小田原のういろう本店は、ういろう菓子屋だけでなく、薬屋でもありました。
お店の歴史を知ると薬屋の意味が頷けます。
小田原と外郎(ういろう)家
一四九五年に小田原を平定した北条早雲は、京都の朝廷に仕えていた外郎家五代目・外郎宇野 藤右衛門定治(ういろううの・とうえもんさだはる)を招き、朝廷との外交役としました。
外郎家は中国で約一千年、日本で六百数十年続いている家で、初代陳延祐(ちんえんゆう)は元に仕えていましたが、元の滅亡と共に日本に帰化し、中国での役職名・礼部員外郎(れいぶいんがいろう)の外郎(がいろう)をとって、役職名と区別するため「外」の字を「うい」と読ませて「外郎(ういろう)」と名乗りました。
医術と占いに優れていたので、将軍足利義満から京都に招かれましたが、最後まで行かず、博多で生涯を閉じました。
代わりに二代目・ 宗奇(そうき)が朝廷に仕えました。
延祐の持参した家伝の薬「霊宝丹(れっぽうたん)」は朝廷に珍重され、宗奇は朝廷の命をうけて明に渡り、実家から薬の処方を持ち帰りました。
こが薬の「ういろう」です。また、宗奇は朝廷で外国使節の接待に供するための菓子を自ら考案しました。
これが菓子の「ういろう」です。
どちらも外郎家のものであることから「ういろう」と呼ばれました。
尚、薬のういろうは後に天皇から「透頂香(とんちんこう)」の名を頂きました。
五代目定治は小田原へ来住する際、菓子の製法は弟に残してきましたが、京の外郎家はその後、室町幕府と共に兵火にかかり世継ぎも無く絶家し、その時仕えていた職人等によって菓子の製法は全国に広まりました。
一方、薬の製法は小田原の外郎家が一子相伝で現在も伝えています。
豊臣秀吉が北条家を滅ぼした時、北条氏一族家臣は城下に残さない方針でしたが、外郎家だけは特例で残され、以後外郎家は薬を一般に売り出し、医薬の方に専心することになりました。
そして江戸時代には宿老として、小田原のために尽くしました。
享保年間、歌舞伎役者・二代目市川団十郎は持病の咳と痰のため台詞が言えず、舞台に立てずに困っていました。
その時、薬のういろうのことを知り、この薬によって全快したので、お礼の気持ちで、こういう薬もあることを知らせたいからと、舞台で上演することを申し出ました。
外郎家は宣伝になることを恐れて固辞しましたが、 再三の申し出に上演を承知し、こうして市川団十郎の創作 歌舞伎十八番「外郎売」の台詞が誕生しました。
明治に入ると、室町時代から貴紳の接待の為に造っていた「菓子のういろう」も市販するようになりました。
外郎家は朝廷から十六の菊の紋と、五七の桐の紋を与えられていましたので、五代目定治が小田原に八ツ棟造り(やつむねづくり)の建物を建てた時、天皇より祝いのお言葉を賜りました。
このため八ツ棟は壊れると立て直すのが代々の遺言となり、その回数から小田原地震の回数から小田原地震の回数が察せられます。
こうして北条早雲の時代から五百年、外郎家は今も小田原でその伝統を守り続けています。
明治十八年築の蔵を利用した博物館にて、外郎家にまつわる品々を展示しております。
目次
1 欄干橋町由来
ういろう本店の前にある石碑です。
欄干橋町
町名は、この町から城内にかけられていた橋の名前によりついたといわれている。
町内には小田原北条氏時代から旧家外郎(ういろう)家があり、江戸時代末期には本陣一、旅籠(はたご)が十軒ほどあった。
2 ういろう博物館
ういろう博物館は、お店の左手奥に入口があり、お店の人に頼むと案内してくれます。
入場料は無料でした。
明治18年に建てられた蔵を利用しており、外郎家の歴史や文化を紹介しています。
博物館では、外郎家が代々使用してきた品々や、歌舞伎十八番「外郎売」との関係などを見ることができます。
また、歌舞伎18番の外郎売の説明もありました。
「小田原の外郎家では、二代目團十郎が喉の病に苦しみ、舞台に立てなくなる役者生命の危機に陥ったとき、「ういろう」を服用して回復しました。二代目市川團十郎は「ういろう」の効能に感謝し、優れた薬効を舞台で披露したいと提案したところ、外郎家側は当初その申し出を辞退したものの二代目市川團十郎に説き伏せられ、台詞や舞台衣装全て二代目團十郎の創作により「外郎売」が上演されることになったと伝えられています。」
3 カマキリ踊り
像がお店の真ん中にあります。
小田原のカマキリ踊りは、京都の祇園祭の蟷螂山(とうろうやま)に由来する伝統的な舞です。蟷螂山は、カマキリのからくりが乗ることで有名で、その舞が約500年前に京都から小田原に伝えられました。
この伝統は、外郎(ういろう)家によって小田原に伝えられ、現在も地域の祭りで披露されています。
4 喫茶
隣接する喫茶でお店の商品を食べながら休憩することができます。
「お菓子のういろう」は約六百年前、外郎家の先祖が京都在住の時代、自ら作って客の接待に供したものであります。
これが名薬「透頂香(とうちんこう) ういろう」の苦い味と対照が良かった為か、忽ち、朝廷、幕府を始め、当時の貴紳(きしん)の間で評判になりました。
依頼に応じては作って供したのでありますが、封建時代の為当家に於て此れを販売する事は出来ませんでした。
其の間に関西方面に広く類似品が出廻ってしまい当家にて販売を始めたのは明治以降、商標登録をしてからでございます。
御祝宴に、御茶席に、お子様に、御産婦には何よりのものです。
栄養価高く、而かも胃腸に障らぬお菓子です。素朴で気品のある淡雅(たんか)な味を御賞味下さい。
おみやげ、御進物として何方(どなた)にも喜ばれます。
4.1 秋日和
4.2 琥珀のしずく
美味しそうなお菓子ばかりでした。
博物館の後に立ち寄りました。