博覧強記 史跡

『どうする家康』静岡大河ドラマ館 & 静岡浅間神社

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2023年の大河『どうする家康』も既に放送開始から2ヶ月経ちましたが、家康が長い間(8歳~19歳、45歳~49歳、66歳~75歳)を過ごした静岡県静岡市(駿府)では2023年1月27日に静岡大河ドラマ館がオープンしていますので駿府城跡を見学しがてら見て来ました。

静岡大河ドラマ館は、静岡市の浅間神社内にあります。

 

1        大河ドラマ館

大河ドラマ館近くの塀には家康役の松本潤のポスターが何枚の連なっています。

大河ドラマ館の建物自体は、元々あった文化財資料館跡を改装したもので外観を見ると屋根が古びています。

建物の前にある池が綺麗です。

ブラタモリでは、背後にある賤機山(しずはたやま)の西側を南下してきた川(今は暗渠)が浅間神社のところで東に折れ、神社の門の前の小川に繋がっていました。

この池の水も水源は同じと思います。

館内図は下記

主要な展示品は2階部にあります。

1階は映像部屋がメインです。

これが、1階の等身大パネル、家康役の松本潤、家康の正室の瀬名役の有村架純、今川義元役の野村萬斎が当時の駿府の街並みと富士山を背景にお出迎えしてくれます。

3人3様の姿で、個々の繋がりが全く見られないパネルですが、ともかくもここが写真スポットです。

萬斎さんの後ろは「三つ葉葵」では無く、今川氏の家紋の「丸の内に二つ引両」じゃないの?

2階へ向かうスロープの踊り場の上に、ドラマのエンディングでいつも出て来る『どうする家康』のロゴと甲冑の写真。

松潤の家康は、テレビ朝日で放送していた、マンション住人の様々なトラブルにおどおどしながら首を突っ込む松潤主演の「となりのチカラ」を思い出します。

家康のイメージが壊れるのでは? と思ってましたが、引き続き似たような性格の家康で、作者の意図もそのようです。

作・古沢良太

家康公をいかに情けなく描くかが勝負。

真っ白な気持ちで物語を楽しんでもらいたい

 

狸おやじと言われ、狡猾さと忍耐で天下を手にした人と思われがちな徳川家康を、そうではなくて、必死に七転八倒しながら何とかピンチを切り抜けていった人物として描いたら、これ以上なく面白くなるのでは----------。

大河という舞台で、誰かがそんなふうに描いてくれたらと思っていたところ、 声を掛けていただきました。

今回の家康は、いかに情けなくするかが勝負だと思っています。

僕らと変わらない普通の人がたまたま戦国の世に生まれてしまったがゆえに、そしてたまたま桶狭間という驚天動地のことが起きてしまったがゆえに、とんでもない波乱の道を歩まざるをえなくなったという物語を、僕たち私たちの物語として見られるようにしたいと思うからです。

次々と現れる強敵やピンチをどう切り抜けるかというサバイバルの物語ではありますが、家臣団との絆を楽しく描く青春ドラマでもあり、家族を描くホームドラマでもあります。 歴史大好きな皆さんも、歴史が全くわからない皆さんも、何の予備知識もいりません。

どうか真っ白な気持ちでこの物語を楽しんでください。

語り・寺島しのぶ

時には感情を入れて--------

役者だからできることを、楽しみながら挑んでいます

オファーをいただいたとき、正直「私で大丈夫?」という不安がありました。

これまで、ナレーションの経験はありましたが、いわゆるマイクに向かって腹から声を張るというのは初めてでした。

事実を話すだけではなく、私もその中で家康を見守っているかのように、時には感情を入れてみたり。

それは役者だからできることだと思うので、皆さんに受け入れてもらえるか心配ではありますが、 楽しみながら挑んでいます。

語りと画のギャップに、思わず突っ込みたくなるような場面もありますので、ぜひ楽しんでいただけたらと思います。

 

