史跡 美術館/博物館

桜が満開の会津・鶴ヶ城散策

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1        会津盆地

会津盆地は、周稲山が豊北地方に吹く冷たく湿った風(やませ)を遮断するため例外が少なく、米の収穫量が安定します。

会津盆地は東西の断層に挟まれており、外側は隆起し、内側は沈んで盆地を形成したものです。

このような地殻変動で出来た盆地を「構造盆地」と呼びます。

城は盆地の中でも南東のはずれにあります。

会津盆地には、東西の山から流れ出る多くの川があり、盆地の中央を南東から北西に流れる大きな阿賀川に流れ込みます。

そのため自然と南東部が高くなります。

鶴ヶ城は、城の東側にある渓谷から流れ出る湯川が作った扇状地の上の方に建っているため、盆地全体を見渡すことができ防衛上の利点がありました。

2        会津鶴ヶ城の歴史

豊かな土地を巡って、為政者が次々と変わりました。

その中心が盆地の南東部にある鶴ヶ城です。

会津若松市にある鶴ヶ城(または「会津若松城」とも呼ばれます)は、戊辰戦争時の激戦地でも有名ですが、現在は「桜の鶴ヶ城」として、季節には内外からの観光客が沢山音連れています。

 

歴史を簡潔にまとめると、


  • 蒲生氏郷が基礎を築いた

    鶴ヶ城の基礎は蒲生氏郷によって1592年に築かれました。

    それまでの「黒川」という地名を「若松」に変更し、城下町を整備して近世城郭を築きました。


  • 江戸時代の会津松平家が全盛期

    会津松平家による統治は200年以上にわたり、藩校日新館や白虎隊などを育て、幕末期に雄藩として歴史の表舞台へと登場しました。


  • 戊辰戦争で廃城、昭和時代に再建

    幕末に戊辰戦争が勃発し、鶴ヶ城は戦場となりました。

    明治維新後、天守閣は取り壊され、1965年に鉄筋コンクリート造で再建されました。


さて、今回、10年以上ぶりにこの城を訪れました。

車は東口の臨時パーキング(陸上競技場)に駐めました。

ここは、かつての三の丸です。

 

3        司馬遼太郎文学碑

三の丸の一画にあります。

碑文は、随筆「歴史を紀行する」と、幕末の会津藩主松平容保公を描いた歴史小説「王城の護衛者」の一節が刻まれています。

司馬遼太郎文学碑

会津藩というのは、封建時代の日本人がつくりあげた藩というもののなかでの最高の傑作のように思える。

「歴史を紀行する」 一九六八(昭和四十三)年より容保が、京を戦場に死のう、といったとき、慟哭の声がまず廊下からあがった。

この声はまたたくまに満堂に伝播し、みな面を蔽って泣いた。

「君臣、相擁し、声を放って哭けり」

と、この情景を、劇的な表現で会津の古記録は語っている。

「王城の護衛者」 一九六八(昭和四十三)年より

 

4        新島八重像

文化功労者で元日展理事長の橋本堅太郎さん(二本松市名誉市民)が制作し、平成25(2013)年9月9日、除幕式が行われました。

2013年1月6日から12月15日まで放送されたNHK大河ドラマ『八重の桜』にあわせて作られたもので、写真を見る限り、本物の八重さんよりも主演の綾瀬はるかに似ているように思われます。

新島八重

(1945年―1932年)

会津藩砲術師範・山本家に生まれ、

戊辰戦争では銃を手に鶴ヶ城に籠もり、奮戦した。

明治に入って京都に移住し、同志社の創立者となる新島襄と結婚。

後に日本赤十字社社員となり、日清、日露戦争では篤志看護婦として傷病兵を看護した。

初代京都府議会議長を務めた山本覚馬は兄。

 

5        満開の桜

鶴ヶ城跡と桜の花

「花は桜木、人は武士」と古言のとおり、鶴ヶ城跡は桜の花が実に美しく、 多くの会津藩士の武士道が今にして偲ばれる。

天守閣や石垣と桜の花は、とてもよくあい、思わず「春高楼の花の宴・・」と、土井晩翠の名作「荒城の月」の歌を口ずさむ。

しかし会津藩時代の城内には、桜ヶ馬場以外に桜樹は殆んど無かったという。

今日のように、桜の花がらんまんと咲き乱れる”花の鶴ヶ城”にしたのは、近くに住む遠藤十次郎(現夢先生1863~1935)の尽力であった。

会津松平家からお城の管理・整備をまかされていた十次郎は、明治四十一年、城跡の近隣に陸軍の歩兵連隊が新設された記念に、同志とともに鶴ヶ城跡内外に染井吉野の桜苗一千本を植樹することを考え、率先して奉仕作業をしながら、その成果を見守った。

十次郎はその後、爆発で岩石だらけだった裏磐梯を緑と野鳥の楽園にした植林事業をも苦心して成功させ、”裏磐梯の父”と仰がれた人物であるが、私たちは彼のような先輩を郷土の誇りとするとともに、この鶴ヶ城跡をいつまでも美しく保ってゆくよう努力していかなければならない。

