物々交換で経済が成り立っていた古代の日本において、和銅元年(708)に武蔵国秩父郡(むさしのくにちちぶぐん)(埼玉県秩父市)から国内で初めて自然銅が発見され、貨幣「和同開珎(わどうかいちん(ほう))」が鋳造されました。
和同開珎は、一昔前であれば、日本最古の貨幣と考えられていましたが、平成10年の夏、奈良県の飛鳥池遺跡(あすかいけいせき)で、708年[和銅(わどう)元年]よりもさらに古い7世紀後半の地層からから、約40枚の富夲銭(ふほんせん)が見つかったため、最古の座を譲ることになりました。
富夲銭は、数も少なく、一般に流通した形跡もなかったため、現在、和同開珎は日本で最初の流通貨幣という言い方をしています。
さて今回、その自然銅が発見された秩父へ行って来ました。
目次
1 聖神社
自然銅(ニギアカガネ)が御神体として奉られています。
聖神社と周辺の文化財
秩父市大字黒谷二一九一番地外
秩父市指定有形文化財(建造物) 聖神社の社殿(旧今宮神社本殿) 一棟
昭和四〇年一月二五日指定
聖神社は、元明天皇の慶雲年間(七〇四~七〇八)、この地の祝山から自然銅が発見された時、守護神として金山彦命(かなやまひこのみこと)を、慶祝感謝のため大日孁貴神(おおひるめむちのかみ)・国常立命(くにとこたちのみこと)・神日本磐余彦尊(かんやまといわれひこのみこと)を、養老六年(七二二)に元明金尊(げんみょうこがねのみこと)を合祀奉祭したものです。
聖神社の社殿は、秩父市中町にあった今宮神社の本殿を昭和三九年に移築したものです。
社殿は江戸時代中期の建築で、荘重な気品ある流れ造りの本殿と入母屋造りの礼拝殿からなり、彫刻は桃山期の遺風をわずかに残して活気に満ちたものです。
秩父市指定無形民俗文化財 黒谷の獅子舞
昭和三二年二月八日指定
黒谷の獅子舞は、聖神社に所属伝承されてきたもので、伝説によると昔左甚五郎がこの地に立ち寄り竜頭を刻んで奉納したといいます。
元禄時代(一六八八~一七〇四)の末各地に獅子舞が流行した時にこの竜頭を模して獅子頭を刻み、三河国岡崎より師匠を招き十五種目の舞を伝授されたので岡崎下妻流と名付けられています。
獅子舞道具類一式は聖神社に保管されています。
埼玉県指定有形文化財(考古資料) 蕨手刀(わらびてとう) 一口 付足金物二点
昭和六二年三月二四日指定
この蕨手刀は、明治四一年一〇月、大野原古墳群の内、現在の原谷小学校校庭にあった円墳の中から出土したもので、全長四四・八センチメートル・刀身三二・六センチメートル、柄頭が蕨の若芽に似ていることから蕨手刀と称されています。
関東地方からの発見は珍しく製作年代も七世紀から八世紀と見られています。
発当時の記録が残っていないので、同時に出土した土器・古銭等の詳細を知ることはできないが、蕨手刀の出土した古墳は大野原古墳群のなかでも代表的なものであったろうと推測されています。
和銅採掘の遺跡
和銅採掘遺跡は、秩父から和銅を献じたことに、非常によろこんだ元明天皇が慶雲五年正月十一日に年号を和銅と改め、同年日本で初めての貨幣「和同開珎」が鋳造された史上に名高い遺跡です。
黒谷には和銅山・祝山・和銅沢・銅洗堀・殿地・蔵人屋敷など和銅にちなんだ地名が多いことから和銅産出の有力な一拠点とされ、昭和三六年九月一日に埼玉県指定の旧跡になっています。
また和銅山の南方、山続きの金山には、江戸時代に採掘されたと推定される鑿掘りの坑道九箇所、埋没坑数箇所、選鉱場や製錬所跡は昭和三一年三月二五日に秩父市指定史跡になっています。
平成五年三月
聖神社
秩父市教育委員会
聖神社と黒谷の獅子舞
聖神社
御祭神
金山彦命(カナヤマヒコノミコト・和銅元年一月十一日)
国常立命(クニトコタチノミコト・和銅元年二月十三日)
大日霊貴命(オオヒルメムチノミコト・和銅元年二月十三日) (天照大神)
神日本磐余彦命(カムヤマトイワレヒコノミコト・和銅元年二月十三日) (神武天皇)
元明金命(ゲンミョウコガネノミコト・養老六年十一月十三日)(元明天皇)
御由緒
和銅の発見献上を喜ばれた朝廷は、祝山にお宮を建て金山彦命を祀り祝典をあげました。
