史跡 美術館/博物館

大阪城・大阪を一望できる歴史博物館

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大阪城の天守1931年に市民の寄付で再建された鉄筋コンクリート製のものです。

現在は歴史博物館として、豊臣秀吉を中心とした城の歴史を展示しています。

登録有形文化財 大阪城天守閣

現在の天守閣は昭和6年(1931)、 大阪市民多数の寄付金を元手とし、「大坂夏の陣図屏風」 に描かれた豊臣時代の天守を参考に建設された。

鉄骨鉄筋コンクリート造りで、本丸から最上層の鯱までの高さは約 54.8メートル。

古典建築を近代的な技術によって再現した、わが国の復興天守第1号である。

初代の天守は、豊臣秀吉が大坂築城を開始して3年目となる天正13年(1585) に完成したが、 慶長20年 (1615)の大坂夏の陣で城もろとも焼失。

二代目の天守は徳川幕府による再築工事の最中、寛永3年(1626)に現在の場所に築かれたが、 寛文5年(1665)に落雷で焼失した。

以来大坂城は天守のない城郭として幕末に至る。

三代目となる現在の天守は、復興時から博物館施設として利用され、第2次大戦の空襲でも焼失をまぬがれた。

平成9年(1997)には復興以降初めての改修工事が完了し、 同年、歴史的景観に寄与する近代建築物として国の登録有形文化財となった。

なお戦後の学術調査によって、 豊臣時代の天守は現在地よりも東にあったことが判明しており、高さは約40メートル。 配水池の地下付近から天守台石垣の一部が発見されている。

重要文化財 金明水井戸屋形(きん めいすいいどやかた)

大坂城の小天守台 【しょうてんしゅだい】 にある井戸を金明水といい、それを覆う面積 11.55 平方メートル、高さ 5.2メートルの建物を金明水井戸屋形という。

井戸は水面まで約33メートル、 井筒は一個の石をくり抜いたもので、 外部の水流しは4枚の大石を組み合わせて敷き詰めている。

伝説では豊臣秀吉が、水の毒気を抜くために黄金を沈めたと言われているが、 戦後の学術調査により、この井戸は豊臣時代のものではなく、 徳川幕府による大坂城再築工事にともない寛永元年(1624) に新たに掘られたものであること、 さらに井戸屋形は同3年 (1626) に創建されまた当時のもので、 同じ年に築かれた天守が寛文5年(1665)焼失した際にも類焼をまぬがれたことが判明した。

なお江戸時代までこの井戸は黄金水 【おうごんすい】と呼ばれ、 本来の金明水(金水)は天守の東側、 現在の配水池のあたりにあった。

号砲

この大砲は、 全長348cm、 砲口の内径20cm、外径40cm先込め式の旧式砲で、材質は青銅の一種とみられる。

1863年、幕府の命令により、 美作津山藩(岡山県津山市)の鋳工・百済清次郎らが製造し、大坂天保山砲台の備砲として据え付けられ、 明治維新後、 大阪城内に移されたものと伝える。

明治3年(1870)から時刻を知らせる号砲として用いられ、はじめは日に3度、 明治7年からは正午のみ空砲大阪市内にとどろきわたり、「お城のドン」 「お午のドン」の名で市民に親しまれた。

火薬節約その他の理由により大正12~3年 (1923~24) 頃中止されたが、その時期と事情ははっきりしていない。

ミニチュア夏の陣

大坂夏の陣図屏風にもとづき真田幸村隊(158体)と松平忠直隊(149体) の激戦をミニチュア人形(計307体 スケール1/20)で再現しています。

大坂夏の陣図屏風(右隻)

真田幸村隊VS松平忠直隊

四天王寺西門の石鳥居の前に陣取る赤備えの一群が、豊臣方随一の勇将真田幸村隊。

一時は、 徳川家康の本陣さえ蹂躙するほどのすさまじい攻撃をみせた。

一方、これに対する徳川方は、 家康の孫松平忠直率いる越前兵。

豊臣方の首級3750 を挙げて、大坂城一番乗りを果し、 諸侯中戦功第一と称せられた。

豊臣方 徳川方双方を代表する両軍の激突は、慶長20年(1615) 5月7日、 最後の決戦のクライマックスシーンとして、 大坂夏の陣図屏風右隻ほぼ中央に描かれる。

 