 

二の丸に続く道を進みます。

「明日の夜は何国の誰か ながならん なれ御城に 残す月影」

明治元年(一八六八) 九月二十二日巳の刻(午前十時頃)、会津藩は「降伏」の旗を掲げ、壮絶な戦いを繰り広げた籠城戦に終止符が打たれました。

山本 (新島) 八重は、新政府軍が鶴ヶ城に入城する様子を「切歯扼腕」 (歯ぎしりし腕を強く握るほど無念な様子)の思いで見守ったと晩年(八十四歳)に語っています。

降伏の儀式が終わり夜が更けると、八重は三ノ丸の一角で一首の和歌を詠みました。

このとき

「月が物凄いように輝いていた」とのちに回想しています。

- 八重が物心ついたときから日々見上げてきたお城、籠城戦では城を枕に殉死する覚悟までしたこの鶴ヶ城が、明日からどこの国の誰の手に渡ってしまうのか。-

煌々と輝く月明かりの下で詠まれた和歌に、八重の無念さが込められています。

 

【鶴ヶ城(若松城)】

南北朝の頃、葦名氏によってここに館が築かれたが、 文禄2年(1593年)蒲生氏郷が七層の天守閣を建て外郭を築き、 黒川の地を若松と改め城の名を鶴ヶ城と命名した。

上杉から再蒲生そして加藤となり、寛永16年(1639年) 加藤明成が天守閣を五層に改修し北出丸、 西出丸を整備して現在の城跡を完成させている。

戊辰の役 (1868年) では一ヶ月の籠城に堪えた。

内堀に架かる廊下橋を渡ります。

 

6        本丸埋門

【本丸埋門(ほんまるうずみもん)】

天守閣の北東にあって本丸奥御殿の北側から本丸帯郭に通じる枡形の城門である。

城内の他の門や建築物に比較して低い門構えで埋門の形態をとっていた。

大手口が東であった築城当時は表門であったが、寛永16年(1639年)に完成した加藤時代の改修後は裏門となっている。

本丸奥御殿の勝手口としても重要な門である。

 

いよいよここから本丸です。

 

7        鶴ヶ城

入場券を購入します。

パンフレットはこちら

7.1         歴代藩主

 

葦名家

1384~1589

鎌倉時代以来400年余り会津の地を支配

三浦半島をおさめていた三浦一族の佐原義連が源頼朝より会津地方の地頭職を任せられたことに始まり、 三代光盛から葦名氏と称するようになる。

七代直盛からは会津の直接支配がはじまり、 戦国期の十六代盛氏(もりうじ)の代に葦名氏は最盛期を迎える。

盛氏は隠居後の居館として向羽黒山城(むかいはぐろやまじょう)を築いて移り住んだ。

しかし盛氏の没後は近隣の戦国大名らとの領土争いや後継者争いにより急速にその勢力が衰え、 二十代義広が北隣の伊達政宗の侵略を受け、磐梯山麓での戦いに敗れて葦名氏の会津支配は終わりを告げた。

伊達家

1589~1590

葦名氏をやぶり会津を手中にするも秀吉の命により没収

 

米沢の領主だった伊達政宗は、 磐梯山麓の磨上原で葦名氏をやぶり、念願だった会津を手中におさめた。

その後も近隣と戦いを繰り返して領土を拡大し、 最大時には会津地方と米沢に加え、 現在の宮城県の半分という広大な領土を有するようになる。

全国支配を進める豊臣秀吉への服従には渋っていたが、内部の不安要素が続出し、 小田原の北条攻めをしていた秀吉のところへ出向いて忠誠を誓い、 会津領を明け渡した。

政宗はわずか一年余りで会津を離れ米沢に戻ることとなったのである。

蒲生家

1601~1627

1590~1598

東北支配の要衝会津を城下町として初めて整備

 

豊臣秀吉の奥州仕置により、 会津は蒲生氏郷に与えられる。

会津入りした氏郷は城下の整備を進め、 町の名を 「若松」と改め、 「鶴ヶ城」 を築城する。

また、 産業を根付かせるなど当時の国内中央の文化や情報を会津へもたらした。

さらに秀吉が進める全国統一で、 東北地方を平定させるのに氏郷が果たした役割は小さくない。

氏郷の没後、一時会津を離れるが再び会津領主に返り咲いた。

ただ、その後不運が続いて蒲生家は三代で終わりを告げた。

上杉家

1598~1601

関ヶ原の戦いに敗れ志半ばにして会津より退く

 

蒲生氏の後、五大老の一人だった上杉景勝が会津領主となる。

石高は全国3位の百二十万石であった。

秀吉の死後、 その遺志を尊重しようとする景勝は、 自分の支配を広げようとする徳川家康と対立する。

景勝が神指城を着工すると、家康はすぐに中止することを命じる。

景勝の重臣である直江兼続が、そうした態度を手紙で非難すると、家康は会津討伐のため京都から出陣。

そこを狙って石田三成が挙兵すると、家康は引き返して関ヶ原で衝突した。

戦いは家康が勝利し、景勝は会津を没収されて米沢三十万石へ大幅な減封処分となった。

加藤家

1627~1643

街道を開き城を整備するも領地を幕府へ返上

 

