史跡

福井の中心 福井城を歩く

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福井駅の玄関口はたくさんの恐竜たちのおもてなしで 古代にタイムスリップするのだけれど、

ちょっと歩くと 戦国時代のドラマを感じる史跡がたくさんあります。

その1つが「福井城跡」

福井県の中心 福井県庁はこの福井城跡の内堀の中にあります。

(ちなみに福井県警察本部もあります)

【福井城(北ノ庄城)】

メモ

織田信長が朝倉氏を滅ぼした後、越前は柴田勝家に与えられ、1575年(天正3年)北ノ庄城を築城しました。

その後 羽柴(豊臣)秀吉に賤ヶ岳の合戦で敗れて、天正11年(1583)4月24日、妻お市の方(織田信長の妹)とともに北ノ庄城で自害しました。

柴田勝家が築いた北 ノ庄城(きたのしょうじょう)はわずか一代8年で焼失したのです。

関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は、2男の結城秀康(2代将軍秀忠の兄)の功績を評価し越前一国を与え、結城秀康が福井藩初代藩主となりました。

柴田勝家の築いた北ノ庄城を取り囲む形で拡充して、新北ノ庄城(福井城)の築城を開始、6年をかけて慶長11年(1606)に完成。

一説によれば、本丸・二の丸は【家康縄張り】といわれており、家康の命により全国の大名が手伝普請にあたったと言われています。

高さ約37m四層五重の雄大な大天守に、足羽川と荒川を外堀とし、旧吉野川を百間堀に利用した四重・五重の堀と石垣、多くの櫓や城門をもった巨大な城でありました。

築城当時は「北庄」と呼ばれたが、3代藩主・忠昌のときに「福居」と改称、その後さらに「福井」となりました。

越前松平家は、御三家に次ぐ御家門筆頭の家柄で、のちに支藩の分封や相続の混乱などから石高は変遷したものの、幕末期には16代藩主松平春嶽が藩政改革に努め、

国の中でも雄藩の一角として大きな影響力を発揮。廃藩まで17代にわたり福井を治めました。

天守は寛文9年(1669)4月の大火で焼失し、以降は再建されず、現在は本丸の石垣と内堀、天守台などがあり、当時の様子を伝えています。

*福井駅(恐竜広場がある西口)から歩いて5分ほど

私たち けっこういろんなお城見て回っていますけど 内堀のど真ん中に県庁が建っているのは 見たことないかも・・・ もちろん 藩の中心地なので 城の敷地内に役所や学校を建てることは多いのですが、ど真ん中はすごい。 大胆ですよね。

【福井城址】

*中央公園

現在は県庁・県警の他は、福井市役所・中央公園になっています。

【岡倉天心像】

岡倉天心 文久二年〜大正二年「一八六二~一九一三」名は覚三、越前藩士の子として生まれ、幼少より英文、漢籍に親しみ東京大学を卒業後に、文部省に奉職、日本美術の振興、文化財の保護に尽力、東京美術学校長を辞職後、雅邦、大観春草、武山らを率いて日本美術院を創立し、近代日本画を育成、米国に渡りボストン美術館東洋部長として「東洋の理想」「日本の覚醒」「茶の本」など英文著書を著わす一方、米国各地で講演しその高い識見、円満なる人格は西欧人より深く尊敬された。

初めて日本と東洋の「心」を西欧に紹介した超人的な業績は不滅であり、伝統の尊重と模倣を排し、創造を説いた言葉は永遠の真理として生き続けるであろう。

昭和五二年(一九七七)十一月

岡倉天心先生顕彰会
会長中川平太夫

 

【ガス事業75周年 瓦斯燈】

電気の供給が十分でなかった明治時代

先進地だった横浜の協力を得ながら 明治45年 福井市にガス燈がともりました。

点灯式には多くの市民が見物に訪れ、福井市は祝賀式に「瓦斯煎餅」を配ってお祝いしました。

*ガス灯について知りたい方はコチラの記事

小平市にある東京ガスのガスミュージアム#1

小平市にある東京ガスのガスミュージアム#2

小平市にある東京ガスのガスミュージアム#3

【堀割広場(西二ノ丸の堀)】

央公園の南側に、一段低くなった石が敷き詰められた四角い広場が掘割広場です。

両横にある石垣は、地元産の笏谷石(しゃくだにいし)で、すべて出土した石を布積みしています。

当時の堀の幅や深さを再現していて 二ノ丸の堀を感じられます。

この横には 遊びの広場などもあります。

公園奥 手前の建物が福井県警察本部、奥の11階建ての建物が福井県庁です。

注目ポイント

福井城は、石垣をはじめ、天守・櫓等の石瓦、基礎石など建物、用水や暗渠まで、地元福井市中心部の足羽山で採石された笏谷石(しゃくだにいし)が使用されました。

その石垣は青緑色で美しく、横のラインが通った「布積み(ぬのづみ)」の「切込接ぎ(きりこみはぎ)」という積み方で、これは第1級の城(二条城や江戸城)の積み方と同じです。

