく貢献した、渋沢栄一の実践の軌跡を、4つのエピソードを中心にご紹介します。

 

1.1         prologue 渋沢栄一パリでガスと出会う

慶応3年(1867) 将軍徳川慶喜の弟の徳川昭武のパリ万博使節団の一人として、27歳の渋沢栄一はヨーロッパへ渡りました。

幕府が崩壊して急遽帰国となった翌年まで、徳川昭武の欧州各国訪問に同行し、様々な欧州の先端技術、社会組織や経済制度に接したことが、その後の栄一の行動に大きな影響を与えることとなります。

そして、栄一とガス事業との出会いは、パリのコンコルド広場でした。 近代都市の象徴として、広場を明るく輝かせていたガス燈に、栄一は深く感銘を受けました。

さらに、街路の地下の共同溝にも潜るなど、都市インフラであるガス供給の仕組みについても注目していました。

1.2         episode1夜を明るく

欧州から帰国後、大蔵官僚を辞して民間の立場となった渋沢栄一は、第一国立銀行をはじめ生涯で500社を超えるさまざまな事業の設立育成にかかわりました。

その中の一つが、 明治7年(1874) 11月に栄一が取締として就任し、翌年会頭となる、東京会議所です。

東京会議所は、江戸の町会で積み立ててきた資金を管理する役所から独立した団体です。

明治になると、 その資金で道路整備や東京の街のガス灯設置などの都市整備事業や、福祉や商業教育などを運営し、 東京の公益事業を担っていました。

栄一は、明治7年(1874) 12月に銀座通りに初めてガス灯が灯った、東京のガス事業開業直前の時期から関わることになりました。

後に東京会議所が解散し、ガス事業が明治9年(1876) 5月に東京府に引き継がれると、東京府瓦斯局長に就き引き続き、ガス事業の運営を主導しました。

1.3         episode2 商いを明るく

東京府に引き継がれていたガス事業は、 赤字で厳しい状況でした。
明治10年(1877) にガス街灯費を東京府で負担するようになり経営基盤が安定すると、 鹿鳴館や新富座など大口需要家への屋内ガス燈設置への積極的な営業策を展開し、 ガス販売量拡大に務めました。

また、ガス製造設備増強のための投資も行い、事業発展の基を築いていきました。

明治14年(1881) に一度は東京府議会で民間の払い下げが決議されます。

しかし、渋沢栄一は公費で運営を支えてきたガス事業を赤字のまま安価に払い下げることに反対し、一旦、払い下げは見送られました。

明治16年 (1883)、さらに設備を増強するとともに、日本人技術者の育成をおこなうなど、民営化に向けた努力を続けました。

その結果、短期間で事業の黒字化に成功し、民間会社として明治18年(1885) 10月1日に東京瓦斯会社が創立され、渋沢栄一が創業委員長(後に取締役会長)に就任しました。

 

1.4         episode3 都市の経済を力強く

明治20年代に入ると、 渋沢栄一が率いる東京瓦斯は、都市の発展に呼応する形で積極的な経営施策を展開し、経済の発展と企業の発展が両輪となった成長を遂げます。

需要拡大においては、街灯をはじめとした屋内外照明分野の普及拡大策に加えて、ガスを燃料とする新技術の動力源として、欧州から 「瓦斯機関 (ガスエンジン)」 を輸入し、印刷機や織機、 各種工場等の都市産業の動力発電用途として利用拡大を図っていきます。

ガス製造供給網の拡大増強にも努め、 東京北部の市街発展に伴う需要に応えるため、明治23年(1890) に千住の第二製造所の建設を決定し、明治26年(1893) から操業を開始、 明治31年(1898) には、深川に第三製造所を稼働させます。

さらに、 東京南部方面にガス供給網を広げるため、 明治41年(1908) には大森に製造所を設け、品川八ッ山橋にガス管を渡し、大森付近では太いガス管に入れ替える増強工事などをおこない供給量増加に対応していきます。

1.5         episode4 暮らしを豊かに

明治20年(1887) に東京で電燈事業が開始され、 ガス燈の新たな競争相手となりました。 しかし、当時の電燈は電球の寿命の短さや停電のリスクから、 ガス燈が依然優位であり、明治30年代から大正初期にかけてガス燈は全盛時代を迎えます。

一方で渋沢栄一は、 明治29年(1896) に、 技師長である中川五郎吉をガス事情調査のため欧米へ派遣し、 「今後のガス需要は 『熱源利用』 が主流となる」との認識を得ます。

この結果をふまえ、 「一般家庭の炊事用途向けにガスを普及させる」方針を決定し、 ガス燈が優位であった明治30年から既に、 ガス熱源利用の新分野開拓へと踏み出していました。

家庭用の炊事需要創造の端緒となったのが、 日本の食生活に欠かせない炊飯分野でした。

東京瓦斯は自社で日本初の国産品開発に取り組み、 明治35年(1902)に国産ガス機器の特許第1号 「瓦斯かまど」 を発売します。

さらに、暖房分野 (瓦斯火鉢)、 風呂分野(瓦斯風呂) でも国産ガス機器の開発を進めていきます。

1.6         epilogue: 生涯貫いた「公益追求」への思い

明治7年(1874) に東京のガス事業に関わってから35年、渋沢栄一は、 古希を迎えたのを機に、 明治42年(1909) 6月に、 他の多くの企業の役職とともに、 東京瓦斯の取締役会長を降りました。

