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2022年にオープンした静嘉堂@丸の内

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静嘉堂文庫美術館は、静嘉堂創設から130周年にあたる2022年、ギャラリースペースを世田谷区の静嘉堂文庫のある場所から丸の内の「明治生命館」に移転しました。

静嘉堂@丸の内」という新たな愛称とともに、2022年10月1日に移転オープン。

丸の内はかつて、岩﨑彌之助が1892年の創設時から美術館をつくりたいと願っていた場所です。

今回、移転後初めて美術館を訪れました。

なお、以前の静嘉堂美術館の記事は以下

世田谷にある「静嘉堂文庫美術館」引っ越し前の展示会 前期報告

世田谷にある「静嘉堂文庫美術館」引っ越し前の展示会 後期報告

 

静嘉堂文庫美術館入口です。

館内に入ると中央にホワイエ(休憩所)があります。

 

今回の企画展示は、「画鬼 河鍋暁斎×鬼才 松浦武四郎」です。

 

河鍋暁斎(かわなべきょうさい)は、澤田瞳子の直木賞受賞小説「星落ちて、なお」で、娘・河鍋暁翠(きょうすい)が、明治と言う新しい時代に奇才といわれた父を継ぎ、伝統的な画法と、新しい画法の間で苦悩するさまが切々と書かれています。

小説を読んだ時から暁斎の絵を一度は見てみたいと思っていました。

河鍋暁斎 (天保2 ~明治22年 / 1831~89年)

幕末明治を代表する絵師。

下総国古河(現・茨城県古河市) の藩士の次男。

2歳で家族共々江戸に出て、 7歳で浮世絵師・歌川国芳に入門、10歳で狩野派を学ぶ。

40歳前後には寺社の絵馬制作などで次第に地位を確立。

明治2年より「地獄極楽めぐり図」に着手。

「政府批判の戯画により捕らえられ、 放免されたことを機に、明治4年 「狂斎」から「暁斎」に改号。

翌年「地獄極楽めぐり図」完成。

この年初めて武四郎の出版物 『西蝦夷日誌』 六編の挿絵を担当、以降、 武四郎コレクション図録 『撥雲余興(はつうん よきょう)」 (明治10年)、 二集 (明治15年) の挿絵画家の一人となる。

武四郎の依頼で、足掛け6年かけて「武四郎涅槃図」を描く。 一方で国内外の博覧会に出品するなど、幅広く活躍した。

 

 

松浦武四郎(まつうらたけ しろう)は、江戸時代末期から明治にかけて活躍した探検家です。

彼は蝦夷地(後の北海道)を6度にわたって探査し、アイヌ民族やアイヌ文化の研究・記録に尽力しました。

また、彼は「北加伊道」(後の「北海道」)という名前を提案し、北海道の名付け親としても知られています。

松浦武四郎 (文化15 ~明治21年 / 1818~88年)

探検家で著述家、 好古家、 北海道の名付け親。

身長150cm。

伊勢国須川村 (現・ 三重県松阪市小野江町) の郷士 (下級武士)の四子。

16歳で江戸を一人旅。

時には僧侶の身分で諸国を巡り、 常に野帳に風土や文化を記録して歩いた。

28歳で蝦夷地(現・北海道) へ。

以降、 約13年間に計6回の調査を実施。

蝦夷地をアイヌの人々への思いを込めて「北加伊道」 と提案。

しかし明治3年(1870) 政府の政策に反対し、 開拓判官を辞職。

以降、「馬角斎」の号を使って著述、 出版と古物蒐集に一層情熱を傾け、多くの文人たちと交流。

好古家としての真骨頂は、 古稀を目指して明治19年に完成した、 全国の寺社仏閣の建材を集めて組み立てた書斎 「一畳敷」 〔国際基督教大学蔵)と河鍋暁斎に依頼した 「武四郎涅槃図」 (松浦武四郎記念館蔵)。

 