蒲生忠郷が亡くなると、 幕府は伊予松山城主だった加藤嘉明(よしあき)に会津四十万石の領主を命じた。

嘉明は賤ヶ岳の七本槍として名を馳せ、その後も文禄・慶長の役などの海戦で功を挙げた。

すでに年老いていた嘉明が会津入りすると、 子の明成との二代にわたって城下の大規模な改修を行なった。

縄張を北向きにするという大がかりな改修にともない出丸も拡張、天守を再建し、街道の整備などを実施した。

しかしむかしながらの圧政をし、 家臣の反乱も抑えることができず、 明成は領地を幕府へ返上した。

松保・平科家

1643~1868

徳川家康直系の大名として将軍家を支える

 

徳川家光の実弟である保科正之は寛永二十年(1643) に会津入りし、以後幕末まで二百年以上にわたり会津を統治した。

徳川将軍家への絶対的な忠誠を是とし、安定した藩の経営が長く続く。

19世紀の半ば、幕府の支配力が弱まると京都の治安が不安定になり、 九代松平容保は京都守護職を拝命して重責を担った。

しかし最終的に将軍は大政奉還して幕府の支配は幕を下ろす。

幕府に不満を持っていた諸藩は会津討伐へと兵を進め、幕府のために忠義を尽くした会津藩は、 賊軍とされることになる。

錦絵「京都戦争之図」

会津若松市蔵 江戸時代末期

禁門の変の時の松平容保を描いた錦絵。

戦国時代さながらに両面中央の馬上に、敵の首をいくつもぶら下げた勇ましい姿で描かれている。

しかし実際は、 このころ体調を著しく崩しており、記録によればこの日は御所へ参内するのも持別に籠に乗ったままで、両側から支えられなければ歩くことも難しいような状態だったという。

 

 

藩を支えたものづくり

江戸時代は米 (年貢) が各藩の財政の基盤だったが、 米作が天候などの影響で不安定な作物であり、 それを補うためと、貨幣経済の発達によりそれぞれの地域で特色ある産業を専売品として売り出すことで、藩の収入を増やすことを行っていた。

会津藩の財政を支えた重要な産業として紹介されるものには 「漆」 と 「蝋(ろう)」、 そして 「陶磁器」 がある。

特に、漆と蝋は早い時期から藩によって徹底して管理され、 会津から江戸そして全国へと流通していき、やがて 「漆器蝋燭(ろうそく)といえば会津藩」 と認識されるまでになった。

また、 陶磁器は蒲生氏郷の築城の際の屋根瓦づくりを起源とし、会津藩祖保科正之が瀬戸から呼び寄せた職人たちが本郷の地で陶器の製造を始めたことから発展拡大した。

これらの産業は戊辰戦争の悲劇をのりこえて現代まで受け継がれ会津の伝統産業として親しまれている。

 

7.2         戊辰戦争関連

奥羽越列藩同盟

新政府に恭順の姿勢を示していない会津藩と庄内藩が討伐対象となり、東北諸藩では戦闘が広がらないようにという考えもあったが、長州藩士の世良修蔵が 「奥州皆敵」と書いた手紙を送ろうとしていたことが判明して、怒った仙台藩士が世良を暗殺。

その後仙台藩と米沢藩が中心となって動いて閏4月に白石城にて同盟を結成した。

当初打診されながらも協力を断っていた長岡藩だったが、新政府側との交渉が決裂すると越後5藩を伴って加盟し、あわせて31藩からなる奥羽越列藩同盟となった。

ちなみにこの同盟には、支えられる側の会津・庄内藩は入っていない。

のちに輪王寺宮を盟主とした東北地方だけの新しい国を造ろうとする構想もあったようだが、迫ってくる新政府軍の勢いや全国的な情勢を知り、秋田藩や三春藩など次々と新政府側に恭順する藩があらわれ、結束は次第に弱まっていった。

もともと強固な結束というわけでもなく、攻め込まれたら抵抗する戦力も持たない中小の藩は新政府側の圧力に屈して恭順してしまうところも多かった。

 

白河の戦いから平・長岡・二本松の落城

奥州(東北地方)の入口にあたる白河を守ろうと会津藩も多くの兵を送りこんでいたが、5月1日に激しい戦闘となって白河城は奪われ、会津藩はその日だけでも二百名以上の戦死者を出した。

