史跡

「鎌倉殿の13人」伊豆の国市で北条家のルーツ探訪

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鎌倉時代に執権として武士の頂点に立った北条家は、もともとは西伊豆の小さな豪族でした。

頼朝の挙兵に協力して鎌倉幕府の創立に尽力し、有力御家人としての地位を得ました。

特に、頼朝の死後は代々鎌倉幕府執権職を継承し、独裁権をふるいました。

今回、「北条氏・源氏ゆかりの地 駿豆線沿線散策」の「北条義時コース(韮山駅~伊豆長岡駅)」をなぞり、地方の豪族としての北条家のルーツをさぐってみました。

まずは地図の西側から攻めます。

 

1        成福寺(じょうふくじ)

もともとは広大な北条館の中にあり、頼朝とその妻・政子の新居もこの辺りにあったと言われています。

寺自体は、北条時宗の子、正宗が建立したと言われています。

本堂は平成元年に建立されたもので新しいです。

建設にあたり本堂下からは、昔の遺品が多数発掘されたとのことです。

寺の縁起によれば、正福寺は鎌倉幕府8代執権北条時宗の子、正宗が建立したと伝えられています。

正宗は元寇で亡くなった人々の菩提を弔うため、鎌倉から伊豆に移り正福寺を開きました。

境内に、正宗と父・時宗、母覚山尼(かくさんに)の供養塔があります。

 

北条時宗、正宗と正宗の母親のお墓です。

北条一族の供養塔です。

供養塔の背後には霊峰富士の姿が。

富士に見守られながら一族の繁栄を願ったのでしょう。

 

2        北条政子産湯の井戸(ほうじょうまさこうぶゆのいど)

正福寺から300m程度、南へくだるとあります。

旧北条氏邸の東側に位置する井戸なので、「政子産湯の井戸」と呼ばれていますが、実際にはこの井戸は産湯の井戸ではないようです。

脇の看板は否定をせず、「伝えられています」と書いてあります。

かつては、妊婦がこの井戸の水を飲んで安産を祈願するという信仰があったようです。

私有地にありますが、見学は自由です。

 

3        守山八幡宮

源頼朝がここで平家追討を祈願して挙兵したということです。

史蹟 源頼朝挙兵之碑

源頼朝 治承四年(1180)8月15日守山八幡宮に平家追討を祈願して挙兵 夜陰 源氏重恩の軍兵数十騎、山木判官平兼隆を襲い討つ、其の間、頼朝 、遥かに山木館の火煙を望 み、悲願の達成を悦ぶ、蓋し鎌倉幕府草創の礎はここに於て成ると、故に記して建碑の所以とする

撰文 戸羽山 瀚

昭和五十一年十一月十日 東京都台東区北上野二丁目

建碑者 倉島延三

 

最初の階段を登ると舞殿があります。

更に階段を登ると拝殿があるのですが、今回は下から見上げて終わりました。

 

4        願成就院

源頼朝の奥州藤原氏征討を祈願して義父(政子の父)の北条時政が1189(文治5)年6月に建立した寺です。

壇ノ浦で平家を滅ぼし武家政権を確立した頼朝は、1189年7月、最後の仕上げとなる欧州遠征に出発します。

28万の御家人を引き連れ奥州平泉に向かう頼朝にとって、幕藩体制を盤石なものにするためには、この戦いに勝利することが何より重要と考えていたと思われます。

本殿にある下記木造の5体は全て国宝です。

阿弥陀如来坐像は 運慶作

不動明王

矜羯羅童子(こんがらどうじ)像

制吒迦童子(せいたかどうじ)像

毘沙門天立像

またこれらの像の体内に納められていた4枚の塔婆形銘札(めいさつ)も国宝に指定されています。

北条時政公のお墓です。

巨大燈籠に挟まれた舗道を通り本堂へ。

本堂の裏手には宝物殿があります。

ここには、三代執権の北条泰時が奉納した「政子地蔵菩薩像」が安置されています。

時代は室町時代になりますが、2代目の堀越公方・足利茶々丸のお墓もここにありました。

茶々丸は伊勢宗瑞(北条早雲)に攻められて各地を転戦の果てに自殺、堀越公方家は滅亡します。

願成就院では希望者がそれぞれの思いを込めて五百羅漢像を作り奉納しています。

楽しそうな羅漢像がお庭のあちこちに据えられています。

5        眞珠院

14歳で流人となった頼朝は、最初、伊藤祐親の監視下で日々を送っていましたが、祐親が大番役で上洛している間に、祐親の三女の八重姫と通じ、男児をもうけます。大番役を終えて京から戻った祐親は激怒し、頼朝を打とうとしますが、北条時政の邸に逃げ込みます。