福井城の石垣の特徴は、すべて足羽山の笏谷石が使われていること、すべて小さい石で、運びやすく加工しやすい「切り石」ばかりだったことです。

*福井城 本丸

【御廊下橋】

内堀にかかる御廊下橋

石垣の美しさもあり とても趣があります。

福井城址

初代福井藩主・結城秀康が築城しました。

四重の堀で囲まれた二ノ丸、三ノ丸が本丸を取り巻いています。

本丸周囲の高石垣は、ほぼ同じ大きさでそろえた笏谷石(しゃくだにいし)の切石を布積みの手法で見事に積み上げています。

また用水や暗渠、 建物の礎石や瓦などの建材もすべて足羽山(あすわやま)産の笏谷石が使われています。

その美しい姿は現在も福井市街地の景観を彩っています。

福井城と御廊下橋

関ヶ原の戦いの後、越前に封じられた福井藩初代藩主結城秀康によって築かれた福井城は、本丸を中心に、堀と郭が幾重にも巡らされる典型的な環郭式平城で、徳川家康の次男の居城に相応しい壮大な城郭でした。

本丸内には、政庁と藩主の居住部分を合わせた床面積一千坪を超える御殿がありましたが、歴代藩主の内、昌親(後、吉品)・重富・治好・慶永(春嶽)・茂昭の五人は、現在の中央公園にあった西三ノ丸御座所に居住していたとされます。(松平春嶽著「真雪草紙」)

藩主が政庁であった本丸と西三ノ丸御座所とを往復するための専用の橋が、御廊下橋でした。

明治初期に撮影された写真(福井市立郷土歴史博物館蔵)によると、この橋は屋根付きの珍しい形態でした。

 

御廊下橋の復元

福井県と福井市は、福井城築城四百年を機に、この橋を復元することにより、県民市民の皆様に故郷の歴史に親しんでいただき、また、故郷への愛情、誇りを思い起こしていただきたいと考え、皆様との協働による復元に着手しました。

史実に忠実な復元とするため、専門家で構成した「復元考証専門委員会」による検討を重ねたほか、県民市民の代表で構成した「整備推進委員会」において、この事業の意義を多くの方々に知っていただき、また、事業への参画を推進していく取り組みを企画しました。

「ワンコインサポーター運動」 「ヒノキ板購入運動」はその一環として実施したものであり、多くの方々の参画をいただきました。

平成二十年三月

ご協力いただきました募金、寄付金は、この案内板の設置に充てさせていただきました。

 

御廊下橋を渡ります。

石垣をまじかで見ると 石垣の表情が見えてワクワクします。

明治初期に撮影された写真をもとに復元したこの橋。

橋脚はクリ材、上屋はヒノキ造りです。

上屋の内外の壁は、ともに漆喰(しっくい)塗りで、外壁には下見板、内壁には腰板が貼られています。

日没から午後10時までライトアップされているようですよ。

【山里口御門】

福井城山里口御門(やまざとぐちごもん)

山里口御門は、福井城本丸の西側を守る門として築城当初からあり、「廊下橋御門」や「天守台下門」とも呼ばれていました。

寛文9年(1669)の大火で焼失しましたが、 その後再建されました。

山里口御門は、 高石垣に挟まれた場所にあり、 門の上に長屋状の建物を設けた櫓門と、棟門、 枡形石垣の上に建つ土塀とで構成されます。

防御力の高い枡形門の構造で、敵の侵入を防いでいました。

西三ノ丸(現福井市中央公園付近)に御座所があった松平春嶽などの時代には、藩主は御座所から御廊下橋を渡り、山里口御門を通って、本丸へ向かったと考えられています。

 

 

御廊下橋を抜けると漆喰の白い塀

白い土塀には、城へ攻めてくる敵を壁の内側から狙い撃ちするために開けられた、「狭間(さま)」が空いています。

丸いのは鉄砲用の「丸狭間」だとおもうけど 長方形のは狭間は「矢狭間」?「箱狭間」?