その後は各所で戦闘が行なわれたが、新政府側では説得し恭順させる動きもあり、転換した藩が隣接する同盟側の藩と東北の地域内での戦いも始まるようになってしまった。

7月に入ると平城(たいらじょう)が、下旬には二本松城が攻め落とされ、新政府軍は徐々に会津の藩境へ迫ってきた。

一方で日本海側からも新政府軍は攻め上ってきた。

会津藩からも新潟県内の諸藩に応援部隊を送って戦ったが、ヤマ場となった長岡城が7月2日の総攻撃で落城し、会津藩が舟運の拠点としていた新潟港も奪われてしまった。

こうして会津藩の包囲網が次第に構築されていった。

旧幕府軍としては、幕府直属の兵士や同盟側として戦ってきた諸藩の兵士たちも会津へ集まり始め、会津を一大決戦場とする気運が一気に高まっていった。

 

新政府軍の北上と奥羽越列藩同盟結成

慶応4年(1868) が明けるとすぐ、 京都南部で武力衝突がおこり戊辰戦争が始まった。

戦いは新政府側が圧倒的優勢で決した。

それでも徹底抗戦の姿勢を崩さない会津・庄内と、それを支援する東北諸藩が同盟を結んだところに長岡藩をはじめとする越後大藩も加わり、対決姿勢を明確にしていった。

ただ力で勝る新政府軍に対し徐々に同盟は崩壊していき、 会津・庄内包囲網は狭められていった。

会津藩京都脱出と白虎隊の誕生

鳥羽伏見での戦闘が行なわれている最中に、徳川慶喜は形勢不利を知ると松平容保・定敬など一部を連れて、大坂湾に停泊していた幕府の軍艦でひそかに江戸に向かった。

そして江戸に着くと謹慎を表明し、容保らも従わざるを得なかった。

戦場で苦境に立っていた会津藩士らも、慶喜らが江戸へ向かった知らせを聞いて戦闘の継続を断念した。

しかし指揮官が不在で統率が取れず混乱し、近隣の諸藩も次々と新政府側へ恭順を表明し、淀藩・和歌山藩などに協力を断られ、途中で敵軍と遭遇しないように陸海それぞれに江戸へ急いだ。

江戸へたどり着いた会津藩士たちは不満を募らせたが、容保の側にいながら江戸行きを止められなかった軍事奉行神保修理が責めを負って自刃し、容保も藩主の座を降りることを表明し、会津へ戻ることで事態の収束を図った。

そして3月10日、フランス式の軍制を取り入れた新しい軍体制を組織し、白虎隊などが誕生した。

 

江戸城無血開城とその後

新政府軍は、 次の標的を徳川幕府の拠点である江戸(東京)に定めて進軍した。

鳥羽・伏見の戦いでの新政府軍圧勝の知らせはまたたく間に広がり、態度を明らかにしていなかった諸藩も次々と恭順を表明した。藩主が慶喜に同行した桑名藩でさえ、留守を預かる家臣たちがすぐに新政府へ同調した。

幕府側の留守を任された勝海舟は江戸での戦闘は避けなければならないとして新政府側の西郷隆盛と交渉し、 江戸城を新政府側に引き渡すとして戦争を回避した。

これにより明治新政府はスムーズに歩き出した。

一方で江戸を制圧するために集められた軍勢の矛先は、まだ恭順する意向を示していない東北の諸藩の、特に会津と庄内(山形県)へと向けられた。 会津藩に対しては長州藩が、庄内藩には薩摩藩が恨みを募らせており、新政府軍として進軍する大儀には欠けていたが、そのまま戦闘は継続された。

 

 

会津藩の防御態勢と新政府側の攻撃の布陣

会津藩の面積は千葉県と同じくらいの広さがあり、その多くが山林となっていて、 藩の外とつながる街道がいくつもあった。

会津藩としても、敵襲に備えるために兵力を分散させなければならなかったが、敵が大挙して押し寄せるには広く整備された街道を来る可能性が高いだろうとして、特に南側に通じる日光や白河方面へ主力となる部隊を配備した。

藩では鳥羽伏見での敗戦を踏まえて1月10日に軍制を改め、部隊を年齢別の構成としていたが、主力となるのは朱雀隊であり、最新鋭の武器もそちらへ多く配備されたようだ。

この時点では白虎隊は戦闘の経験も無かったため、あくまでも予備軍として後方支援をしながら、経験を積ませる思惑だった。

このほか各地で戦っていた幕府側の兵士たちも続々と会津入りしてきたが、地理的な知識を持っていないままに配置についたことが、後に大きな痛手となる。

 

 

新政府軍による会津攻撃開始

二本松城を陥落させた新政府軍は、いよいよ会津攻めを始めようとしていた。

土佐藩 板垣退助は、知らない土地でもあるので整備された猪苗代湖の南岸を進軍することを主調したが、薩摩藩を率いる伊地知正治は、最短距離で行ける母成峠を進むことを譲らず、最終的には土佐藩も同調してこちらから進攻することとなった。

守備していたのは応援部隊として来ていた幕府直属の部隊や新選組などで、攻撃を食い止められず、しかも知らない土地だったせいか北の方へ逃げてしまったため猪苗代城へ伝達することができず、若松城下への連絡も遅れてしまった。