聖神社の社記によれば創建は和銅元年二月十三日で、和銅奉献の祝祭が終って一か月後には、祝山から蓑山を背にした現在地へ移され前記の神々をご祭神として祀りました。
社殿は以来、四回の建替えを経て現在に至っています。
そして昭和三十九年四月十三日秩父市中町今宮神社の本殿拝殿を聖神社として移築されたことに伴い、新社殿脇に旧本殿を移し大國主命を祀る和鋼出雲神社として奉斎されることになりました。
一間社流れ造りの本殿と入母屋造りの礼拝 らなる現聖神社々殿は、江戸中期宝永六、七年にかけて大宮郷の工匠大曾根与兵衛の建立になり、彫刻は桃山期の遺風をわずかに残し活気に満ちたもので「聖神社の社殿」として秩父市指定有形文化財になっています。
祭行事は年八回です。一月一日の元旦祭、二月三日節分祭、二月二十三日の祈年祭、四月十三日の例大祭、七月十三日禦ぎの行事、十一月三日の和銅出雲神社大祭、十二月十三日の献殻祭、十二月三十一日の大祓式で、元々は十三日に絡む日にすべての祭事が行なわれていました。
黒谷の獅子舞
黒谷の獅子舞は左甚五郎が黒谷の地に立ち寄り、竜頭を刻んで聖大明神に(聖神社)に奉納したことに始まると言われています。
宝歴五年(一七五五) 三河国(現在の愛知県) 岡崎から師匠を招き十五種(獅子舞でいう十五庭)の舞を伝授され、岡崎下妻流を名乗ったと言われています。
文政初年の頃、秩父地方に日照りが続き、いろいろと雨乞いの手を尽くしたが効果がなく、秩父代官の御陣屋から黒谷獅子舞連中に妙見様(現秩父神社)に来て雨乞いの簓をするようお達しがありました。さっそく、竜頭を先頭に瓢箪廻しの筋を舞ったところ、雲一つない青空から、大雨が滝のように降り出したと言われ、それ以来黒谷の獅子舞は「雨「乞い簓」と呼ばれるようになりました。
現在、秩父市無形民俗文化財に指定されています。
平成二十年一月十一日 聖神社
和銅と和同開珎
武蔵国秩父郡から「和銅」が献上されたことを祝い、西暦七〇八年一月十一日、慶雲五年が和銅元年と改元されました。
国の姿や制度もととのい、大きな都の建設も始められようという時でした。
既に六二一年に唐(現在の中国)で発行された通貨「開元通寳」にならい、「和同開珎」銀銭が五月、銅銭が八月と続いて発行され日本最初の通貨が誕生したのでした。
[和鋼]奈良時代の歴史書「続日本紀」は秩父献上の和銅を「ニキアカガネ」と呼んでいます。
「ニキ」は「熟」の意味で精錬を要しない純粋な銅のことで、学名では自然銅と言います。
その生成過程は、地球の地殻変動(造山活動)にともない隆起した秩父中古成層(チャート層)と第三紀層 (推積砂岩層)の断層面に噴出形成された限りなく純銅に近いものなのです。
当時の面影を今もとどめているのが和銅山に残る「露天掘り跡」(地質学でいう「出牛(じゅうし)-黒谷断層」に含まれます)です。
採取された自然銅のうち、大小二箇が聖神社のご神宝として伝えられています。
[和同開珎]「和同」は「天地和同」「万物和同」などの古語にもとづく「やわらぎ、なごやかに集う」という意味合いで、「和銅」とは直接的に結びつく言葉ではないとされます。
「開珎」の「開」は「開始」などの「開」であり、「称」は「珍しい」の「珍」に当たるとされるのが一般です。
これまでは、稲の束や布が「お金」でしたが、円形方孔(丸い形に四角い穴)の銅銭「和同開珎」が使われるようになって、日本に貨幣流通時代のあけぼのが訪れたのが和銅元年だったのです。
平成二十年一月十一日
秩父市和銅保勝会
和同開珎の絵馬
「銭神様(ぜにがみさま)」のご利益
元明天皇の慶雲5年 (708年)、 我が国初のニギアカガネ (自然銅)が秩父の地で見つかり、朝廷に献上されました。
それがきっかけとなり、 我が国最初の流通貨幣 [和銅開珎]が鋳造されました。
朝廷は、勅使を遣わし祝山に神籬 (ひもろぎ・神霊の宿るところ) を建てて金山彦尊を祀り祝典を挙げました。
聖神社の創建は和銅元年2月13日で、 和銅の産地といわれる露天掘りの遺跡が近くにあります。
今でもニギアカガネが御神体として奉られ、 和銅開孫ゆかりの神社であることから「銭神様」とも呼ばれ、 「お金儲けの縁起の神様」として、注目されています。