大坂冬・夏両陣の配陣図。いずれもが東軍 (徳川方)で、が西軍 (豊臣方)。

冬の陣の方は、慶長19年(1614) 12月段階での両軍配備の様子を示したもので、本丸・二の丸・三の丸・惣構という四重構造の大坂城を徳川方の軍勢が包囲している。

惣構の東南隅 (右下方)には、真田幸村の築いた真田丸が見える。

一方、夏の陣の方は、翌慶長20年5月7日、 最後の決戦の開戦直前の様子を示したもの。 前日の道明寺合戦で後藤基次・薄田兼相、八尾・若江合戦で木村重成ら有力武将を失った豊臣方は、真田幸村・毛利勝永らが激闘を展開したが、ついに力尽き、同日大坂城が落城。

翌日には淀殿・秀頼母子が自害して豊臣家は滅んだ。

豊臣家と徳川家の最後の決戦大坂夏の陣に、 徳川方は15万5千、 豊臣方は5万5千と伝えられる大軍勢を動員し、双方死力を尽して戦った。

筑前国福岡藩主黒田家に伝来した大坂夏の陣図屏風は、この戦いを極めて精緻に描いた屏風絵で、 5071人の人物と348匹の馬、 1387本の幟、 974本の槍 119張の弓などが描き込まれている。

5071人の人物の中では、 徳川家康・秀忠や真田幸村など、 夏の陣に参戦した武将21人が特定できる。

1615年5月5日、徳川家康は京都の二条城を、 息子で二代将軍秀忠は伏見城を、それぞれ出発した。

徳川方の軍勢は15万5千迎え撃つ豊臣方は5万5千。

双方が死力を尽くした戦いは、旧暦の夏に起こったため 「大坂夏の陣」 と呼ばれる。

神崎川 (かんざきがわ)を越えた敗残兵や避難民を、今度は野盗たちが待ちうける。

やっとの思いで川岸にたどり着いた人々から、着物をはぎとろうとする盗賊たち。

山のような略奪品を前にして、槍を手にふんぞり返る盗賊のかしら。

その前を、身ぐるみはがされた夫婦が、手を取りあって逃げていく。

天守から大阪の街を眺めます。

石山本願寺の戦いでは、毛利が海路で物資を運んでいましたが、今は見えませんね。

海はかなり埋め立てられてしまったのでしょうか。

尾張の百姓家に生まれる (秀吉 1歳)
戦国乱世の尾張国で、 小さな百姓家に男の子が生まれた。
誕生のとき屋根の上に不思議な星があらわれ、太陽のように輝いたという。猿そっくりの顔の赤ん坊は日吉権現にあやかり、 日吉丸と名づけられた。
のちの豊臣秀吉である。

放浪する秀吉
少年時代の秀吉は、 東海地方を転々と放浪する生活を送っていた。
そんなとき出会ったのが、のちに重臣として秀吉をささえる蜂須賀小六。
伝説の世界では小六は悪名高き盗賊で、 少年秀吉はその手下となって働いたという。

織田信長に仕える
放浪生活を終えた青年秀吉は、尾張で勢力を強める織田信長に仕えはじめた。
毎朝だれよりも早く起きて信長の外出を待ちうける。寒い日には信長のぞうりをふところで温めておくという気くばり、滅私奉公ぶりで、出世の糸口をつかんだという。

身に過ぎた賢妻 《秀吉25歳ころ》
秀吉は25歳のころ、 浅野長勝の養女おねと結婚した。

長勝は織田家の足軽組頭。

一説には信長の小姓の犬千代、のちの前田利家がおねに思いを寄せており、その犬千代が秀吉とおねとの結婚の媒酌人をつとめたとされる。

わずか3日で城を修復
破損した城壁の修理を信長が家臣たちに命じたが、 なかなかはかどらない。
秀吉は3日で完成させることを約束。

人夫たちに持ち場を割りあて競争させる“割り普請” で、 みごと工事をやりとげたという。

中国地方の平定に活躍 《秀吉46歳》

信長から中国地方の平定を命じられ、 毛利方の備中高松城の攻撃にとりかかった秀吉。
城が沼地や深田にまもられているのを逆手にとって、 河水を流しこんで水攻めにした。
勝利を目前にした秀吉は、ここで本能寺の変の悲報を聞く。