さらに猪苗代湖から日本海へ流れ出る日橋川にかかっていた「十六橋」を落としてしまえば敵の進攻速度は落とせると思われたが、 若松城下への連絡が遅れたことに加え、十六橋の石橋が頑丈に造られていたため落とすことに手間取り、橋を破壊する前に敵襲を受けてしまったことも会津藩として大きな誤算だった。

 

鶴ヶ城開城

鶴ヶ城の三か所の門に 「降参」 と書かれた白旗が掲げられ、 一か月にわたり続いた籠城戦が幕を下ろした。

北出丸前の通りでは降伏式が執り行われ、 そののち藩主父子と重臣たちは滝沢妙国寺に設けられた謹慎所へ移り、 城内で籠城していた五千人余りの人々も城を追われることになった。

斗南藩成立

明治2年11月、 松平容保の嫡子 慶三郎 (のち容大) が家名再興を許され、 会津領を没収された代わりに旧南部藩領の下北地方・五戸地方を新しく領地として与えられた。

この本州北端の地は 「斗南」と名付けられ、 旧会津藩士と家族たちはこの地に移り住むことになった。

鶴ヶ城取り壊し

城明け渡し後は人の出入りも許されず荒れ果てていった鶴ヶ城。

その後一部は陸軍に使用されることに決定したが、 会津戦争により荒廃した建物の修復は地元が行わなくてはならないため取り壊しを望む要望が逆に地元から出された。

これにより、 明治7年までに石垣を残し全ての建物が取り壊された。

 

7.3         幕末から明治にかけて活躍した会津人

時代に翻弄された最後の藩主

松平 容保

美濃国高須松平家より会津藩8代藩主松平容敬の養子となり、 容敬が亡くなると9代藩主となった。

京都守護職時代は14代将軍徳川家茂や時の孝明天皇からの信頼も厚く京都の治安維持に貢献した。

戊辰戦争が始まると会津藩が旧幕府勢力の主格とみなされ、 容保は会津へ戻る前に藩主を退いたが実質的には終戦まで藩を率いた。

敗戦後は日光東照宮宮司などをつとめたが、 表舞台に出てくることはあまりなかった。

 

御薬園

会津松平家の別荘庭園で、 小堀遠州の流れを汲む園匠目黒浄定の手によるもの。

藩政時代には薬草園としても用いられ、 様々な薬草の栽培や朝鮮人参の試験的栽培などもおこなわれた。

のちに、 松平容保の子である容大らがここで誕生したほか、親子が一時住まいとしたこともあるなどゆかりの深い場所である。

主君を支え続けた名家老

西郷 賴母(たのも)

西郷頼母は、 容保が高須松平家から養子入りした時には養育係をつとめ、 その後家老職として藩主を支えた。

京都守護職就任の要請が幕府より寄せられると藩のことを第一に考えるあまり辞退するように迫り、これがもとで家老の任を解かれる。

しかし、 鳥羽伏見の戦いが始まると復職し以後各地で戦線に出た。

やがて若松城下に戦火が迫ると、 西郷家一族の女性・子供らが全員自害、 西郷家の悲劇として語り継がれることになった。

籠城戦中西郷は行方不明となったが、敗戦後に館林藩に幽閉となり、 赦免後は日光東照宮の禰宜をつとめた。

 

会津武家屋敷

東山温泉のふもとにある会津武家屋敷には、 会津藩家老・西郷頼母の屋敷を復元した施設がある。

ここでは、 会津戦争の悲劇の中でも広く知られている西郷一族が自刃した悲劇の場面が人形で紹介されている。

なお市内の善龍寺には頼母夫妻の墓のほか、西郷邸で家族と自刃した頼母の妻や子、 そして会津戦争で亡くなった女性たちの名が刻まれた 「なよたけの碑」 がある。

悲劇を生き抜いた少年兵士

飯沼 貞吉(さだきち)

会津藩の軍制改革の時に15歳だった飯沼貞吉は、年齢をいつわり16・17歳だけの白虎隊に入隊した。

会津戦争が始まると飯沼も士中二番隊として戸ノ口原に出陣したが圧倒的な戦力差に敗走、 飯盛山にたどりつき他の隊士たちと共に自刃するが、瀕死の状態で近隣住民に発見され唯一生還した。

敗戦後、飯沼は電信技士として逓信省に勤務し、 日清戦争がおきると従軍している。

生前、 戊辰戦争当時のことを語ることはほとんど無かったといわれる。

 

飯盛山

慶応4年(1868) 8月23日、 白虎隊士中二番隊の隊士たちは飯盛山で自刃を遂げたが、 飯沼貞吉だけは近隣住民の手で助け出され、一命をとりとめた。

その後、 明治17年 (1884) には自刃した隊士たちの墓所が整備され、 飯沼貞吉も、 没後20年余り経ってから墓碑が建立された。

現在、 春と秋に隊士たちの慰霊祭と奉納剣舞がおこなわれるほか、 多くの人々が彼らの供養に訪れる。

「鬼」 と呼ばれた愚直な武士

佐川 官兵衛

武芸に秀でたことから、 主君松平容保が京都守護職を拝命するとそれに従い上洛し、 新たに組織された別撰隊(べっせんたい)を率いて京の町の警固にあたった。

戊辰戦争が始まると鳥羽伏見の戦いののち江戸~会津へと戦場が移るあいだも各地で勇猛な戦いを繰り広げ、 「鬼佐川」 の異名をとった。

会津戦争に突入すると藩士たちを率い城外に出て、 死闘を繰り広げながら転戦した。

明治時代には東京警察本署 (後の警視庁) に出仕、 西南戦争がはじまると巡査隊を率いて参戦したが、 阿蘇山中で戦死した。

 

