幕末に武蔵の国から京都に登り、市中見回り役として、尊王攘夷を旗印に京都で暴れる浪士に恐れられた新選組の局長は、言わずと知れた「近藤勇」です。
武蔵に残る勇の痕跡を回ってみました。
目次
1 生家跡
天保5年(1834年)、武蔵国多摩郡上石原村(現在の東京都調布市野水一丁目)に百姓・宮川久次郎(ひさじろう)の三男として生まれました。
現在の跡地には屋敷配置図の右下にある井戸まわりの三角形の狭い土地だけですが、もともとは、屋敷林に囲まれた広い敷地でした。
ここから下は調布市郷土博物館に展示されていた復元模型です。
2 天然理心流道場「撥雲館(はつうんかん)」
道路を挟んで生家跡の向かいにあります。
近藤勇の父親 宮川久次郎は、自分の屋敷内に寺子屋を開くとともに、天然理心流の道場を持って、勇とその兄たちをはじめ近在の指定を集めて学問や武術を指導していました。
天然理心流三代目の近藤周助は、月に二・三回招かれて久次郎の道場に通ってうましたが、勇の度量と技量を見込み近藤家の養子として迎え入れました。
「撥雲館」の名前は、暗雲を取り除くという意味で明治9年に山岡鉄舟が命名したもので近藤勇の時代の名前ではありません。
3 「浪士組」として京都へ
文久3年(1863年)正月、出羽国庄内藩出身の清河八郎らの献策により、14代将軍・徳川家茂の上洛警護をする浪士組織「浪士組」として江戸小石川(東京都文京区)の伝通院に集まって中山道経由で上洛します。
4 甲州勝沼の戦い
鳥羽伏見の戦いで薩長に敗れ、江戸に帰り着いた勇ですが、慶応4年(1868年)には甲陽鎮撫隊として、板垣退助ら東山道先鋒総督軍と交戦しましたが、兵力・武力とも官軍と比べ脆弱で、わずか2時間の交戦で壊滅しました。
甲州鎮撫隊として甲府に向かう近藤は調布上石原の西光寺境内で休息し、多くの人に見送られながら出立しました。
調布市郷土資料館の近藤勇像は西光寺の像の原型です。
4 墓地
近藤・土方は再起を図るべく隊員を募集し、下総国流山(千葉県流山市)に屯集しますが、新政府軍に捕縛され、処刑されます。
勇の甥の宮川勇五郎は、板橋の刑場で肩の鉄砲傷を目印に首のない勇の遺体を掘り起こし、龍源寺に埋葬しました。
近藤勇自身は武士の出身ではなく武蔵の農民でした。
武士になりたくて、何とか武士になろうとして、幕府に頼って武士の道に進み、幕府のために戦い、人を殺し、その結果、幕府と運命を共にしました。
斬首されたのは33歳です。
確かに、薩長にとっては天敵だったでしょう。
しかし勇自身は、不器用で、時代の流れを読むことができず、単純に幕府に従った行動がこうした結果を生むことになりました。
明治になって消滅した武士階級と同じように、新選組もまた時代に翻弄されて露と消える運命だったのでしょう。