京都・大徳寺にて信長の葬儀を行う 〈秀吉46歳》
本能寺で討たれた信長のあと継ぎをめぐって、 次男信雄(のぶかつ)と三男信孝(のぶたか)があらそった。
秀吉は、信長とともに横死した長男信忠の遺児、わずか3歳の三法師を推したて、大徳寺で信長の葬儀を盛大に主催したという。

ライバル柴田勝家をやぶる <秀吉 47歳》
本能寺の変の翌年、 秀吉は織田家の重臣柴田勝家と近江の賤ヶ岳で対戦する。
秀吉のたくみな戦術と、側近の若武者たちの活躍により、 秀吉軍が勝利を得た。
その結果、秀吉は信長の天下統一事業の後継者としての地位を固めた。

天下統一の拠点<秀吉47歳~)
秀吉は本能寺の変の翌年、天下統一の拠点として大坂城を築きはじめる。
大河のような水堀に大石が積み上げられて出来た石垣は、 「奇特不思議」と驚嘆された。 壮麗な天守は、 「三国無双」と称賛された。

強敵・徳川家康と対決 《秀吉48歳》

本能寺の変から2年後、信長の次男信雄は徳川家康と結んで秀吉と尾張で対戦する。
秀吉軍の別働隊は家康の本拠三河への奇襲をはかるが、家康は察知してこれを撃破。 講和後、秀吉は家康を政権の有力メンバーとしてとりこんでいく。

京都・北野にて空前絶後の茶会をひらく 〈秀吉51歳》
関白となり京都に政庁をかまえた秀吉は、北野の松原に天下の茶の湯好きを集めて大茶会を開催する。

参加者は町人から公家・大名まで、数千人におよんだ。
秀吉は自己の権勢の強大さを平和的に見せつけた。

天皇を屋敷にまねいて大宴会 《秀吉 52歳》
秀吉は関白の政庁として京都に豪勢な屋敷を建設。

その聚楽第に後陽成天皇をまねき、 厚くもてなす。
天皇に付き従う公家や武家の行列の見事さに、 各地から駆けつけた見物人は息をのんだ。

参加した大名たちは天皇の前で、万事において秀吉の命令に服することを誓約させられた。

北条氏をたおし、天下統一ほぼ完成 《秀吉54歳》
天下統一の総仕上げとして、 関東の小田原北条氏を攻める秀吉。
長陣に退屈する兵士たちを宴会や茶会で慰労し、 陣中の気分を浮きたたせたという。
東北地方の有力大名伊達政宗は、 服従の許しをこうため秀吉の本陣をおとずれ、予想外の厚遇をうけた。

天下統一の足がため
秀吉は支配地で検地を実施させる。
検地では田畑の面積をいちいち計測し、 生産力を評価した。
複雑だった土地の所有権を整理して、一つの土地について一人の耕作者を決め、年貢を納める責任を負わせた。

しだいに百姓身分と武士身分が区別されていった。

京都・ 方広寺に大仏をつくる 《秀吉52歳〜》
秀吉は大名たちを動員して、 京都に巨大な大仏を建立させた。
その材料にするという名目で、 全国の百姓たちに刀や鉄砲の提出を命じた。
この方広寺大仏は地震や火災にみまわれ、 豊臣秀頼再建の寺の鐘にきざまれた「国家安康」の文字は、徳川家康の名を引き裂いたとされて大坂冬の陣のきっかけとなる。

九州・名護屋城まで遠征 <秀吉56歳~)
国内を統一した秀吉は中国大陸征服をめざし、 16万の大軍を朝鮮に送った。
秀吉自身、 戦いを指揮すべく九州の肥前名護屋城まで遠征した。
ところが秀吉は、そこで能の楽しさにめざめてしまう。
日々、演能のけいこに熱中する。

秀吉のあと継ぎは? 《秀吉59歳》
57歳にして実子の秀頼を得た秀吉。
2年後、後継者とさだめていた甥の関白豊臣秀次を、謀叛の容疑で高野山に追放のうえ切腹させる。
さらに、秀次の妻妾子女30名あまりをも京都の三条河原で処刑する。

