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モルッカ諸島アンボイナ島にて戦死した伯父の当時の状況を調べてみた

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戦争で亡くなった伯父の、南方の戦線での状況を知りたくて調べで見ました。

お墓には、「昭和20年4月18日 モルッカ諸島アンボイナ島にて死す。行年19歳(満18歳)」

と彫られています。

以下、

餓死した英霊たち (ちくま学芸文庫)

を読みながら当時の状況を抜き書きしています。

1937年に始まった日中戦争から日本の敗戦で1945年に終結する太平洋戦争までの軍の戦死者230万人のうち140万人が餓死と栄養失調による戦病死でした。

その責任は精神論を頼みにし、現地の事情も理解しないまま兵站を軽視した強引な作戦重視の方針にありました。

太平洋戦のラバウル、ニューギニアなど兵を孤立させ何の物資補給も行わない状態にしたにもかかわらず、フィリピンでも同じ過ちを繰り返し多数の兵を飢餓に追いやりました。

1        絶対国防圏

絶対国防圏(ぜったいこくぼうけん)は、太平洋戦争中に日本が絶対に確保すべき領域として定めた地域です。

具体的には、千島列島からマリアナ諸島、カロリン諸島、西部ニューギニアを経てビルマ(現在のミャンマー)までを結ぶ線の内側に含まれます。

この概念は、大日本帝国が本土防衛と戦争継続のために必要不可欠な領土や地点を指定したものでした。しかし、実際には防衛力や補給線の問題から、この構想は実現されませんでした。

この絶対国防圏を死守するうえで、ソロモン諸島や、ニューギニアに沢山

沖縄タイムスの記事から

 

2        ミッドウェー海戦

1942年6月5日から6月7日にかけて、中部太平洋のミッドウェー島周辺で行われたミッドウェー海戦は、日本海軍とアメリカ海軍の間で行われた戦闘です。

この戦闘は太平洋戦争の転換点とされており、日本側は制空権と制海権を失い、以後は戦争の主導権がアメリカ側に移りました。

日本の空母4隻が壊滅的な損害を被り、アメリカ軍も空母1隻と駆逐艦1隻を失いました。

この戦い以降、太平洋戦争の主戦場はソロモン諸島とその周辺に移り、激戦が繰り広げられました。

ミッドウェー海戦は、日本側にとって重大な敗北であり、その後の戦局に大きな影響を与えました。

3        ガダルカナルの戦い

ガダルカナル島の戦いは、第二次世界大戦において1942年8月以降、日本軍と連合軍が西太平洋のソロモン諸島のガダルカナル島を巡って繰り広げた戦いです。

この戦いは、ミッドウェー海戦と並び、太平洋戦争における戦局の大きな転換点となりました。ガダルカナル島はオーストラリアとアメリカを結ぶ中継地点であり、オーストラリアとアメリカの連携を阻止したい日本と、太平洋上に日本が拠点を築くことを阻止したいアメリカが衝突しました。

結果的に日本は大敗し、太平洋戦争の戦況は連合軍が優勢となりました。

 

日本海軍がこの島に航空基地を建設したのを脅威と感じた米軍が、海兵一個師団を上陸させて飛行場を占領したことから攻防戦が開始されました。

日本軍は奪回のために次々と制海権、制空権がないのに陸軍を送りこみましたが、軍隊の輸送さえままならず、上陸した部隊は補給が途絶している上に、利用すべき現地物資も皆無に近く、餓死続出の惨状をもたらしました。

そして半年後に、装備を捨てて約1万の人員だけを辛うじて撤収しました。

 

4        ラバウル

1942年(昭和17年)の1月から2月にかけて、オーストラリア委任統治領ニューギニア(現在のパプアニューギニア、ビスマルク諸島)のニューブリテン島で行われた戦いが「ラバウルの戦い」です。この戦闘は第二次世界大戦(大東亜戦争)中に発生し、日本軍がオーストラリア軍とイギリス軍と戦い、ラバウルを占領しました。

ラバウルは大日本帝国海軍の主要基地であり、特に第四艦隊司令長官の井上成美海軍中将は太平洋戦争開戦前からラバウル攻略の必要性を訴えていました。

日本軍はラバウルを拠点にニューギニア本島に進出し、さらにはポートモレスビーやオーストラリア大陸を目指しました。

戦闘の背景にはオーストラリア統治下のニューブリテン島に配置された「雲雀部隊」があり、彼らはラバウル近郊のブナカナウ飛行場を守る任務を担っていました。

日本軍にとってもラバウルは重要な拠点であり、連合軍の反撃を予想したため、攻略が必要でした。

しかし、1944年3月には敵中に完全に孤立し、戦線も北太平洋に移行したので、連合国軍は無力な日本軍に対して強攻を加える、飢えと闘いながらおびただしい犠牲者を出して配線を迎えます。

 

 

5        ポートモレスビー攻略戦

ポートモレスビー作戦は、第二次世界大戦中のニューギニア戦線において、日本軍と連合国軍とがポートモレスビーの支配を巡って行った戦闘です。当時はスタンレー作戦と呼ばれ、連合軍側の名称を和訳して、前半を「ココダ道の戦い」、後半を「ブナとゴナの戦い」とも呼ばれました。