転がり続けるような家康の人生を

丸い形で表現しています

デザイナーとして大河ドラマに携われたことを大変うれしく思っています。

僕たちがオファーをいただいたということは、これまでの歴史ある大河ドラマの題字とは違う、新しさを求められているのだと感じました。

そして、それは「どうする家康」というタイトルを聞いて確信しました。

天下人としての強い家康のイメージではなく、優しさや弱さがある。

悩みながら転がり続けるような家康の人生を、丸い形で表現しています。

今まで大河ドラマを見たことがなかった方にも、少しでも興味を持ってもらえたらうれしいです。

 

 

「忍者服部くん」になりたくない服部半蔵も面白い存在。

 

家康家臣団の中では異色の人物。

大河「おんな城主 直虎」では六角精児がこの役をやってました。

本田正信

家康の内なる野心を刺激する、型やぶりな知恵者

家康の側近。胡散臭く、イカサマをも厭わないので家臣たちからひどく嫌われるが、常識にとらわれない発想の持ち主で、家康の小さな野心を刺激する。

駿府に残された瀬名を奪還すべく、服部半蔵とともに奔走。

やがて紆余曲折を経て、家康が全幅の信頼を置く存在に。

 

松山ケンイチ

基本的に正信は、家臣団の中枢にいる人たちに好かれようとは思っていません。

とにかく、三河の貧しい人たちが食えるようになってほしい、その一心なんです。だから、忖度なしではっきりものを言う。

それが家康にとっては新鮮で、ハッとさせられる部分でもあったのかなと。

自分の言葉を貴重な意見だと感じてくれる人だったから、一度離れても彼のもとに戻ることができたのだと思います。

家康のすごいところは、とにかくどんな人の話もちゃんと聞くところですよね。

正信には、最後までズバズバ言い続けてほしいですね。

 

岡田の信長は凄みがあって、睨まれた家康が本当にかわいそうになります。

1547年(天文16年)、6歳の家康(竹千代)は人質として今川家へ送られることになりましたが、途中で織田家に奪われて、尾張で人質となります。

そのころ信長に受けた暴力がトラウマになっているという設定です。

竹千代が今川の人質として駿府に行くのは、今川と織田が戦った安祥城(あんじょうじょう)の戦いで織田信秀の息子織田信広を召し捕り、竹千代と信広の人質交換という形で織田から今川に移動したからです。

娘・瀬名を岡崎に行かせ、駿府に残った関口夫妻はその後どうなったかが気になります。

 

薄梅鼠色地(うすうめねずいろじ)むら染麻小袖(そめあさこそで)に

藍鼠麻小袴(あいねずあさこはかま) 複製品

 

徳川家康(松平元康)

松本潤さんの衣装

「家康の衣裳はブルー」というのが基本コンセプト(後述)。

物語初期の元康のベーシックな装いであるこの衣裳は、薄梅鼠色と呼ばれる穏やかなムラ染めの小袖に、藍色がかった灰色の小袴、三河の家臣たちが地味目な装いが多い中、明るい色合いで当主らしい爽やかさと気品を醸し出している。

 

次郎三郎 VS 氏真! 本気の勝負に用いられた[たんほ槍]