それこそが、北条が権力をもつ始まりになるのですが、無理やり別れさせられた八重姫は不幸なその後を送ります。

寺の看板にある入水自殺は一つの説ですが、実際の処、頼朝の子供の行方も含めてよくわかっていないようです。

大河「鎌倉殿の13人」では新垣結衣演じる八重姫が、判官・山木兼隆の所在を伝えるために北条屋敷に放った矢が、源平合戦の火ぶたを切る華々しい矢という演出で、鮮烈な印象を与えました。

 

6        守山西公園(北条氏館の遺構)

守山西公園は守山という小高い山の西にあり北条氏邸があったところです。

全盛期は12世紀末から13世紀初めにかけてで、館が使われたのは、北条3代の泰時の頃までで、それ以降の一族は鎌倉に移ったものと思われます。

守山の東側には氏寺である願成就院があります。

平成4年(1992)から平成5年(1993)にかけて行った発掘調査では平安時代末から鎌倉時代はじめにかけての大量の出土遺物とともに建物跡が発見されています。

元弘2年(1333)、鎌倉幕府の滅亡後、北条一族の妻や娘たちは鎌倉から韮山に戻りました。そして、一族の中の円成尼(えんじょうに)という女性が中心になって、館の跡に円成寺という寺院を建て、北条氏の冥福を祈りました。

何もない所ですが、見学できます。

1992年から1993年に企業の研修所建設のための事前調査で発見され、1996年に国史跡に指定されました。

遺構の西側には狩野川が流れています。北条氏はこの狩野川の水運を利用して駿河湾と繋がり物流の拠点としていたと思われます。

透明なパネルを通して芝を見ると当時の北条邸の配置が分かるようになっています。

以外に質素な建物です。

こちらは円城寺です。

7        豆塚神社

義時の屋敷にも近く、北条義時とゆかりのある神社です。

 

8        北条義時屋敷跡

公園の片隅に、石碑がありました。

北条義時は江間小四郎と呼ばれていました。

江間はこの公園付近一帯の地名です。

 

9        北條寺

鎌倉幕府2代執権の義時が創建した寺です。

北條は旧字体で現在は北条を使いますが、ここはお寺の正式名に北條を使っています。

義時の息子が大蛇に襲われて落命したとき、北條寺を墓所とし、七堂伽藍を建立し、仏殿の本尊を運慶に命じたと伝わっています。

しかしながら本尊の阿弥陀如来の作風は運慶と異なり、同じ慶派の仏師の作だろうと言われています。

本堂です。

昔は、このお墓の処にお堂が建っていたということです。

左手奥にのぼりが建っていますが、小四郎山と呼ばれる山の上に義時のお墓があります

こちらが義時夫妻のお墓です。

 

10     子奈湯元公園

「伊豆長岡温泉」のエリアにあります。

源頼朝が伊豆に配流されていた間に小奈の湯(現:伊豆長岡温泉古奈地区)に入湯したという伝承にちなんで『よりともの足湯』と命名されています。

以上で韮山駅の西側の紹介は終わりです。

今回は、車を使いましたが、一日かけて歩いても3時間もあればすべて回れると思います。

ウオーキングも兼ねてぐるっといかがでしょうか。

車で行くと駐車場を気にしなくてはいけませんが、豆塚神社以外はすべて駐車場はあります。

豆塚神社は、はす向かいに、広い駐車場のあるローソンがありましたので、そこに止めて見学してもよいかと。

境内の中に、「帰りにお買い物をして帰ってね」の紙が貼ってあったので、それも許されると思います。

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