東京ドームの北西300mの位置に牛天神があります。
天神様ですので、菅原道真公が祭ってあります。
この神社の縁起では、「源頼朝が奥州へ東征の途中、ここの入り江の松に船をつなぎ、風待ちをした。
たまたま、まどろむ夢の中で牛に乗った菅原道真公が表れ、頼朝に二つの幸のあることを告げたという。
夢から覚めて傍を見ると牛に似た岩石もあって奇異に感じたが、その後、頼家(1182年)が誕生し、平家を西国に追いやることができた。頼朝にとっては二つの慶事がお告げのとおり実現したため、報恩のためにこの神社を創建した。」
とあります。
神社の入口は、密集した住宅の隙間にあります。ここを通って階段を上ると本殿があります。
下が、牛に似た岩石(ねがい牛)ということですが、どうしたら牛に見えるのでしょうか。
正面の階段を上らずに左に曲がり、坂を上ると牛坂と呼ばれる坂があり、そこからも本殿に行けます。
牛坂にある掲示板によると、中世は大曲まで入り江であったと書いてあります。
地図で確かめると牛天神から2~300m西に大曲があります。
「東京街歩き:湯島天満宮」でも書きましたが、昔の海はかなり内陸の方まで伸びていたようです。
標高の分かる地図だとこんな感じになります。牛天神は現地へ行くとよくわかりますが、神田上水近くで、少し高い土地に建っています。
牛天神には他に中島歌子の歌碑が建っています。
牛天神のHPによると書いてある文字とその意味は下記です。
雪中竹 「雪のうちに 根ざしかためて 若竹の 生出むとしの 光をぞ思ふ」
(訳)雪の降り積もった中で、深く根を入れている若竹が、すくすくと光り輝いて伸びている。
中島歌子といえば、直木賞をとった朝井まかての「恋歌」を思い出します。
恋歌 (講談社文庫)
水戸藩天狗党の志⼠と結婚した江⼾⽣まれ、江⼾育ちの中島歌⼦の激動の⽣涯を、彼⼥⾃⾝が残した綴りを元に回想してゆきます。
藩内における、抗争と、敗者に連なる家族の投獄と処刑という極限の経験を経て、死にゆくまで、夫であった林以徳を思いながら、ときめき、悲しみ、憎しみ、愛する⼼を恋歌に託して⽣き⽣きと描写しています。
天狗党は幕末に攘夷の実行を幕府に促すために、藩内の筑波山で挙兵します。
そして、京都の徳川慶喜を通じて朝廷に尊王攘夷を訴えるために、1000人あまりの大部隊を編成し、京都を目指します。最後は、追討軍に追い詰められ、加賀藩に降伏しました。
その後、主たる参加者352名は斬首されます。まるで⾃滅の道を進むがごとく、若い命を無駄にした「天狗党の乱」ですが、私自身今もってこの死の行進の意味が理解できいてません。
さて、この地に歌碑のある理由ですが、すぐ近くの安藤坂に中島歌子の歌塾・萩之舎があったとのことです。
坂の途中には掲示板があります。
安藤坂の掲示板には、ここにも坂の下は入り江だったと書いてあります。一体昔の東京はどこまで海だったのでしょうか。今と随分違う地形であったことが分かります。