長命寺

浄土真宗の寺院。

会津戦争中の城下で繰り広げられた戦いのなかでも、 佐川官兵衛が指揮した長命寺での戦いはひと際激しいものだったといわれ、 この時の戦いで父の直道も戦死を遂げた。

戦後は、 会津藩の戦死者が埋葬された。

以前は寺院を囲む土塀に銃弾の痕などが残っていたが、現在は修復されている。

主君に信頼を寄せられた藩士

手代木 勝任(てしろぎかつとう)

藩主松平容保が京都守護職を拝命して京に上る際に付き従って上洛し、 京での守護職の活動全般を担う公用人として他藩や朝廷との外交の任務に励んだ。

戊辰戦争が開戦すると、 東北及び越後諸藩から成る奥羽越列藩同盟の締結に尽力した。

会津藩の降伏の際には、 秋月胤永(あきづきかずひ)とともにその段取りを整えた。

敗戦後は明治新政府に出仕し、 香川県や高知県の権大参事として地方行政に携わり、 岡山県の官吏なども務めた。

坂本龍馬を斬ったとされる佐々木只三郎(たださぶろう)は実弟であり、 会津武家屋敷には墓石がある。

 

白露庭

明治元年(1868) 9月22日、 主君松平容保の意向を受けて手代木勝任らが道筋をつけた会津藩の降伏をしめす儀式が行なわれた。

この降伏式が行われた場所は大手口を出てすぐの場所で、両側には藩でもっとも家格の高い家老屋敷が建っていた。

西側の内藤邸の庭は現在でもその美観が保たれており、 「白露庭」と呼ばれている。

 

日本初の洋式牧場経営

廣澤 安任(ひろさわやすとう)

学問に優れていた廣澤は藩校日新館で優秀な成績をおさめ、やがて江戸にある幕府の学問の最高機関である昌平黌に入学を許された。

藩主の京都守護職拝命の際には先だって京に上洛し当時の京の情勢を探り、 公用方勤として他藩や朝廷との外交にあたったが、 廣澤の優秀さは他藩にも知られるほどであったという。

戊辰戦争が開戦すると会津藩と藩主の救済を訴え投獄される。

敗戦後に解放されると会津藩士たちの新たな生活の場である斗南 (青森県) の地に移り住み、 日本初の洋式牧場を経営するなど、 困窮する藩士たちの支援と青森の発展に尽くした。

 

日新館

会津藩の学校だった日新館は、教育水準の高さから国内に広く知られ、多くの優秀な人材がここから輩出された。

戊辰戦争以後、明治時代に活躍した会津藩出身者の中でも、 日新館で学んだ人々が多い。 現在みられる日新館は当時とは異なる地区に建造物を復元したものである。

 

泣血氈(きゅうけつせん)の命名者

秋月 胤永(あきづきかずひさ)

学問に秀でた秋月は江戸の昌平黌で学び、 主君の京都守護職拝命に伴い公用人として上洛すると朝廷や他藩との外交に活躍したが、 特に尊王攘夷をとなえる過激な長州藩士や公家を京から追放した八月一八日の政変の成功は秋月の功績が大きかった。

やがて戊辰戦争が開戦すると副軍事奉行として戦い、会津藩の降伏の際には秋月や手代木勝任らが新政府側と段取りを調整した。

降伏式で敷かれた毛氈は、秋月により 「泣血氈」 と名付けられた。

敗戦後は東京大学予備門や第五高等中学校で教壇に立ち教育に力を注いだ。

五高時代に同僚だったラフカディオ・ハーンは秋月を 「神のような人」と称え慕ったといわれる。

 

三の丸の詩碑

秋月胤永は会津戦争の敗戦後に主君や藩の処分への温情を願うため長州藩士を越後に訪ね、 その帰りに、 越後街道東松峠の辺りで 「北越潜行詩」 を詠んだ。

鶴ヶ城で一番大きな郭である三の丸には、 現在、この北越潜行詩の歌碑が建っている。

 

京の都の近代化に貢献

山本覚馬

藩の砲術指南役(ほうじゅつしなんやく)をつとめる山本家に生まれた覚馬は兵学に優れ、 江戸に出て佐久間象山の塾で蘭学や洋式兵術を学んだ。

遊学後会津に戻ると日新館では蘭学や兵術を教えた。

藩主の京都守護職拝命に伴い京都勤番として覚馬も上洛、 禁門の変の際には大砲隊を指揮したが、この頃から目を傷めやがて失明に至る。

鳥羽伏見の開戦直後に薩摩藩邸に幽閉されるが、やがて覚馬の非凡な才能が見いだされ解放され、 戦争終結後は要請を受け京都府に出仕し、 博覧会を開催するなどして京の町の近代化と発展に大きく貢献した。