松浦武四郎が首にかけていた首飾り

毎日描く天神さま

日課天神像

河鍋暁斎 明治20年(1887)

松浦武四郎記念館

重文

暁斎は、明治14年頃より、 先師に倣い天神と観音を描くことを日課とし、近所の湯島天神や浅草観音堂、 護国院などに毎月日課図を奉納していた。

本作の他、 松浦家にも数点、暁斎筆「日課天神」が納められている。

「日課図」と関防印を捺し、迷いのない筆が心地よい天神図である。

武四郎涅槃图 (北海道人樹下午睡図)は何を描いたのか

本作は軸木の武四郎自身の墨書から、暁斎が「稿」(草稿を提案)したのが明治14年、完成は19年3月、7月には軸装しており、制作に足掛け6年かかったことが分かる。

実質は明治16年頃着手するも、武四郎は次々新入手した古物を描き加えよと注文。

時にはダメ出しもあったのか、 暁斎は「絵日記」 の中で 「松浦先生」 を 「いやみ老人」とも記す。

明治19年12月、日下部鳴鶴は完成後、画中の竹杖に禅語 「扶過断橋水、伴帰無月村」 を加えた。

同じ頃、 小野湖山は箱に 「陸放翁句云、 一身自是一唐虞、禅家所説、即身即仏、 蓋亦此意、 鳴呼北海道人樹下夢中之楽、 可想耳」を揮毫。

即ち、本作に描かれたのは、現世を理想郷として生き、 生身の体も仏と同じとする武四郎が、午睡の夢を楽しむ姿だという。

松の木々は高く、池には緋鯉、庭に七福神や十六羅漢の石像、 犬や猫、 虫たち、そして愛玩の品々・・・ 古稀を前に準備した書斎 「一畳敷」 と同年に完成した本作は、理想郷のような武四郎邸内で眠る自身の姿だろう。

全国の歴史的建造物や社寺の古材を友人に依頼し、それを集めて組み立てた書斎・一畳敷もまた、文字通り武四郎の理想郷であり現実の姿だった。

お釈迦様になりきり、 好物に囲まれシアワせなお昼寝

武四郎涅槃図

河鍋暁斎 明治19年(1886)

松浦武四郎記念館

 

武四郎が自邸で昼寝をする自身の姿を釈迦入滅の情景に見立て、 暁斎に描かせた一幅。

愛用の丹前を着て、右を下に眠る武四郎の顔は実に穏やかだ。

胸に自慢の大首飾り、腰に愛用の 「火用心」 煙草入。

足をさすり泣き伏すのは黒紋付姿の妻とう。

満月に沙羅双樹ならぬ常緑の赤松が映え、天上から駆け付ける仏母・摩耶夫人一行ならぬ、 古画から飛び出した遊女たち。

武四郎の周囲の愛玩品は皆、 悲壮な面持ちだ。 武四郎と暁斎ならではの作。

以下は、武四郎涅槃図の一部を切り取った会場のポスターです。

 

野見宿禰(のみのすくね)は天神様の表象の一種!

野見宿禰図 (絵馬)

河鍋暁斎 明治17年 (1884)

松浦武四郎記念館

 

埴輪を作る男は野見宿禰。

野見宿禰は相撲の祖だが、垂仁天皇の皇后の薨去に際し、殉死の代わりに陵墓に埴輪を立てることを進言し、 土部臣 (土師臣) を許された人物でもある。

後に土師氏の中に菅原姓を名乗る者が現れ、その末裔が菅原道真である。

武四郎は天満宮に絵馬の奉納も予定し、 明治17年に発注したことが 「暁斎の一札」 なる誓約書から知れ、本作は落款より明治17年元旦に奉納すべく準備された奉納絵馬の一枚だろう。

河鍋暁斎が、鬼才と言われる由縁は今回の展示ではよく分からなかったです。

他の展示会でも彼の作品を見てみたいと思います。

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