実業の世界より身を引いた栄一ですが、 その後に東京のガス事業が行政などとの間に問題を抱えると、自ら問題解決のために両者の間に立つこともありました。

東京瓦斯は、第一次世界大戦後の不況と関東大震災の損害復旧資金逼迫による経営苦境のなか、震災復興にあわせて昭和4年(1929) にかけて増大した東京郊外部の住宅地 27万戸のガス需要にも応えるため、設備投資にむけた資本増強が必要となりました。

認可元の東京市に資本増強の申請をおこないますが、 市側は増資を拒否するとともに、 ガス料金値下げも強く要求してきたため、市との紛糾は政府も巻き込む事態となり、その動向が新聞でも連日大きく紹介されました。

その打開のため、89歳になった栄一が請われて、市と会社との調停役を担うこととなりました。

栄一は、 昭和4年(1929 ) 8月9日に当時の俵商工大臣と面談して、調停を進めようとします。

しかし市側が栄一を受け入れず、調停は難航しました。

最終的には、俵商工大臣が瓦斯事業委員会の答申をふまえて10月に裁定を下しました。

結果的にはこのとき会社の増資は認められませんでしたが、市と会社との積年の紛糾は、 一応の決着となりました。

栄一が、高齢にもかかわらず、市民のために身をていして動いたことは、 栄一が公益追求への思いを生涯貫いたことを示す、貴重なエピソードです。

後の回想で栄一は、 「・・・ 人情づくで解決させたいと望んだのであった。 殊(こと)に市民が毎日使用して居る瓦斯の問題であるから、裁定を主務省に求めると云ふような法律的な争いにならぬ為に調停しやうとしたのである。」 との言葉を残しています。

 

 

2        ガス器具の変遷

2.1         銀座のガス灯

銀座のガス灯

In 1874, gas street lamps lit the streets of Gi

1874年(明治7) 横浜、 神戸に次いで、 東京に初めてのガス灯がつきました。 釜杉橋から京橋にかけて設置された85基のガス灯は、レンガ造りの街並みを明るく照らし出しました。

この文明開化の光を一目拝もうと、連日多くの人が押しかけました。

それまで江戸東京の夜は、闇が支配する世界でした。

幕末から明治初期にかけては世情も物騒で、 人々は夜出歩くことなどできませんでしたが、ガス灯のおかげで安心して歩けるようになりました。

 

2.2         新富座(しんとみざ)・鹿鳴館のガス灯

新富座(しんとみざ)のガス灯

1878年(明治11)6月、 京橋区新富町(現在の中央区新富2丁目) に開業した新富座は、 文明開化の象徴的な近代劇場でした。

花ガスを使用した看板を始め、 実に270余のガス灯を舞台や客席に設置し、 東京初の夜間興業が行われました。

 

鹿鳴館のガス灯

1883年 (明治16) 欧化政策を推進していた政府は、その一環として日比谷に鹿鳴館を開館しました。

はなやかな社交場には、ガス灯もいろどりをそえました。 当時の「東京日日新聞紙上に、「同館玄関の正面には菊御紋の紫幕を張り、その上に鹿鳴館なる三字の花瓦斯を点火し・・・・・・」と書かれています。

文中にある花瓦斯とは現在のネオンサインのようなものです。

 

2.3         街灯から室内灯へ

夜の街を明るく照らし出したガス灯は、次第に室内でも使われ始めました。

石油ランプや行灯(あんどん)に比べると、 ガス灯は明るく、いやなにおいもなく、 取り扱いも便利でした。

20年代に入ると電灯会社が設立され、ガス灯の普及は一時伸び悩みました。

しかし、 1894年(明治27) にはじめて輸入された白熱ガスマントルは、それまでの裸火や電灯よりも明るいものでした。

このおかげでガス灯の一般家庭への普及は急増しました。

 

 

2.4         明かりから熱源に

東京ガス作成の1904年 (明治37)の「瓦斯営業案内」には、 ガス室内灯とガス七輪を兼用したガス器具、 「両用ランプ」が掲載されています。

一つの管から、取り外し自在のゴム管で七輪も使える両用ランプは、 明治30年代に入りガスの用途が、明かりから次第に熱源へと移行していく過渡期を象徴するガス器具といえます。

明かりとして使われていたガスは、20世紀を迎えると、 次第に料理や暖房のための熱源として普及し始めました。

ガスはそれまでの炭、石炭などの燃料に比べて、「いつでも使える」 「点火や消火が簡単」 「火力の調節が自在」 「燃料置き場に困らない」などの点で優れていました。

明治後期のガス器具のカタログには、ガス七輪、ガスストーブ、 産業用のガスエンジンなどが登場しています。

しかし輸入品が中心で値段も高価だったため、 買うことができるのは限られた人々だけでした。

 

英国フレッチャラッセル社製

ガスレンジ

明治時代(今から100年以上前)、大きな家ではこのようなイギリス製のガスレンジで料理を作り、お客様にごちそうしました。

ロールキャベツなど、当時ではめずらしい洋食がつくられたようです。

 

今回は、ガス事業と生活の変遷についてまとめてみました。

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