 

同志社大学

実妹の八重と結婚した新島襄が学校設立を目指していた時、 所有していた京都御所の北側の土地を提供し、 現在同志社大学となっている。

裏が亡くなると、 同志社の臨時総長となって遺志を引き継ぎ発展に尽力した。

墓所は京都市若王子山頂の同志社墓地にある。

時代の先を歩んだ女性

新島 八重

山本覚馬の妹。

生家が砲術指南役をつとめていたため、自身も砲術を身に着けていた。

戊辰戦争で会津に戦地が移ってくるとスペンサー銃を手に籠城し、初めのころには夜襲にも参加したといわれる。

また籠城中は他の女性たちとともに兵糧の炊き出しや傷ついた兵士たちの看護に奔走した。 敗戦後、 兄を頼り京都に移り住み、 兄を通じて知り合った新島襄と結婚する。

新島の勧めでキリスト教に入信し、 赤十字社員として篤志看護婦の活動に力を入れたほか、 裏千家に入門しやがて師範の認可を得るまでに究め、 力強い生き様を見せた。

 

大龍寺

大龍寺は臨済宗の寺院で、 新島八重の生家である山本家の代々の菩提寺となっており、晩年の八重が山本家の墓を整備した。

墓標の文字は八重の字だといわれている。

また大龍寺には、算学者である安藤有益のほか山本家以外の会津藩士の墓も多数ある。

 

文武両道の智将

山川 浩

山川健次郎・捨松の兄。

文武に秀でた大蔵 (のち浩) は、 藩主の京都守護職拝命に伴い京に上り、容保の側に仕え大任を支えた。

幕末には、 幕府の代表としてヨーロッパ視察に派遣された遺露使節の一人として見聞を広めた。

しかし、帰国後まもなく戊辰戦争が開戦し、 おもに砲兵隊を率いた。

若年寄から家老へと昇進し、 敵軍に包囲される状況で彼岸獅子 (現在の北会津小松地区の小松彼岸獅子)を先頭に堂々の入城を果たした逸話は有名。 会津藩の敗戦後は、 斗南に移り住んだ藩士たちの実質的な指導者として藩士たちの生活のために奔走した。

版籍奉還後は陸軍に出仕し佐賀の乱や西南戦争でも功を挙げた。

 

筑波大学・お茶の水女子大学

山川浩は、廃藩置県後に陸軍に出仕すると、 明治時代初期の佐賀の乱、 西南戦争などで功績をあげ陸軍少将まで昇進した。

その現役軍人時代に、 高等師範学校 (現在の筑波大学) ・ 東京師範学校女子部 (現在のお茶の水女子大学) の初代校長に任命され、 規律を重んじる厳しい校風で学校をまとめ上げた。

教育界の発展に貢献

山川 健次郎

山川浩の弟、捨松の兄。

戊辰戦争の時にはまだ15歳だったため白虎隊には入隊できなかったが、のちに籠城戦が始まってから再編成された白虎隊の隊士となり籠城戦を戦った。

敗戦後、 国費留学生として渡米し名門イェール大学で物理学を修めると、 帰国後は物理学の教師として東京開成学校 (のち東京大学) の教壇に立つ。

やがて、 東京・京都・九州の帝国大学の総長をつとめ、 教育界で彼の果たした役割は大きかった。

また、 兄と共に旧会津藩の戦死者顕彰に注力し、 会津の復権にその生涯を捧げた。

 

東京大学・京都大学・九州大学

山川健次郎は米国留学から帰国したのち、 東京開成学校 (現在の東京大学)で教壇に立ち、教育者人生がスタートする。

やがて日本人で初めての物理学教授に、そして日本で最初の理学博士となる。

明治34年 (1901) には東京帝国大学総長に就任、その後九州帝国大学総長、 京都帝国大学総長などを歴任した。

東京大学、 九州大学などには、 山川の像が建てられている。

鹿鳴館の華

大山 捨松(すてまつ)

山川浩・健次郎の末妹。

幼名は咲。 戊辰戦争の時にはまだ10歳にもならなかったが、 家族と共に籠城戦を生き抜いた。

戦後、 日本初の女子留学生の一人として渡米する。

この時、 母の艶が咲を 「捨てたつもりで帰りを待つ (松)」という気持ちで捨松の名をおくったといわれる。

11年に及ぶ留学生活を終えて帰国した捨松は、陸軍卿だった大山巌に嫁ぎ、当時日本が推し進めていた欧化政策に貢献するため鹿鳴館外交で活躍した。

またおなじ女子留学生だった津田梅子と共に女子教育の発展を目指し女子英学塾を開校したほか、 看護婦養成学校の設立資金を募るなど社会福祉にも貢献した。

 