和銅露天掘り跡と聖神社
和銅(自然銅)がここ黒谷(くろや)で発見され、奈良の都へ献上されたのは慶雲五年(七〇八年)一月十一日のことでした。
このことを非常に喜ばれた元明天皇は年号をすぐに和銅と改め、国を挙げてお祝いをし、「和同開珎」を発行しました。
「和銅露天掘り跡」はこの先六百メートルほど、徒歩約十五分で到着します。
祝典のために「祝山(いわいやま)」に建てられたお宮を今の地に移し、聖神社と称して創建されたのが同じ年の二月十三日でした。
和銅石十三個をご神宝(しんぽう)として祀り、また蜈蚣(むかで)が「百足」と書かれる
にちなんで、文武百官(ぶんぶひゃっかん)(たくさんの役人)を遣わす代わりにと朝廷から戴いた雌雄一対の蜈蚣(むかで)をご神宝として併せ祀りました。
以来、里人は、黒谷の鎮守様として千三百年の長い歳月「この上なく耳聡(みみさと)く口すべらかな」何を言ってもそのことをよく理解してくれ、人の心に染み入る言葉をかけてくれる)神として崇拝してきました。
その間、今までに五回、社殿建替えが記録に残っています。
現在の社殿は、昭和四十年一月二十五日秩父市有形文化財に指定されたものです。
境内には宝物庫・和銅鉱物館があり、自然銅、和同開珎、和銅製蜈蚣、数百種の和銅関連鉱物、当地出土の蕨手刀(わらびてとう)などが見学できます。
秩父市
秩父市和銅保勝会
2 和銅遺跡
聖神社から歩いて12分のところにあります。
沢に下る道がありますが、その道を通り越して100m位登ったところに7~8台位止められる駐車場がありました。
駐車場近くから、遺跡へ下りる階段を見た所。
遺跡はこの階段を下りて行きます。
埼玉県指定文化財旧跡 和銅遺跡
秩父が史上で有名になったのは奈良時代に和銅奉献の記事が続日本紀にあらわれてからであります。
元明天皇の慶雲五年正月十二日、武蔵国秩父郡内より差出された自然銅は、郡司から朝廷に献上されたものです。
発見者は新羅から帰化した「金上无(こん・じょうがん)」と云われております。
発見地や産出地などは諸説がありますが、この地(秩父市黒谷地内......... 旧原谷村大字黒谷) 祝山が発掘の地と思われます。
この山は秩父古生層と第三紀層のあわさり目で、たまたま自然銅が地上に露出したものを里人が見つけたものですが、帰化人も多く住んでいたことからこれが銅とわかったもののようです。
この山や附近には露天掘跡や銅洗堀とか、殿池・和銅山と云う地名が残されております。
又、近くに自然銅を神体とする聖神社や、和銅宝物館などがあります。
和銅山の南方山続きに金山と呼ばれる一連の山塊がありますが、江戸期に採掘されたと思われる銅の選鉱場・製錬所跡・散在するタガネ掘りによる横穴坑などがありますが、和銅沢・蔵人屋敷の地名もこのあたりにのこされております。
和銅奉献によって朝廷は年号を和銅と改め、更に大赦や課税の免除など行ないました。
この後我が国最初の貨銭「和同開珎」が鋳造されたのも歴史上非常に意義深い出来事であります。
昭和三十六年九月一日指定
埼玉県教育委員会
秩父市教育委員会
金上无(こん・じょうがん)は新羅系渡来人で、鉱業に関する鉱山技術者として時の朝廷から招かれました。
鉱物の発見にも渡来人の鉱石は大きいです。
和銅の神の恵み
聖神社から美の山へ続く坂道を上っていくと、まもなく街なかの騒がしさから離れ、棚田が広がる山里風景が目に飛び込んできます。
さらに「和銅露天掘り跡」へと続く、この木々の間の道を進むと、まるで時代が昔に戻ったかのような錯覚を覚えます。
飛ぶ鳥よりも速く毎日都へ和銅を送り届けた「羊太夫の伝説」が残されていることなどもあって、さまざまな場面で当時に思いを馳せることができる場所、それが「和銅遺跡」と言えるでしょう。
神の恵みの和銅十三個をご神宝(しんぽう)として祀り、聖神社が和銅元年(七〇八年) 二月十三日に創建されてから、黒谷には「十三」にまつわる縁起が残されています。
十三氏子(十三戸の氏子のこと)が住んでいる「美の山」を流れ下る十三谷、春秋の祭りも十三日に決まっていました。
