史跡

東京街歩き:深川門仲ご利益コース#2

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東京街歩き:深川門仲ご利益コース#1

の後編をアップします。

後半は、寺社巡りです。

 

1       深川不動尊

門前仲町に成田不動尊(深川不動堂)があるのは、江戸時代の「お不動様ブーム」がきっかけです。

当時、千葉の成田山への参拝は遠出だったため、1703年に江戸の参拝拠点として、人出の多かった永代寺(現在の門前仲町)で出開帳(出張開帳)が行われました。歌舞伎役者の初代市川團十郎(屋号:成田屋)の人気も手伝い大盛況となります。明治時代に永代寺は廃寺となりますが、庶民の強い要望で正式に分霊され、現在の不動堂となりました。

由来

深川不動堂は真言宗で、 成田山不動堂新勝寺の出張所として明治11年(1878) 当地に遷座され、 同14年、堂宇が建立されました。

元禄(1688~1703) の初め頃より、江戸で成田山不動が盛んに信仰されるようになり、元禄16年(1703) 本尊不動明王が初めて富岡八幡宮の境内で出開帳されました。

以来、 出開帳のたびに、その様子が錦絵に描かれ出版されるほどになりました。

「堂宇」の読み方は「どうう」で、仏像や神体を安置している建物のことです。

 

2       永代寺

永代寺は1627年に永代島(現・江東区富岡)に創建された高野山真言宗の寺院です。

江戸時代は隣接する富岡八幡宮の別当寺(管理寺)として栄え、門前町(現在の門前仲町)の由来となりました。

1703年には成田山新勝寺の出開帳が境内で行われ、深川不動堂のルーツとなります。

明治の神仏分離令で一度廃寺となりましたが、1896年に旧永代寺の塔頭(塔中)だった「吉祥院」が名跡を継ぎ、現在の永代寺として再興されました。

永代寺は、寛永四年(一六二七)に富岡八幡宮別當寺として長盛上人(京都の人、俗姓菅原家、寛永十三年九月二十日寂)によって永代島に創建される。

當時の永代島は(現在の永代橋東側一帯)隅田川河口の砂州で、長盛上人がこれを開荒し、寺社地六万五百八坪を所有し、一宇を建立する。

現在の深川公園辺りは、曾ての永代寺庭園の一部であった所で、平常は非公開であったが、毎年三月二十一日から二十八日迄は弘法大師の御影供が行われ、その期間に限って「山開き」と称し林泉を開き、江戸庶民に見物を許し大層な賑わいであった様子が江戸名所図会に描かれている。

又将軍家違例の時や、世子誕生の折には祈祷札を徴せられ、承応三年(一六五四)からは年頭種礼の許可、元禄十二年(一六九九)には乗輿御免、或は京都仁和寺修復のための富突の許可が享保十八年(一七三三)に出たこと等、永代寺に対する幕府の信任を示すものである。

以上永代寺は、富岡八幡宮と共に大衆に広く知られ、多くの参詣人を集める、江戸を代表する門前町の中心であったが、明治初年(一八六八)に発今された神仏分離を契機として行われた廃仏毀釈により廃寺となるも、関東五ヶ寺随一に数えられた名刺を廃絶するに忍びず、同二十九年三月、塔頭(永代寺に付属する寺院をいう。十一院在り)の一つ、吉祥院(元禄五年一六九二創建、開基宥範)を永代寺と改称し、由緒ある法灯を永く継承する。

江東区指定有形文化財(絵画)

絹本着色地蔵菩薩半跏像 一幅

富岡一一一五一 永代寺

地蔵菩薩半跏像は、像を描いた本紙を掛け軸に表装したものです。

本紙は縦84.0㎝、横37.0㎝。 表装は縦178.8㎝、横56.0㎝です。

地蔵菩薩はやや左を向いて、海中の岩の上の蓮華座上に半跏に坐っています。

また袈裟を着て、右手に錫杖を持ち、左手には宝珠を載せ、宝珠からは雲が立ちのぼっています。

衣の文様には金泥や截金で装飾が施されています。

地蔵信仰は奈良時代末ごろに日本に伝来し、平安時代後半には六道(りくどう)に輪廻転生する人々を救う菩薩として信仰されてきました。

鎌倉時代に流布した像容は僧の姿をして袈裟などの法衣を身につけ、あまねくこの世をまわるという意味から錫杖を持ち、また宝珠を持ちます。

本像はその像容と線の描き方から南北朝時代(一四世紀)の製作と考えられます。

本像は区内の絵画では古いもので、後世による補筆や大幅な修復がなされなかったことから描かれた当初の姿をよくとどめています。

また地蔵菩薩が海中の岩座の上の蓮華座上に坐るという珍しい像容や、截金などにみられる技術の優秀性などか絵画史上において貴重な作品といえます。

平成八年九月

江東区教育委員会

 