津田塾大学

明治4年(1871) に日本初の女子留学生として渡米した捨松。

この時の留学生五人のうちの一人が津田梅子であり、 生涯の友となった。

帰国後、 まだまだ遅れていた日本の女子教育を普及させるため、そして英語教育を根付かせるために梅子は女子英学塾(現在の津田塾大学) を創立したが、捨松も学校運営を支援し、日本の女子教育の発展に尽くした。

7.5         鶴ヶ城の上からみた満開の公園

7.5         大河ドラマ

 

「八重の桜」は、2013年に放送されたNHKの大河ドラマで、会津藩の砲術師範の家に生まれた山本八重が、後に同志社大学設立者の新島襄の妻となります。

彼女は男尊女卑の世情の中で、時代をリードする“ハンサムウーマン”として活躍。

会津武士道の魂を守り抜き、生涯自分の可能性に挑み続け、すべての人の幸福を願った物語です。

綾瀬はるかが主演し、国際エミー賞にもノミネートされました。

 

八重と、覚馬の着物意匠。

戦闘服

 

 

8        荒城の月碑

荒城の月碑

名曲 「荒城の月」 が鶴ヶ城と青葉城をモチーフに作詞されたことは土井晩翠氏を招いた、 音楽祭であきらかとなった。

時は昭和21年のことである。

翌年、有志により詩碑建設会が設立され、同年6月5日土井晩翠夫妻を招いた盛大な除幕式が行われた。

この詩碑には、 晩翠氏直筆による荒城の月1番~4番までの歌詞が記されている。

 

9        麟閣

茶室 麟阁【福島県指定重要文化財】

天正十九年 茶道の祖・千利休は、豊臣秀吉の怒りに触れ、死を命じられました。

その時の会津領主・蒲生氏郷が、利休の茶道が途絶えるのを惜しんで、その子 少庵を会津にかくまい、徳川家康とともに千家復興を秀吉に願い出ました。

その結果、少庵は京都に帰って千家を再興し、宗 宗室、宗守の三人の孫によって、表、裏、武者小路の三千家が興され、今日の茶道の基礎が築かれました。

この少庵が会津にかくまわれている間、蒲生氏郷の為に造ったと伝えられています。

江戸時代の初期から中期にかけて現在の様式に改められたと考えられる茶室です。

戊辰戦争の後、城下へ移築されていましたが、平成二年に建造当初の地に移築復元されました。

 

寄付(よりつき)

外露地に構えられる建物で、茶会に先立って客が連客と待ち合わせたり身支度を整えて、席入りの準備をするための施設。

この寄付は、森川家から移築復元したものである。

中門(ちゅうもん)

内露地の出入口に設けられた門で、高さが低く抑えられ、茶室の躙り口同様、潜りの意味が込められている。

 

蹲踞(つくばい)

露地にある水場のことで、手水鉢と役石などでできている。

蹲踞では茶室に入る前に俗界の汚れを払い、清らかな心で席入りするために手を洗い、口をすすぐ。

この手水鉢は、若松城の遺構を生かしたもの。

 

若狭守森川重則は、慶長十七年(一六一二年)に蒲生氏郷の子秀行公より、城内にあった牡丹の木を拝領した。

そののち三代忠郷は若くして死亡、蒲生家は御家断絶。

その後森川家は浪人とったが、この牡丹を自宅で大切に保存し、佳節には旧重臣等相寄り、この牡丹を囲んで旧主を偲んだと伝えられている。

この牡丹は、平成四年に復元された麟閣へ移された。

 

10     本丸御殿跡

 

会津鶴ヶ城本丸御殿

ここから見える芝生とその周辺には、鶴ヶ城本丸御殿が建ち並んでいました。

本丸御殿は、表、 中奥、 奥向などに分けられていました。

中奥は藩主が日常生活や政務を執る場で、 表は藩主の謁見など公式な儀式、行事のほか藩役人の執務の場で、奥には金之間や御茶室などもあります。

また、長局のある奥向はいわゆる大奥にあたり、藩主の家族や女性たちの生活の場でした。

 

11     御三階跡 (おさんがい あと)

御三階跡 (おさんがい あと)

ここには本丸内唯一の高楼建築 「御三階」 がありました。

藩主の御休息の間のすぐ背後に位置し、限られた人しか近づけなかったと考えられます。

戊辰戦争 (1868年) でも焼失することはありませんでしたが、戦いの後、 戦闘によって本堂を失った市内の阿弥陀寺へ建物は移築されました。

大正年間に城跡公園として整備が始まってからも、建物のあった石垣は残り、 会津若松市としては将来、 再び往時のような姿でよみがえらせることも含めて、 城跡全体の整備計画の中で検討しているところです。

現在は、石垣が積まれたところやその周囲の地面の中に、むかしのことを知る手がかりがあるかもしれないとして、発掘調査が行われています。

近くの飯盛山の記事はこちら 戊辰戦争で白虎隊が散った飯盛山

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