たんぼ槍を使って実践稽古をする次郎三郎元信(のちの元康→家康)と今川氏真。

凜々しく堅実な腕前を見せる氏真に、いつも倒され情けない姿をさらす元康。

ところがある時、 ふたりは太守,義元の眼前で瀬名を賭けて勝負することに。

槍を飛ばされ窮地に陥った刹那、元信が突如見せた“本気”とは-------

第1回 「どうする桶狭間」

岡崎城主・松平広忠の嫡男・元康(のちの家康/松本潤)は、大国・駿河で今川家の人質として暮らしていた。

名君・義元(野村萬斎)に目をかけられ、息子の氏真(溝端淳平)と兄弟のように不自由ない生活を送る元康は、武芸を好まず、自作の人形でままごとをするような若者だった。
そんな彼に、関口氏純(渡部篤郎)の娘・瀬名(有村架純)は好意を寄せ、ふたりは恋に落ちる。
あるとき、父の墓参りに岡崎を訪れた元康は、酒井忠次(大森南朋)ら旧臣たちと再会。
彼らのお家再興の願いを知るが、それは元康にとって重荷でしかなかった。
やがて元康は瀬名と結婚。
子宝にも恵まれ、平和な日々が訪れたかに見えた。
しかし1560年(永禄3年)、今川が織田と戦となり、最前線の大高城に入った元康のもとに、「義元、桶狭間で討ち死に」との知らせが届く。
呆然自失の元康の眼前に現れたのは、かつて彼に恐怖を植えつけた織田信長(岡田准一)の軍勢だった。
元康は、瀬名が待つ駿河に戻るか、故郷の三河へ進むかの決断を迫られる。
「..... 妻子の元へ帰りたい」。
だが元康たちは敵に襲われ、命からがら岡崎の寺へ逃げ込む。
一度は自害を考えるも、そこで目にした『厭離穢土 欣求浄土(おんりえどごんぐじょうど)』という言葉の本当の意味を知り、覚醒。
敵陣を突破して岡崎城への入城に成功するのだった。
そして織田方と同盟を結ぶが、それは今川を裏切り、妻子が人質同然になることを意味していた。
降りかかる難題に悪戦苦闘しながらも、元康は瀬名たちを奪還すべく、動きだす―

家康が掘った木彫りのウサギ。

一人ままごとをしているところを瀬名に見つかってしまいます。

当時には珍しく相思相愛で結婚した家康と瀬名。

家康は綿や麻などの天然素材を生かした生成りの直垂。

瀬名も生成り色(きなりいろ)だが、光沢ある菱模様の綸子(りんず)生地で、控えめながら華やかさを出している。

お互いを深く信頼し、これから生田の試練を二里超えていくことになる二人の、門出を祝う婚礼装束である。

元康が作ったウサギを入れたお守り袋 [複製品]

桶狭間での今川敗戦の混乱で、夫・元康の安否がまったく分からない瀬名。

元康にもらった木彫りのウサギをお守り袋に入れ、 必死で無事を祈るばかり。

そこへ元康が岡崎城へ入ったとの知らせが届き・・・

第2回 「兎と狼」

瀬名のお守り袋には、家康が造った木彫りのウサギが入れられています。

桶狭間のあと行方が分からなくなっていた家康の無事を瀬名に知らせる手紙。

狭間の戦の前、義元が披露した舞の軍扇 [同等品]

織田軍との決戦のため自ら出陣した義元。

前線基地・沓掛城(愛知県豊明市)に入ると、今川軍の大軍勢が城の周りを埋め尽くす中、兵たちの士気を高めるため軍扇を手に華麗な舞を披露した。

第1回 「どうする桶狭間」

 

狭間の戦の前、義元が披露した舞の軍扇 [同等品]

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今川義元

野付菖斎さんの衣裳

[どうする家康]における今川氏は、文武両道に優れて洗練されたイメージ。

その装いは紺色を主体としてむり、襟元の衣装はわずかに緑みを帯びた暗い青色の絹の絞織物。正絹に均一な染を施すことで、今川の高貴さを表現している。

 

鉄紺地染め綸子小袖に同綸子小袴に 同綸子長袖なし羽織

「家康公が愛したまち静岡」 を巡る

竹千代にとっての駿府

「駿府」 は駿河国府中(するがのくに ふちゅう)の略で、 駿河国(現在の静岡県中部~東部) の中心として役所 (国府) が置かれた場所です。

現在の静岡市街地が駿府にあたり、 足利将軍家の一族である今川氏の本拠地として栄えました。

今川氏は京都と強く結びつきがあり、公家や僧侶が集まったことから最先端の文化が駿府にもたらされました。

松平家当主として今川義元に迎えられた竹千代(家康) は、 今川氏の高い教養や文化、政治・軍事力にふれながら、 青春時代を過ごしました。

母とわずか3歳で生き別れ、父とも8歳で死別した竹千代は、 駿府にともに来た祖母の源応尼 (華陽院) によって大事に育てられました。

また一説には、義元の右腕であり臨済寺・清見寺の住職だった雪斎の教えを受けたとされます。

 

家康心の支え 静岡浅間神社

武士としてのスタートの地

今川氏にとって静岡浅間神社は家紋の赤鳥(あかとり)の由来となった地でした。

家康も、14歳ごろ初めて鎧を身に着ける儀式 (着初め) を静岡浅間神社で行ったとされ、瀬名との結婚後の館は門前の宮ケ崎町にあったと伝わっています。

武将として歩み始めた地を、生涯を通じて崇敬し手厚く守りました。

鎧は10代の家康の体型に合わせて作られたと考えられています。

現代に残る最高の技術と最新の研究成果で当時の姿を復元し、 若武者にふさわしい鮮やかな紅色がよみがえりました。

 

