史跡

「全領域異常解決室」ロケ地 牛天神(北野神社) 中島歌子歌碑

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東京ドームの北西300mの位置に牛天神があります。

 

天神様ですので、菅原道真公が祭ってあります。

この神社の縁起では、「源頼朝が奥州へ東征の途中、ここの入り江の松に船をつなぎ、風待ちをした。

たまたま、まどろむ夢の中で牛に乗った菅原道真公が表れ、頼朝に二つの幸のあることを告げたという。

夢から覚めて傍を見ると牛に似た岩石もあって奇異に感じたが、その後、頼家(1182年)が誕生し、平家を西国に追いやることができた。頼朝にとっては二つの慶事がお告げのとおり実現したため、報恩のためにこの神社を創建した。」

とあります。

神社の入口は、密集した住宅の隙間にあります。ここを通って階段を上ると本殿があります。

北野神社・中島歌子歌碑

(文京区春日1~五二)

北野神社は、江戸時代金杉天神、俗に牛天神と呼ばれ御祭神は、菅原道真公である。

縁起によると、寿永元年(二八二)源頼朝が東国経営のとき台地下の老松に舟をつなぎ、風波のしずまるのを待った。

夢中に菅神(道真公)が現われて、二つの吉事があると伝えた。

お告げの通り男子(頼家)が生まれ、平家を西海に追うことができた。

頼朝は大いに喜び、元暦元年(二八四)ここに社殿を造営したという。

また、夢さめて菅神の立っていた跡に、牛の形をした石(牛石という)があった。(現在は社殿の前にある)

境内の南側に、中島歌子(二四四~一九〇三)の歌碑がある。

歌子はすぐ近くの安藤坂の塾「の」の塾主で門下には、梨本宮妃、鍋島侯夫人や前田侯夫人など、上流中流層の婦人1000余人がいた。 樋口一葉、三宅花圃らはその門弟である。

歌碑は歌子の死後、明治四十二年(一九〇九) 門下生によって建てられた。

 

雪中竹

ゆきのうちに根ざしかためて若竹の

生ひ出むとしの光をぞ思ふ

郷土愛をはぐくむ 文化財

文京区教育委員会

昭和五十七年三月

 

下が、牛に似た岩石(ねがい牛)ということですが、どうしたら牛に見えるのでしょうか。

境内近く、もしくは境内にある建物は、

2024-10-9 フジテレビでスタートした「全領域異常解決室」の事務所のある場所として放映されていました。

今回、TVの影響もあり、前回の2020年9月以来で久々訪問しました。

正面の階段を上らずに左に曲がり、坂を上ると牛坂と呼ばれる坂があり、そこからも本殿に行けます。

階段を上がるのがつらいお年寄りが、こちらから回って境内に向かってました。

牛坂にある掲示板によると、中世は大曲まで入り江であったと書いてあります。

牛坂

春日一丁目5 北野神社北側

北野神社 (牛天神) の北側の坂で、 古くは潮見坂・蠣殻坂・鮫干坂など海に関連する坂名でも呼ばれていた。

中世は、今の大曲あたりまで入江であったと考えられる。

牛坂とは、牛天神の境内に牛石と呼ばれる大石があり、それが坂名の由来といわれる。(牛石はもと牛坂下にあった)

『江戸志』には、 源頼朝の東国経営のとき、 小石川の入江に舟をとめ、 老松につないでなぎを待つ。

その間、夢に菅神 (菅原道真) が、牛に乗り衣冠を正して現われ、ふしぎなお告げをした。 夢さめると牛に似た石があった。 牛石がこれである。 と記されている。

 

牛坂にある掲示板によると、中世は大曲まで入り江であったと書いてあります。

地図で確かめると牛天神から2~300m西に大曲があります。

「東京街歩き:湯島天満宮」でも書きましたが、昔の海はかなり内陸の方まで伸びていたようです。

地図で確かめると牛天神から2~300m西に大曲があります。

「東京街歩き:湯島天満宮」でも書きましたが、昔の海はかなり内陸の方まで伸びていたようです。

 