この戦いは、ニューギニア島の東部パプア半島で行われ、オーストラリアとアメリカの連合軍が日本軍に対抗していました。

ポートモレスビーは戦略的に重要な拠点であり、その支配を巡る激しい戦闘が繰り広げられました。

制空権を奪われて補給ができないのに、人員だけを送り込んで、要域確保せよと命じられた。

スタンレー山脈から退却したり、バラバラに上陸した部隊は、連合軍に包囲されて、飢餓に苦しみながら戦う事となった。

 

6        ニューギニア アイタベ作戦

アイタペの戦いは、第二次世界大戦中のニューギニア戦線における日本軍対オーストラリア軍とアメリカ軍との間の戦闘です。

この戦いは、パプアニューギニア北岸のアイタペ東方で1944年7月10日から同年8月上旬まで行われ、連合国軍側が勝利しました。

 

背景として、日本陸軍の第18軍がウェワク地区に集結し、連合軍の進攻を迎撃する態勢を整えていました。

しかし、連合軍はウェワクを放置してホーランジアに進撃し、さらにアイタペにも上陸。

日本軍守備隊を壊滅させました。

第18軍は後方に取り残され、アイタペ攻撃を計画しましたが、食料不足など厳しい状況でした。

アメリカ軍は暗号通信傍受により日本軍の攻撃計画を察知し、アイタペで激しい戦闘が展開されました。

アイタベは兵站基地で、約2000名の陸海軍がいたが、戦闘部隊隊はわずかでした。

ホーランジアには海軍の第九艦隊司令部、陸軍の第六飛行師団司令部と第十八軍の南洋第六支隊など、約14000名の兵力があったが、これも地上戦力としては強力ではありませんでした。

連合軍に追われた日本軍は、さらに西方のサルミに向かって転進、つまり後退しました。

この退却は難路と食糧の欠乏に悩み、途中に白骨が折り重なるという惨状を呈しました。

この中でホーランジアからサルミまで400キロを後退した第十八軍関係部隊は、総人員約6700名中、サルミに到着したのは約500名、さらにその中で戦後に内地に生還した者は143名にすぎなかった。

7        メイヨン島

太平洋戦争末期、日本軍が占領したメレヨン島(ウオレアイ環礁)は、戦闘を経ずに約5,000人の兵士が餓死や病死した場所として知られています。この孤立した島で何が起きたのか、詳しく見てみましょう。

メレヨン島は、赤道に近い北緯7度東経143度に位置し、東西約8キロ、南北約5キロの約16の島から成る環礁です。日本軍は1941年にフララップ島に滑走路を建設し、兵士を配置しました。

しかし、サイパンとグアムが玉砕した後、メレヨン島は米軍の攻撃から逃れ、食糧補給もほぼ絶たれました。

兵士たちは飢餓と風土病に苦しみ、多くが命を落としました12.

この悲劇的な出来事は、戦争の非人道的な側面を浮き彫りにし、人々に考えさせるものとなっています。

 

8        ウェーク島

ウェーク島の戦いは、第二次世界大戦における日本軍とアメリカ軍の激戦でした。

1941年12月8日、太平洋戦争開戦直後に大日本帝国海軍が南洋部隊を指揮してウェーク島攻略作戦を開始しました。

アメリカ軍は海兵隊を主力とし、500名と戦闘機12機を配備していました。

激しい戦闘の末、ウェーク島は日本軍の手に落ちました。

この戦いは太平洋戦争における最初の離島攻防戦であり、日本側唯一の勝利となりました。戦後、ウェーク島守備部隊は栄養失調による戦病死者や戦死者を出し、その犠牲は大きかったことも知られています。

1944年6月の連合軍のサイパン上陸以後は、 ウェーク島は戦線の背後にとり残されることになり、陸海軍約4000名の守備隊は、補給皆無の中で飢餓との戦いに直面することになりました。

「ウェーク島は果樹 (椰子、パンの木など)も清水もなく、現地自活はほとんど不可能であった」と「戦史叢書」も述べています。

残り少ない保有糧秣を減食で食い延ばし、数度の潜水艦によるわずかの補給に頼るだけでした。

このため栄養失調による死亡者は、陸海軍それぞれ約2000名のうち、陸軍の戦病死837名、海軍は506名でした。

 

9        モルッカ諸島・アンボイナ島

「第二次世界大戦時にはアンボン島(アンボイナ島)が日本によって接収されたこともありました。」という記事を見つけるだけでした。

伯父の戦没年は戦争末期の1945年4月18日なので、戦線は、硫黄島を経て、沖縄戦に向かうところでした。

軍隊としては、敵の中で、完全に孤立していたものと考えられます。

ニューブリテン島の日本軍のように食糧が自活できれば、生きるのに容易だったでしょうが、そうでなければ飢餓と病気に悩まされたことでしょう。

いずれにしても若干18歳で、戦争に散った伯父のことを思うと胸が痛みます。

そして、今の平和を心から大切に思う気持ちになります。

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