十三個の和銅石のうち、大小二個は現在も宝物庫に伝えられています。
十三谷のうち何本が銅洗堀(どうせんぼり)に合流し、何本が荒川や横瀬川(よこぜがわ)に直接流入しているか、今となっては確認の手だてはありませんが、沢筋の数は十三本に近いようです。
なお、銅が産出される土地特有の植物と言われる「花筏(はないかだ)」(俗称「筏草(いかだそう)」)や俗称のみしか伝えられていない「一葉羊歯(ひとはしだ)」が和銅山にだけあるという話なども、このあたりでは言い伝えられています。
秩父市
秩父市和銅保勝会
階段を降りて、沢に着くと、巨大な和同開珎のモニュメントが。
和銅露天掘り跡
目の前の急斜面を蛇行する見学道を登れば、千三百年の往時の面影を残す和銅露天掘り跡を間近に見ることができます。
地質学上では「出牛(じゅうし)-黒谷断層」と言われますが、造山活動による基盤の秩父中古成層と、堆積による第三紀層の断層の露頭に噴出、凝結した自然銅が和銅(ニキアカガネ)と呼ばれたのです。
新編武蔵風土記稿(文政十一年・一八二八年)に土地の人の言い伝えとして、「銅山の様子」を
『東に向かって急坂の小道を八、九町(一キロ弱)も曲がりくりしてよじ登ると頂上に出る。
大岩がにょきにょきそびえ立っている。
その色は銅色(赤黒く光沢のある色、つまりあかがねいろ)がかっている。
大昔、掘り進んだというところは平たい大岩の山を南北に掘り尽くして中断したので、大岩が東西に向き合ってそびえ立っている。
中断したところを今は和銅沢と呼んでいる。』
と書いてありますが、今ここの岩盤上に立てばまざまざとその風景が甦ります。
秩父市
秩父市和銅保勝会
和銅遺跡
慶雲五年(七〇八年)今から千三百年前、ここ武蔵国秩父郡から和銅(自然銅)が発見され都へ献上されました。
これを喜んだ元明天皇が年号を「和銅」と改め、罪人の罪を許したり軽くしたり、高齢者・善行者の表彰、困窮者の救済、官位の昇進を行い、その上に武蔵国の税の免除がされたと「続日本紀」に書かれています。
その中に、和銅発見に関係したといわれる日下部宿禰老(くさかべのすくねおゆ)、
津島朝臣堅石(しまのあそんたかしわ)、金上元(こんじょうがん)(金上无(こんじょうむ)とも)の名前も見られます。
都から遠く離れた秩父が、歴史の表舞台にあらわれ、一躍脚光を浴びました。
催鋳銭司(さんじゅぜんし)の長官に多治比真人三宅麻呂(たじひまひとみやけまろ)が任命され、やがて日本最初の通貨とされる「和同開珎」が発行されます。
国家の体制が整い、都城建設を進め、通貨時代の幕開けを告げることになった献上和銅の初めての産出場所は、「和銅露天掘り跡」なのです。
地質学上「出牛(じゅうし)-黒谷断層」といわれる断層面の一部が露出した状態で、和銅山頂から、麓を流れる銅洗堀まで幅約三メートルのくぼみとなって残されています。
近くには和銅元年に創建され、和銅献上に関係が深いと伝えられる聖神社があり、大小二個の和銅石(自然銅)・和同開珎・和銅製の雌雄一対の蜈蚣がご神宝として収められています。なお、付近に散在する地名に和銅献上時を偲ばせるものが多いのも歴史の深さを物語っていると思われます。
※1 催鋳銭司…お金の鋳造を担当する役所
※2 雌雄一対…メスとオスの一組
秩父市
【和銅製蜈蚣(むかで)】 (実物大)
和銅献上当時、祝典に際し文武百官を遣わすべきところ 「百足」 の百にちなんで
雌雄一対の和銅製蜈蚣を元明天皇から賜ったと伝えられるものです。
【和銅(自然銅)】 (実物大)
和銅献上当時、聖神社のご神体とされていた自然銅13個のうち、 大小2つが現在もご神宝として祀られています。
これは小さい方で、 重さが0.48kg (128匁) のものです。
露天掘りの跡は、普通の沢にしか見えなかったです。
世界の銅産地は、チリ、ペルーで黄銅鉱(銅含有率は0.2~0.5%)を精錬して取り出します。
自然界に単体で産する銅は非常に珍しく銅鉱床の近くに出現することが多いようです。
この近くでも昭和53年(1978)まで操業していた秩父鉱山では鉄、亜鉛、銅、鉛、金などが採掘されていました。