家康着初めの鎧  紅糸威腹巻(くれないいとおどしはらまき)

 

家康は戦の神である摩利支天の印影を肌身離さず持っており、死後、 印は摩利支天社 (現八千戈神社)に祀られました。 明治時代の神仏分離により、 摩利支天社の印や木像などは臨済寺におさめられています。

 

2        浅間神社

大河ドラマ館のあとは、そのまま浅間神社内を散策します。

境内には7つの神社があり、総称して浅間(せんげん)神社と呼ばれています。

家康心の支え 静岡浅間神社

静岡浅間神社とは

「静岡浅間神社」は神部神社、浅間神社、大歳御祖(おおとしみおや)神社の三社と境内の神社の総称で、 駿河国そして駿府の守り神として、 古代から朝廷や名だたる武将に信仰されてきました。

境内には総漆塗りで極彩色の建物が並び、社殿26棟すべてが国の重要文化財として指定を受けています。

現在も「おせんげんさん」と親しまれ、 初詣や七五三、 婚礼など、 静岡に住む人々の人生の節目と深い結びつきのある神社です。

 

7つ全てお参りすると願いが叶うということです。

 

2.1         総門

2.2         御神水井戸

御神水井戸の由緒

この井戸は、寛文十年(一、六七〇年)の境内絵図に既に記載があり、三代将軍家光公造営の折には現存していたことが明らかであります。

大御所公は幼少人質の折当神社付近で遊んでおり、又、駿府在城の時には度々当神社へ参拝しておりますので、この井戸にて御手水をされたことが窺い知れます。

又、当時当神社の全ての諸祭儀他にも使用され更に大神様のご神霊の籠った「御神水」として深く信仰されておりました。

明治以降は空井戸として保存されておりましたが、今度平成御大典記念事業として、崇敬者各位の要望と御奉賛により再興し、上屋を復元したのであります。

この「御神水」は、大神様の疫病退散、延命長寿の御神徳を受けるものとして霊験殊の外あらたかであります。

 

 

2.3         神部(かんべ)神社・浅間(あさま)神社

大河ドラマ館の模型です。

楼門

楼門左右のの像。

楼門を中から撮影。

舞殿

舞殿の内側にも細かい細工があります。

拝殿

神部(かんべ)神社・浅間(あさま)神社大拝殿(おおはいでん)[重要文化財]

徳川 3 代家光将軍時代、日光東照宮と共に大造営された社殿は、惜しくも火災にて焼失 した。

現社殿は、11 代家斉将軍時代・文化年間、幕府直営にて巨額の費用と多年の星霜、最高 の技術を駆使して造営されたもので、豪壮華麗の美極まり「東海の日光」と称されている。

殊にこの神部神社・浅間神社両社の大拝殿は、他に類のない特殊な重層楼閣造りで、世に 「浅間(せんげん)造(づくり) 」と称され、当神社の象徴的建造物である。 高さ 81 尺(約 25 メートル)もあり、外観は彩色絢爛。殿内は 132 畳で、天井には狩野 栄信 ながのぶ ・寛信 ひろのぶ の筆に成る墨絵龍と極彩色の天女図が描かれている。

平成 5 年 9 月吉日

 

拝殿の奥には本殿がありますが、そこまでは行けませんでした。

 

2.4         八千戈神社

2.5         麓山(はやま)神社

長い階段を登り、登り終わるとまた階段。

 

2.6         大歳御所神社

境内側から、入口側を見ると参道になっているのが分かります。

2.7         小彦名神社

神社のお参りは7つには足りませんでしたが、浅間神社内はここで終わり、駿府城に向かいます。

ところで、地元の人によると昔はこの神社の近くから、リフトが出ており、背後にある賤機山(しずはたやま)の上に行けたということでした。

現在は足で登るしかないですが、この賤機山は静岡市の北に位置し、市内を一望できます。山頂では見事な眺望を満喫できると思います。

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