秀吉最後の大宴会 《秀吉62歳》
死の5ヶ月前、秀吉は京都の醍醐寺で盛大な花見をもよおした。
これにそなえて秀吉は醍醐寺を復興し、 数百本の桜を移植。 大名や公家たちは競って珍奇の品々を献上した。
秀吉の家族のほか、豊臣家に仕える多数の侍女たちはぜいたくに花見を楽しんだ。

《秀吉62歳》
秀吉は伏見城中で62年の生涯をとじる。
その直前、側近の家臣からなる五奉行と、有力大名で構成される五大老の制度をととのえて死後の政権運営にそなえた。
わずか6歳の愛児秀頼の将来を最期のときまで気にかけた。

大阪城の謎

大阪城といえば、天正11年(1583) に豊臣秀吉が築城を開始し、慶長20年(1615) の大坂夏の陣で落城した豊臣期の大坂城を、 だれもがまず思い浮かべる。

ここを舞台とした豊臣家の栄光と悲劇的滅亡の歴史ドラマが、 あまりにも広く知れわたっているからだろう。
そのいっぽうで夏の陣後、 徳川将軍直轄の重要拠点として大坂城が再築され、 明治維新までこの地に偉容を誇っていた事実は忘れられがちである。
それでは徳川幕府による大坂城再築にさいして、豊臣大坂城の遺構はどの程度引き継がれたのだろうか。

人々の目を驚かす巨石は、いつ、 だれが、 どこから運んできたのだろうか。
昭和34年(1959) に実施された 「大坂城総合学術調査」 では、 石垣の刻印調査などの結果から、現存の大阪城がすべて徳川幕府再築後の遺構であるという予想外の事実が判明した。

さらに、本丸の地下7.3mの地点から下方に続く、 古い “謎の石垣”が発見された。
この学術調査をきっかけに、 大阪城の研究は新しい段階へ移った。 地上から消された豊臣大坂城の実態が、解明されるべき最大の謎として、あらためて私たちの前に浮かび上がってきたのである。

大阪城の刻印石大阪城の石垣をていねいに観察すると、記号や文字などが刻まれた石、 すなわち刻印石が見つかるはずである。

大阪城内の刻印は約2000種類、刻印石の数は5~6万個と推定されている。

築城工事に動員された大名たちの名前や家紋・家印のほか、石の産地、 石垣の高さ、 石積みの順序、 工事の持ち場の境界を示すものなど、 刻印にはさまざまな意味や役割があった。

 

大阪城内刻印石所在地図

昭和34年(1959) 「大坂城総合学術調査」での石垣刻印調査は、 全城壁の50万個をこす石の表面を丹念に調べ、 約2000種、 総数5~6万個にものぼる刻印の詳細を初めて明らかにした。

ところが石田三成や小西行長など、 関ヶ原合戦で滅んだ大名の家紋・家印の刻印はひとつもなく、 徳川幕府再築時の 「丁場割図」 に示された大名の分担区域と一致するものばかりだった。

幕府が再築時、 石垣をすべて根石から新規に積み上げたという新事実が判明したのである。

大阪城は平成18年10月10日に長野県上田市の上田城と友好城郭提携を締結しました。
上田城は真田昌幸の築いた城で、昌幸とその子幸村は、関ヶ原合戦の際、西軍に与して徳川の大軍相手に奮戦し、 大坂の陣においても、幸村が豊臣方として大活躍しました。
10月10日は、大坂冬の陣に際して、関ヶ原合戦後の 先である紀州九度山から、幸村が大坂城に入城を果した日と伝えられます。
大阪城と上田城との友好城郭提携は、こうした歴史的に基づいたもので、(財) 住吉名勝保存会の仲介により実現しました。

締結2周年にあたる本日、同会より、記念石碑(天守閣正面の本丸に設置) と、 城郭をあしらったこの石造モニュメントをご寄贈いただきました。

桐紋は豊臣家・大阪城を、六連銭紋は真田家・上田城を表しています。
平成20年10月10日 大阪城天守閣

こちらは天守の金シャチと、壁にある虎の造形物だったでしょうか。

各武将の兜の展示。

清正と幸村の兜がどこか出張していてありませんでした。

あまり立派な展示物は無かったと思います。お城の廻りの方が凄かったです。

これから行く人は、天守からの眺めを楽しみに登ってください。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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