標高の分かる地図だとこんな感じになります。牛天神は現地へ行くとよくわかりますが、神田上水近くで、少し高い土地に建っています。

牛天神には他に中島歌子の歌碑が建っています。

牛天神のHPによると書いてある文字とその意味は下記です。

雪中竹 「雪のうちに 根ざしかためて 若竹の 生出むとしの 光をぞ思ふ」

(訳)雪の降り積もった中で、深く根を入れている若竹が、すくすくと光り輝いて伸びている。

中島歌子といえば、直木賞をとった朝井まかての「恋歌」を思い出します。
恋歌 (講談社文庫)

水戸藩天狗党の志⼠と結婚した江⼾⽣まれ、江⼾育ちの中島歌⼦の激動の⽣涯を、彼⼥⾃⾝が残した綴りを元に回想してゆきます。

藩内における、抗争と、敗者に連なる家族の投獄と処刑という極限の経験を経て、死にゆくまで、夫であった林以徳を思いながら、ときめき、悲しみ、憎しみ、愛する⼼を恋歌に託して⽣き⽣きと描写しています。

天狗党は幕末に攘夷の実行を幕府に促すために、藩内の筑波山で挙兵します。

そして、京都の徳川慶喜を通じて朝廷に尊王攘夷を訴えるために、1000人あまりの大部隊を編成し、京都を目指します。最後は、追討軍に追い詰められ、加賀藩に降伏しました。

その後、主たる参加者352名は斬首されます。まるで⾃滅の道を進むがごとく、若い命を無駄にした「天狗党の乱」ですが、私自身今もってこの死の行進の意味が理解できいてません。

さて、この地に歌碑のある理由ですが、すぐ近くの安藤坂に中島歌子の歌塾・萩之舎があったとのことです。

坂の途中には掲示板があります。

安藤坂の掲示板には、ここにも坂の下は入り江だったと書いてあります。一体昔の東京はどこまで海だったのでしょうか。今と随分違う地形であったことが分かります。

萩の舎跡
春日1-9-27
塾主中島歌子 (1844~1903) は、幼名を「とせ」といい、武蔵国入間郡森戸村 (一説に江戸日本橋)で生まれた。

夫である水戸藩士の林忠左衛門が天狗党に加わって獄死したため、江戸にあった実家の旅人宿池田屋にもどった。

その後歌子は、桂園派の和歌を加藤千浪に学び、実家の隣に歌塾萩の舎を開いた。
御歌所寄人伊藤佑命、小出粲の援助で、 おもに上中流層の婦人を教え、門弟1000余人といわれた。

歌集に『花のしづく』などがある。 明治36年(1903) 歌子の死去と共に萩の舎は廃絶した。
樋口一葉 (1872~96) は、父の知人の紹介で14歳の時、萩の舎に入門した。

明治23年(1892) 18歳の時、内弟子となり萩の舎に寄宿したこともあった。

佐佐木信綱は、姉弟子の田辺龍子(三宅花圃)、伊東夏子と一葉の三人を萩の舎の三才と称した。 一葉はここで、歌作と歌を作るため必要な古典の読解に励んだ。

田辺龍子の『藪の鴬』の刊行に刺激されて近世・近代の小説を読み、半井桃水に師事して、処女作『闇桜』(明治25年) を発表 小説家の道に進んだ。

近くの牛天神北野神社 (春日1-5-2) 境内に中島歌子の歌碑がある。

 

安藤坂
文京区春日1・2丁目の境
この坂は伝通院前から神田川に下る坂である。

江戸時代から幅の広い坂道であった。

傾斜は急であったが、1909年(明治42) に路面電車(市電)を通すにあたりゆるやかにされた。
坂の西側に安藤飛騨守の上屋敷があったことに因んで、戦前は 「安藤殿坂」、 戦後になって 「安藤坂」 とよばれるようになった。
古くは坂下のあたりは入江で、漁をする人が坂上に網を干したことから、また江戸時代に御鷹掛の組屋敷があって鳥網を干したことから「網千坂」 ともよばれた。

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