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國學院大學博物館#3 :国学の研究&折口信夫

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國學院大學は、国学の研究と教育に深く根ざした大学です。

国学とは、日本の歴史や文化、特に神道や伝統文化に関する学問を指します。

國學院大學は、明治時代に設立され、国学の研究を中心に据えた教育機関として発展してきました。

 

國學院大學の前身は、明治15年(1882年)に設立された皇典講究所((こうてんこうきゅうじょ)であり、ここで神道や古典の研究が行われていました。

皇典講究所は、神職の養成と古典研究を目的として設立され、國學院大學の学問的基盤を築きました。

 

1        国学者

下記国学者の系図表は分かり易いですね。

 

国学の四大人(したいじん)

荷田春満(かだのあずままろ)は、『古事記』・『日本書紀』・『万葉集』 をはじめとする古典を研究し、江戸の神職や武士に神祇道や歌学を教授して国学の学統を築いた。

春満に師事した賀茂真淵(かものまぶち)は、活発な著作活動を行い、 多くの弟子を育て、国学を一般に広く知らしめた。

その真淵に入門した本居宣長(もとおりのりなが)は、 『古事記』 の初の詳細な注釈書『古事記伝』を執筆し、 日本の古典に関する研究に新機軸を打ち立てた。

宣長の没後門人である平田篤胤(ひらたあつたね)は、著作の出版などを通じて庶民に国学をさらに普及させた。

江戸期に活躍したこれら4人の国学の大家は 「国学の四大人」と位置付けられている。

 

平田の国学は明治維新に向かう日本において志士たちに多大な影響を与えています。

国学の継承と展開

国学は師から弟子へと継承されていった。

国学者の教授法は、面会や書簡を通して行われていたが、しだいに私塾や学校を創立して、後進の育成に力を注いでいった。

例えば、盲人の国学者である塙保己一(はなわ ほきいち)は、幕府の後援をうけて和学講談所を設立し、門人たちとともに 『群書類従(ぐんしょるいじゅう)』を刊行するなど、 旺盛な教育・出版活動を展開させた。

また、 本居宣長や平田篤胤の門流には、幕末維新期以降の近代において、 神道や国学の世界で活躍した人々が連なり、国学の流れを受け継いで、皇典講究所・國學院の創設へと導いたのである。

2        折口信夫

国学ばかりでなく柳田國男の民俗学にも傾倒していました。

折口の民俗学も定評があります。

明治 20 (1887)年 昭和28(1953)年

大阪府西成郡木津村(現在の大阪市浪速区敷津西町)に生まれ、幼年期から詩歌・歌舞伎などに親しむ。

大阪府立第五中学校 (現在の天王寺高校) で三矢重松、 武田祐吉らと出会う。

國學院大學進学後、 詩歌に加えて国語学にも興味を持ち、 卒業論文は師と仰ぐ三矢重松に「言語情調論」を提出。

卒業後は大阪府立今宮中学の嘱託教員を経て、 國學院大學講師から教授に就任。

後に慶應義塾大学文学部教授にも就任する。

国文学の民俗学的研究を樹立し、 『古代研究』3巻が代表的著作。

三矢亡き後は「源氏物語全講会」 を継承した。

釈迢空(しゃくちょうくう)の名で、 短歌・詩・小説などの創作を行い、 作品には歌集 『海やまのあひだ」 「春のことぶれ」、 詩集 「古代感愛集(かんないしゅう)」、 小説 「死者の書』などがある。

 

折口信夫の旅

折口は自著 「古代研究」の「追ひ書き」 で 「過去30年の間に、 長短、 数へきれぬほど旅をして来た」と述べている。

そして近い15年は民俗採訪の旅で、 地方生活を実感的に取り込もうと努めたという。

折口の旅の足跡をたどる作業は未完ではあるが、 地図に落としてみると、 その言のとおり、少年期から多くの旅をしている。

折口の文学創作や学問は、こうした旅の心象によって形成されたといえる。

旅のなかで歌を詠み、 情景を心に焼き付け、 また、 日本古代の精神史への実感を、過酷な旅によって得ていた。

大正時代後期からの旅は、 門弟や学生が伴うことが多いが、 折口学の形成過程では、 熊野から志摩の旅、 大正期の沖縄の旅、そして昭和初期から頻繁な三河・信濃・遠江への旅が重要な意味をもっている。

花巻における折口の宿に行った記録は下記です。

柳田國男が魅入られた日本のふるさと遠野で昔話を聞く

 

折口信夫の古代学

國學院大學在学中に、 金沢庄三郎の『辞林』編纂、 金田一京助の講義など、国語学や言語学方面に関心を持ち、 卒業論文は「言語情調論」 を提出。

大正5・6 (1916・1917) 年には日本初の全首口語訳をした「口訳万葉集」上・中・下巻を出版する。

こうした 「万葉集」 研究を基盤に、 柳田國男の民俗学を取り込み、 沖縄での二度の民俗採訪を通じて、 国文学と民俗学を融合させた新たな研究領域を構築した。

折口は、 人々の生活に息づく民俗を「生活の古典」 と名づけ、 それを視点とした日本古代の研究で、 昭和4(1929) 年から翌年にかけて 「古代研究』 3巻を刊行する。 「翁」 「まれびと」「依代(よりしろ)」 「常世(とこよ)」 「貴種流離譚(きしゅりゅうりた)」 など日本文化の基盤にある原理を説き、 さらに奥三河の花祭り、 新野の雪祭りなどから日本の芸能史論を築いた。

折口の学問は、現在では 「折口学」とも呼ばれ、 その理論は国内のみならず、海外でも評価され、 検証が行われている。

また、 創作が学術研究と結びついているのも特色で、 詩集、歌集そして小説 「死者の書』 には、論文では表現しきれない、 古代の論理が示されている。

 

折口博士記念古代研究所

折口博士記念古代研究所は、 昭和28年9月3日の折口死去後、昭和29年2月11日に折口博士記念会が組織され、これを基盤にして昭和41年4月に文学部の付置研究所として発足した。

折口博士記念会は、 折口没後に武田祐吉博士が発起人となって組織された。

折口博士記念会ならびに折口博士記念古代研究所では 「折口信夫全集」 全31巻の編集、 さらに 「折口信夫全集 ノート編」 全18巻別巻、 「折口信夫全集 ノート編 追補」 全5巻の編集で、 折口の学問・創作などの集大成を行い、 折口の業績を継承してきた。

現在、 研究所には、 折口の蔵書であった折口記念文庫、 折口自身による諸研究資料、 全集編集の過程で収集された諸資料など、 約3万点が収蔵され、 研究活動が行われている。

折口博士記念古代研究所は、國學院大學の中にあるようです。

 

 

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