NHKの大河「麒麟がくる」もいよいよ佳境に差し掛かりましたが、本能寺の変の光秀の動機はどのように描かれるのでしょうか。
肥後細川家の所蔵する光秀関連の古文書が、2020-11から文京区の永青文庫で展示されていますので、見に行って来ました。
細川家初代の藤孝(幽斎)と光秀は、ともに足利将軍側近として使え、その後の、織田信長の天下統一の戦いでは、信長配下の武将として、ほぼ行動を共にした親密な間柄でした。
光秀の娘 玉(細川ガラシャ)は藤孝の嫡男 忠興の正室です。
そんなわけで、細川家では、光秀と交わした文が何点も保管されています。
目次
1 永青文庫
1950年(昭和25年)に細川家の屋敷跡に建てられました。
建物自体も昔の貴族屋敷風です。
今回の展示の目玉は何と言っても、ポスターの背景にもなっている、
天正10年(1582)の本能寺の変から7日後、丹後を動こうとしない藤孝と忠興に光秀が送った一級資料の手紙です。
内容は
(一の条)当初、御父子の振る舞いに腹を立てたけれど、御両者の剃髪の覚悟もっともであると思いなおしました。考え直して参陣いただけないでしょうか。
(二の条)領地は、摂津を、またお望みであれば但馬、若狭も差し上げます。
(三の条)今回の件は、忠興(藤孝の嫡男で、娘の玉の夫)を取り立てるためで望外な考えはない。50日から100日で近畿一円を統一したら、十五郎(光秀の長男の明智光義)や与一郎殿(細川忠興)に天下を引き渡して、自分は身を引く所存。使いの者両人に委細を伝えてください。
この手紙を読んで違和感を持ったのは私だけでしょうか。
信長を誅殺するという天下の大事をなした後なのに、その理由が、天下のためでなく、忠興のためと書いてあります。
明智光秀と言うのはその程度の事で、主君を殺してしまうのでしょうか。
この文章に対して異議を唱えている人を見つけました。
茶道・歴史研究家の井上慶雪です。
「本能寺の変 秀吉の陰謀」で述べています。この本自体はタイトル通り、首謀者が秀吉であったという内容です。
この書状については、「領土を餌に参陣を請うたり、嫡子・忠興に天下を引き渡すかの示唆を見せたり、当代一級の知識人にして稀有の知将と謳われた光秀にしては、文章が稚拙すぎる。この書状が偽筆であることは一目瞭然である。」としています。
本文の文字は、大名であれば代筆者がいるため光秀の手によるものかどうかは分かりませんが、末尾の花押(署名の代わりに使用される記号・符号)は本人のもののはずですが、この手紙の花押はよく似て書かれた偽物とのことです。
明智一族の汚名を晴らそうと真実を調査している末裔の明智憲三郎氏の本も、同じように本能寺の変の別の見方について示唆を与えてくれます。
光秀の計画性の無さ
本能寺のあとの光秀は、周囲の大名にも見放され孤立無援です。刹那的に興した事件に見えますが、光秀自身がそのような性格ではなく、むしろ、細部に拘って事を進めるタイプであったのに、本能寺の変だけはどうして、後のことも考えないで起こした事件の様に見えます。
秀吉の中国大返し
本能寺の変(ほんのうじのへん)は天正10年6月2日(1582年6月21日)早朝に起こりましたが、秀吉が本能寺の変の報を受け取ったのが3日の晩。毛利と和議を結び、備中高松撤収が6日の2時ごろ、7日には大雨疾風の中を80km進んでいます。
全体では、総計219kmの距離を17000人の兵士とともに8日で移動しています。
毛利とは既に、和議の密約が結ばれ、高松城の清水宗治が切腹する前に、自陣を引いていた可能性があるとの見解を示している歴史研究家もいます。
何分にも山崎の戦いで勝った秀吉の書いた『惟任退治記』の内容が歴史の検証の中心となっていますが至る所で歴史を書き換えている可能腺があるからです。
こうしてみると、あまりの秀吉の出来すぎる仇討が、あらかじめ仕組まれた筋書き通りに成った気もします。
さて、ここのところをNHKの大河はどのように描くのでしょうか楽しみです。
2 肥後細川庭園
折角なので庭園の方も散歩してきました。
神田川沿いの目白崖線と呼ばれる崖を利用して細川家が広大な大名庭園が造営しました。
都会のど真ん中の見事な庭園です。さすが肥後のお殿様の庭園です。
水琴窟です。手前の竹の穴から良い音がします。
2.1 松聲閣
元総理大臣の細川護熙氏が、幼少期暮らしたという松聲閣(しょうせいかく)は、もと細川家の学問所として使用されていたとも伝えられています。
現在は集会所として活用され、内部お見学も可能です。