美術館/博物館

古墳群のある公園の一画に建つ山梨県考古博物館

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山梨県考古博物館は古墳群のある公園の一画にあります。

駐車場は広く、駐車場わきのサクラが綺麗に咲いていました。

ここから入ります。

入口の左にはナウマンゾウの像があります。

 

入口にあった象の像の意味が分かります。

ナウマンゾウは、約2万年前まで日本列島に生息していたゾウです。

現在のアジアゾウより小さく、体長は5~6m、 肩までの高さが2.5~3m程度で、 2mを超す牙を持っていました。

甲府市相川から発見されたものは、 発掘された地層から8万年以上前のものと推定されています。

日本列島に確実に人類が住み始めたのが約4万年前以降とされていますが、ナウマンゾウが山梨県内にも居たこと、そして狩猟されていた可能性を示す発見です。

  

黒曜石は鋭い刃を作ることができるため、金属の無い時代には重宝されました。

成分を見ると産地が分かるようです。

 黒曜石は火山で産出する自然ガラスで、 3万年前の旧石器時代から縄文時代、 さらには弥生時代中期頃の2千年前頃まで、石器の材料として盛んに利用されました。

山梨県周辺の黒曜石原産地には、 長野県の諏訪星ヶ台などの和田峠から八ヶ岳西部にかけての産地、 神奈川県箱根山や静岡県天城、 東京都神津島など20ヶ所以上が確認されています。

山梨県の遺跡では、 諏訪星ヶ台を中心とした和田峠周辺の黒曜石が多く用いられていますが、 神津島や天城柏峠の黒曜石も旧石器時代や縄文時代に持ち込まれています。

しかし、箱根の黒曜石はほとんど利用されておらず、縄文時代の遺跡でわずかに数点の出土が知られるのみです。

蛍光X線分析装置を用いた望月明彦氏の研究成果によります。

あとは土器だらけですので、撮影した写真を掲載しておきます。

 

大きなカメの中には、子供の遺体が入れられていた可能性があるようです。

 

宮の前遺跡出土の縄文土器

この土器は、 昭和 57 (1982) 年に、 市川三郷町黒沢にある宮の前遺跡 (現在の山梨県警察本部ヘリポート) から出土したものです。

山梨県内では、縄文時代中期後半頃(今から約4,500年前)の遺跡から、竪穴住居の出入り口付近や屋内、屋外などに地面に穴を掘り土器を埋めた「埋甕」 と呼ばれる遺構が多く発見されています。 埋甕は、 乳幼児の遺体を入れて再生を願ったとされていますが、 胎盤を入れて子どもの成長を願ったとする説もあります。

底には穴をあけたり、 打ち欠いたりしているものが多く、 これには日常使う道具と区別したり、死者の魂を抜いたりする意味があったと考えられています。

宮の前遺跡では、二つの理型が60cmほど離れて並んで発見されました。

この土器は、曽利式と呼ばれる高さ約65cmの大型の土器を逆さにして埋められており、底に近い部分に穴があけられています。

非常に残りの良い状態のまま発見されており、縄文時代の信仰や葬制を知ることができる貴重な資料として知られています。

 

 

昔、銅鐸は使用方法が分からず謎の道具と呼ばれていましたが、ある時、舌(ぜつ)と呼ばれる振り子の部分が銅鐸と一緒に出土し、催事のときの鐘だという事が分かりました。

ここでは、当時の使い方を再現しています。

 

銅鐸は弥生時代に造られた青銅器の一種です。

『つり手=紐(ちゅう)』と『振り子=舌(ぜつ)』 をそなえ、 表面には紋様が刻まれています。

博物館では台に置かれた状態で展示されることが多いですが、 弥生時代には吊るされて音を発するものとして使われていたと考えられています。

銅鐸は中に下がっている舌を揺らして叩くことで音を鳴らします。

その鋭く高い金属音は、それまで金属を知らなかった当時の人々にとって特別な音色にきこえたのではないでしょうか。

こちらで展示中の銅鐸は復元品で、 製作当時は金色に輝いていました。

これまで多くの皆様が触れ、鳴らしてきたことにより緑青(ろくしょう)がふいて味がでてきました。 なお、この緑青はいわゆるサビというよりも青銅が酸化して表面を覆ったもので、 青銅製品を守る役割を果たしています。

 

 

博物館の周りの古墳群のある公園のレポートは下記です。

甲斐風土記の丘・曽根丘陵公園の古墳と遺跡

 

 

 

 

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