3       富岡八幡宮

 

1627年に創建された富岡八幡宮は、江戸最大の八幡宮です。深川の象徴として親しまれ、周辺は「門前仲町」として栄えました。江戸勧進相撲の発祥地としても有名で、境内には歴代横綱の名を刻んだ「横綱力士碑」が建っています。毎年8月の「深川八幡祭り(深川祭)」は江戸三大祭りの一つに数えられ、沿道から担ぎ手に大量の水を浴びせる「水掛け祭」として、現在も多くの人で活気に満ちあふれています。

 

富岡八幡宮(とみおかはちまんぐう)

明治元年(1868)、 神仏判然令を受け、 永代寺住職 周徹は永代寺を廃寺とし、富岡八幡宮の宮司となりました。

その後、明治36年(1903)、本殿の大修繕が計画され、富岡八幡宮修補会が立ち上がることになり、 栄一は会長に就任しました。 明治42年(1909)に実業界や公職を引退するまで会長を引き受け、2年後の明治44年(1911) に社殿改修が完了しています。

昭和天皇 救国の御決断と富岡八幡宮

昭和十九(一九四四)年十一月に、アメリカ軍による東京空襲が始まった。

昭和天皇はこの年十月に靖国神社例大祭に行幸されたのを最後に、皇居から出られなかった。

天皇は三月十日に東京大空襲が行われると、被災地を視察されたいと仰言せられた。

軍は天皇の抗戦の御決意が揺らぐことを心配して強く反対したが、天皇が固執された。

宮内省と軍が「御巡幸」の日時について打ち合わせ、三月十八日日曜日午前丸時から一時間と決定された。

御料車からボンネットに立つ天皇旗を外し、いつもは沿道に警官が並ぶが、天皇であることが分からないように、できるだけ少なくし、交通を寸前まで規制しなかった。

御料車が永代橋を渡り深川に入ると、見渡すかぎりの焼け野原だった。

天皇は富岡八幡宮の焼け焦げた大鳥居の前で降りられると、大内相の先導によって、延焼を免れた手水舎の前に向かわれた。

粗末な机が置かれていた。

内相が妨害状況の御説明を終えると、天皇は「こんなに焼けたか」としばし絶句されて、立ちすくまれた。

この時に、昭和天皇は惨禍を目のあたりにされて、終戦の御決意をされたにちがいない。

大戦が八月十五日に終結した。

八月十五日は江戸時代を通じて、富岡八幡宮の例大祭に当たった。

終戦は富岡八幡宮の御神威によるものだった。

新日本の再建は、富岡八幡宮から始まった。

富岡八幡宮友の会一同

 

木場の木遣り」の発祥は古く、現存の文献によれば、既に慶長初期の昔に行れている。

当時は幕府のお船手の指図で、伊勢神宮の改築用材を五十鈴川より木遣りの掛け声で水揚げをした、とある。元来、神社仏閣の鳥居や大柄な用材を納める場合には木場木遣が特有の「納め木遣り」が用いられ、保存会により今日に伝えられている。

元禄の始めには、武家屋敷の並ぶ両国の七つ谷の倉の間河岸という所で三代将軍家光公の小流し(さながし、筱組)、角乗り、木遣りをご覧に入れ、以後年中行事となった。

この時、川並みという言葉が発祥したと伝えられ明治十二年、米国のグラント前大統領が来日の際に、木遣りは角乗りと共に上野の不忍池で天覧の栄に浴している。

江戸の昔より正月二日から七日に掛け木遣りにて初曵きし、材木屋さんに売り捌くのを年中行事としていた。

木場の木遣

江東区無形民俗文化財登録

東京都無形民俗文化財

合末社鳥居

昭和十二年に合末社の鳥居として建立されました。残念ながら鳥居の上部が欠落していますが、これは昭和二十年三月十日の東京大空襲の被災によるものです。

この大空襲において富岡八幡宮は御本殿をはじめ大部分を焼失しますが、幸い七渡神社・末社・永昌五社稲荷神社は焼失を免れました。

しかし空襲における焼夷弾は、この付近にも落下し、その直撃を受けて鳥居上部が崩れ落ちました。

二度と起こってはならない戦争の痕跡を静かに伝えています。

 

 

七渡(なな わたり)神社

御祭神 市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)

日祭神

例祭

縁日

六月十七日

毎月第一巳の日

合祀粟島神社

御祭神 少彦名命(すくなひこ なのみこと)