【枡形門】

城内の石垣 小さい石ですがきれいに切り出されています。

はらみや破損を修復して積み直しているそうです。「笏谷石」が福井城の特徴ですね。

【櫓門】

こちらは櫓に入って見学することができます。

発掘調査の様子や復元工事の様子などパネルとビデオで紹介しています。

櫓から見た御廊下橋と枡形

敵が入ってきたら すぐに打たれそうですね。

さぁ 天守台に向かいます。

【福の井】

福の井

「福の井」は北ノ庄城(後の福井城)築城当時からあった井戸と伝わっています。

安永4年(1775)の「御城下絵図」の天守台には「福井」と記された井戸が描かれています。

この頃には一般に「福の井」と呼ばれ、福井城の特別な井戸であったと考えられます。

特別な井戸となっていたことがうかがえます。

名井「福の井」が福井の名の由来になったという説もありますが、実際は、福井藩第3代藩 主松平忠昌が「北ノ庄」の名は敗北につながるとして「福居」に改名し、

それが1700年頃に「福井」となったと考えられています。

昭和23年(1948)の福井地震で井戸の形が大きく歪んだことから、災後に井戸枠が大きく作り変えられました。

福の井の横で越前市味真野茶をいただきました。

お花見やGWなどイベント時に行っているようです。

タイミングが良ければ 地元のガイドボランティアさんから福井城の歴史など聞けますよ。

【天守台跡】

こちらは 残念ながら基礎石が残っているだけです。

福井城天守

福井藩の初代藩主結城秀康は、慶長六年(一六○一)から約六年をか約六年をかけて福井城 (北庄城)を築城し、本丸には壮大な天守が偉容を誇っていた。

残されている天守絵図によれば、外観は四層であるご 最下層の階高を高くとって二階分の床を張っており、内部が五階になっている。

絵図では高さが、約三〇メートルあり天守台を含めると一四〇メートルにもなる。

今に残る天守台と控天守台には、大きな礎石が並んでおり、天守台の北半分に天守が建っていたのであろう。

四層五階の壮大な天守も、寛文九年(一六六九)四月の大火で焼失して以来、再建されることはなかった。

 

福井城の天守閣 再建予定はないのでしょうか。

この立派な堀や城壁に聳え立つ天守閣 見てみたい。

天守閣跡には昭和23年の福井地震の爪痕も残されていました。

この控天守台跡の石垣には福井震災(一九四八年六月)等による崩壊の跡が残っています。

厳しい自然の力が感じられるとともに築城以来の悠遠なる時の流れに思いを馳せることができます。

 

福井地震

福井地震

福井平野を震源とするマグニチュード7.1の地震が発生。

地震動は強烈で、震源近傍では住家の全壊率100%の集落が多数出現し、3年前の福井空襲から復興途上にあった福井市でも全壊率は80%を超えた。

内陸で発生し都市直下型の強い活断層地震である。

住家の全壊34,000棟。地震直後の火災による被害は福井市での2,407棟を含む4,100棟以上。

人的被害では死者3,769人に及び、鉄道、道路、河川堤防、橋梁、水道等の土木施設にも多大な被害が発生。

被災地の中央を東西に流下する九頭竜川では全ての橋梁が被災し、被災地への支援は北部を石川県側から、福井市を含む南部を県中南部と滋賀県側から救援する事態であった。

戦時下及びGHQ軍政下という社会状況で、昭和20年の福井空襲、昭和23年6月の福井地震、同7月の豪雨水害と、復興途上や被災直後に災害が引き続き発生し被害を拡大させた。

【御本城橋】

福井城本丸の南側に架かる御本城橋

橋の先には瓦門があり本丸の正門で、内部は枡形構造になっていた。

私たちは次に郷土歴史博物館へ向かうため 福井城址北側の橋に向かいました。

【北不明門きたあかずごもん】

福井県庁の裏手にある北不明門 門は現在は無く 土橋につながっています。

この石垣の内側 ホント立派ですよね。(でも 進入禁止でしたが・・・)

土橋からの見た内堀

「福井城址春まつり」では北陸新幹線の福井開業を受け、お堀に浮かぶ和舟から周辺の眺めを楽しめる初の乗船体験会をしたそうです。

桜の名所でもあるようなので お花見の頃の和舟は素敵でしょうね。

福井城址 石垣好きにはたまらない素敵な城跡でした。おすすめですよ。

Nuppe

 

 

 

 

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