史跡

東京街歩き:江戸川乱歩の「押絵と旅する男」の幻想の中で蘇る浅草・凌雲閣   

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浅草凌雲閣は、昔 浅草にあった12階建ての建物です。

昔の写真や、映像によく出て来るので見たことのある人は多いと思います。

当時は「浅草12階」と言う呼び名の方が一般的のようでした。

凌雲閣のあった場所

しかし、浅草の一体どこにあったのでしょうか?

今回、その凌雲閣の立っていた場所を確かめるべく跡地へ行って来ました。

跡地近くにはひっそりと小さな記念碑が建っていました。

実際の凌雲閣はもう少し北のあったようです。

凌雲閣

記念碑に記載している内容を以下に記載します。

文字は潰れて判読できないところがあるので、適当に補いました。また、入場料については、現在の価値に置きなおして記載してあります。

1890年(明治23年)11月27日台東区浅草2丁目14番5号辺りに浅草凌雲閣(通称:12階)が完成。設計者は英国人技師ウィリアム・K・バルトンが担当。

当時としては超高層の八角形12階の建物で、1階から10階までが煉瓦造り、11・12階が木造で、屋根には風見の付いた避雷針がのり、8階までは日本で最初の電動エレベーターを設置。2階から7階には凡そ50店が軒をつらねた。

最上階の12階には30倍の望遠鏡が設置され、墨田の流れからお台場まで、品川沖の海、遠くは箱根、秩父の山々が望めたとされる。

入場料は大人8銭(現在の大人3040円)子供4銭であったが高所から東京を一望しようという人が押し寄せ、東京随一の観光名所となった。

完成から33年の1923年(大正12年)9月1日の関東大震災で建物の8階部分より上が崩壊したため、爆破解体された。

明治・大正の33年間、多くの人たちにときめきと感動をあたえ、一世を風靡・浅草の振興に貢献した。

場所は、下の地図を参考にしてください。

凌雲閣

隈研吾さん設計の「浅草文化観光センター」8階の展望テラスから撮影した浅草の全景写真に、当時あったと思われる場所に凌雲閣を入れてみました。

浅草寺の五重塔の高さが53.32mとほぼ同じ52mです。

当時は際立って高かった凌雲閣も、赤枠を付けないと、周囲の建物に紛れて分からなくなりそうです。

撮影場所の建物の高さは38.9mですが、この眺めですので、明治・大正の高い建物が無かった時代であれば素晴らしい眺望が拝めたことがわかります。

凌雲閣

小説に出て来る凌雲閣

啄木鳥探偵處 (伊井圭)

石川啄木は、凌雲閣の経営者から凌雲閣12階に出現する着物姿の女性の幽霊の謎解きを依頼され、解き明かします。

石川啄木の『一握の砂』「我を愛する歌」の中にもでてくる凌雲閣をモチーフにして作者が書いたのもだと思われます。

押絵と旅する男 (江戸川乱歩)

魚津へ蜃気楼を見に行った帰り、「私」はがらんとした電車の中で、押絵をもった老人と出会います。

老人の兄は昔、浅草十二階[凌雲閣]の上から見つけた見知らぬ娘に一目ぼれをしてしまいます。しかし、娘を探すことができません。やっとのことで、その女性のいるところへふたりで行ってみると、その女性は押絵でした。

「私」が双眼鏡をさかさまに覗いて兄を見ると、小さくなってその女性の横で同じ押絵になっていました。

以来「兄夫婦」をこうしていろんなところへの旅に連れて行っているのだという、なんとも不思議な話ですが、江戸川乱歩の傑作と言われています。

いだてん

NHKの大河ドラマです。

金栗四三が勤務する第二高女で教鞭をとっているシマちゃん(杉咲花)が、浅草オペラを見に行くために待ち合わせ場所にした凌雲閣の最上階で、関東大震災に見舞われ、行方不明になってしまいます。

こちら葛飾区亀有交番前派出所 (秋本 治)

「十二階で逢いませう」

両津にとりついた関東大震災で亡くなった花代さんと、この恋人 小吉の半世紀以上たったデートの約束を(中川が作った)浅草12階で果たします。

以上が、今まで見たり、読んだりした本や映像のタイトルです。

関連本を読んだら適宜追記してゆきたいと思います。

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