例祭 十月十五日

七渡神社は八幡宮御創建以前よりお祀りされ八幡様の地主神として「七渡弁天さま」と尊ばれてまいりました

あわせてお祀りされる 粟島神社は女性の守り神とされ二月八日には献針祭(針供養)が行なわれます

 

富岡八幡宮本社神輿

日本一の大神輿

当八幡宮には、江戸時代深川に屋敷のあった紀伊国屋文左衛門より三社託宣に因み八幡造り・神明造り・春日造りの三基三様の神輿が奉納され、みこし 深川と云われて参りましたが大正十二年の関東大震災で惜しくもその全てを焼失してしまいました。それ以来、御本社神輿の復活は深川子の念願でありましたが、平成の御世になり漸く、昔に優るとも劣らない豪華な大神輿が復活致しました。

近代日本地図の始祖である伊能忠敬先生は、事業に成功したあと五〇歳のとき江戸に出て、当宮近くの黒江町(現在は門前仲町一丁目)に隠宅を構えていました。
約二〇〇年前の寛政十二年閏四月十九日(陽暦では一八〇〇年六月十一日)の早朝に当宮に参拝して蝦夷 (北海道)測量の旅に出かけました。
忠敬先生はこのときを含めて全部で一〇回の測量を企画しましたが、遠国に出かけた第八回までは、出発の都度必ず、内弟子と従者を率いて富岡八幡宮に参詣 して、無事を祈念したのち、千住、品川宿など測量開始地点に向かって歩き出しました。当宮は伊能測量にとってたいへん御縁の深い場所であります。
伊能測量開始二〇〇年にあたり、「伊能ウォーク」、地図・測量、土地家屋調査士、伊能忠敬研究会などの関係者が中心となって、広く一般から浄財を公募して建立されました。
平成十三年十月
伊能忠敬銅像建立実行委員会

伊能忠敬については以下でも記載しています。

千葉県香取市佐原にある伊能忠敬記念館と伊能忠敬旧宅

50歳で家業引退、55歳から17年間で日本地図を完成させた伊能忠敬が教えてくれるもの

全世界共通の地球上の位置を表す測量及び水路測量の基準を「世界測地系」といいます。

わが国は平成13年(2001年)6月の測量法の改正により日本独自の測地系から世界共通の世界測地系に変更することになりました。

この世界測地系を採用した記念として、測量技術が21世紀のグローバルで豊かな社会に貢献できることを願って、社団法人 全国測量設計業協会連合会の創立40周年にあたり、このモニュメントを建立したものです。

 

平成13年(2001年)10月吉日建立

社団法人 全国測量設計業協会連合会

 

三等三角点「富岡八幡宮」

経度    35度40分15秒61

緯度  139度47分56秒74

標高    1.2m

伊能忠敬銅像建立についての記録と寄付者御芳名を、タイムカプセルに収納し、ここに埋設させていただきました。

平成二三年一〇月二〇日

伊能忠敬銅像建立実行委員会

 

大関力士碑

当宮は江戸動進相撲発祥の地として知られ 明治年間には歴代横綱の名を刻んだ横綱カ士 碑(本殿に向かって右側の奥)が建立されましたが、この大関力士碑は歴代の大関を顕彰し(横綱に昇進した力士と実際に取組みには 入らなかった看板大関を除きます) 昭和五十八年に建てられた碑で、九代目市川団十郎と 五代目尾上菊五郎が明治年間に寄進した仙台石を利用しています。

 

左側の石板、尾上菊五郎の名前があります。

右側の石板、市川團十郎の名前があります。

こんなところに力道山の名前が。

力道山は関脇もで昇進した力士でした。

釋迦ヶ嶽等身碑

この等身碑は、身長七尺五寸 (ニニ六センチ)の巨人力士として活躍した釋迦ヶ嶽雲右ェ門(しゃかがたけくもえもん)の十三回忌追善として、天明七年(一七八七)に建立されました。

釈迦ヶ嶽は寛延二年(一七四九) 出雲国 (島根県)に出生し、松平家のお抱え力士として大阪で初土俵。

明和七年(一七七0)には江戸に進出し、江戶在場所中の成績は二十三勝三敗二分と高い勝率を残しましたが、惜しくも安永四年(一七七五)、二十七歳の若さで逝去しました。

 

強いお相撲さんでしたが、実は病弱であったことが指摘されています。

 

周辺は門前町が形成されており、お参りがてらぶらぶらとするのも楽しいです。

門前町はアーケードがあって、雨の日も濡れないで買い物ができます。

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