史跡

東京街歩き:滝沢馬琴のお墓

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滝沢馬琴といえば、大昔(1973/4/2から1975/3/28迄)NHKで放送していた人形劇「新八犬伝」が思い出されます。(歳がばれますが・・。) 辻村ジュサブローが作った人形は目にも鮮やかな衣装をまとい、中でも玉梓の怨霊は目の色が金色に変わって、口がガバーっと開き、いかにも呪いがかけられそうな雰囲気を醸し出していました。

語りは御巣鷹山の日航機事故で亡くなった坂本九で、八犬士のひとり犬塚信乃が名刀村雨を抜いた時の「抜けば玉散る氷の刃」の決め台詞は”玉梓”の「我こそは玉梓が怨霊」と並び今でもこの人形劇の映像として思い出されます。

放送終了後、ほとんどのマスターテープが消去されてしまったため、今では見ることができないのがとても残念です。

原作は言わずと知れた「南総里見八犬伝」です。

安房里見家の姫・伏姫と苗字に「犬」の字を含み、それぞれに仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌の文字のある数珠の玉を持つ犬士の物語です。

当時は知らなかったのですが、新八犬伝には馬琴の「椿説弓張月」の設定も採用していたようです。

こちらの作品は平安時代の末期「保元の乱」で敗れた源為朝のその後を描いたフィクションです。

滝沢馬琴については下の写真に簡単なプロフィールがあります。

滝沢馬琴 墓 (文京区指定史跡 )

馬琴は、江戸の人。明和4年~嘉永元年(1767~1848)。江戸時代後期の『著名な戯作者。”南総里見八犬伝 ””椿説弓張月 ”など、多数の作品を残した。
著作堂(ちょさどう)、蓑笠(さりゅう)、玄同(げんどう)など多くの別号をもち、晩年は髪をおろして、曲亭馬琴と号した。
墓碑には、馬琴の法名「著作堂隠誉蓑笠居士(ちょさどういんよさりゅうこじ)」と、馬琴より先に没した妻お百の法名「黙誉静舟到岸大姉(もくよせいしゅうとうがんだいし)」があり、台石には、馬琴の蔵書印といわれる家形の模様が刻まれている。江戸時代後期の著名な戯作者の墓として、歴史的価値が高い。(墓は本堂左わき)
なお、馬琴の墓の後ろ左側には、晩年、失明した馬琴を助け、南総里見八犬伝を完成させた、嫁の路女(みちじょ)が眠る墓がある。法名・操誉順節路霜大姉(そうよじゅんせつろそうだいし)。

浄土宗 深光寺(じんこうじ) 文京区小日向4-9-5

文京区教育委員会  平成3年3月

江戸末期の1767年~1848年 81歳で亡くなりました。もともとは深川の武家の家に生まれましたが、性格的に宮仕えが性に合わなかったようです。武士でありながら商家の養子となっています。

髙田郁の小説「みをつくし料理帖」シリーズに出てくる気難し屋の戯作者 清右衛門先生のモデルは馬琴です。

清右衛門は実際に馬琴が婿に入った商家で名乗った滝沢清右衛門の名前をそのまま使っています。

妻の「お百」、息子で医者の「宗伯」も、馬琴の家族の名前がそのまま使われています。

元飯田町(現・千代田区九段)一帯の大家だったかどうかは分かりませんが、確かに大家さんでもあり、薬屋も経営しているところまで全く同じです。

(「絲桜春蝶奇縁(いとさくらしゅんてふきえん)」では滝沢家の販売する「神女湯」という薬を作中でさりげなく使い、宣伝をしています。)

実在の人物を登場人物として描く場合は多少それらしい名前に改変するのですが、この小説では本人の名前、家族の名前、生活環境など、そのままの設定です。

馬琴の性格についても文献を読む限り、小説の清右衛門の性格に近いものだと思われます。

馬琴は多くの読本(よみほん)・草雙紙(くさぞうし)を書き、著作は300余りと言われています。

中でも「南総里見八犬伝」は完成までに28年の歳月を費やしました。

最後は失明のため、長男の嫁”みち”が口述筆記して完成させたということです。

墓は東京メトロ茗荷谷駅の南、拓殖大学正門の道を挟んで反対側の深光寺にあります。

寺へ入る坂道を上ると本堂の左にありますのですぐに分かります。

深光寺の前には拓殖大学正門があり、目印になります。

滝沢馬琴終焉の地

総武線・信濃町の駅近く「日高屋」のお店脇で見つけました。

この地は、「南総里見八犬伝」の著者として有名な江戸時代後期の戯作者(げさくしゃ)滝沢馬琴(1767〜1848)が、天保七年(1816)から嘉永元年(1848)に亡くなるまでの約十二年間暮らした場所である。
馬琴は、江戸深川で旗本の用心の子として生まれた。名は興邦、御家人株を買い、翌年、神田同明町(かんだどうほうちょう)の屋敷から四谷信濃町の四谷組同心屋敷へ転居した。四谷に移転してからは、婿、妹、妻が相次いで亡くなり、自身も目を患い失明に近い状態であったが、嫁の路(みち)に口述筆記させ「南総里見八犬伝」を完成させた。







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