散歩には持って来いの気候になりましたが、東京では緊急事態宣言が延長され解除予定日が2021-5-11から、5-31までになりました。
ゴールデンウィークに向けた恒例の暗闇祭は例年なら5月3日〜6日の間で開催されますが、今年は昨年に続き神事だけの行事となったため、粛々と密やかに終わったようです。
神社・仏閣は正月を除いて行くことはめったにないのですが、公園や博物館・美術館が閉まっていき場を失ったためコロナ平癒を祈願するという目的の元、広い敷地を、写真を撮りながら散策してきました。
大國魂神社の散策はJR府中本町駅からスタートし、京王府中駅までの凡そ850mです。
帰りに京王府中駅で府中名物「くりばやしの餃子」を買って帰りました。
目次
1 府中本町駅側の新西参道鳥居
JR府中本町駅を出て、「ラウンドワン」の建物の上のボウリングのピンを目印に進むと、「府中本町駅入口」信号脇(「ラウンドワン」斜め向かい)に、大きな鳥居があります。
平成29年5月に完成したものですが、今回はここがスタートです。
東京競馬場があるときは競馬ファンでごったがえしていますが、今は無観客でのレースしか行われていないため、閑散としています。
大國魂大神(おおくにたまのおおかみ)を武蔵国の守り神としてお祀りした神社です。
この大神は、出雲の大国主神と御同神で、大昔武蔵国を開かれて、人々に衣食住の道を教えられ、又医療法やまじないの術も授けられた神様で、俗に福神又は縁結び、厄除け・厄払いの神として著名な神様です。
因幡の白兎の話で有名な大国主神(おおくにぬしのかみ)と同神ということですので、島根の出雲大社と同系列になります。
当神社は、大国魂神を武蔵の国魂と仰いで、鎮祭し祀った神社である。
第12代景行天皇41年(111年)5月5日大神の託宣によって創立せられ、武蔵国造が代々奉仕して祭務を司った。其の後孝徳天皇の御代に至り、大化の改新(645年)により武蔵野国府がこの地に置かれて、当社を国衙の斎場として、国司が祭祀を奉仕して国内の祭政を司った。
国司が国内諸社の奉幣巡拝等の便により国内の諸神を配祀したので「武蔵総社」と称し、又両側に国内著明の神社六社を奉祀したので「六所明神」「六所宮」とも称された。
鎌倉幕府以後徳川幕府に至るまで代々幕府の崇敬厚く、再三社殿を造営し、徳川幕府より社領500石を寄進せられた。
明治18年より昭和21年迄官幣小社に列せられ、其の後宗教法人と成る。
2 欅(ケヤキ)の大木
新西参道鳥居を潜って左手すぐのところにあります。
樹高 29m、幹周7.2mの大木です。
3 住吉神社と大鷲神社
それぞれ大阪の本社から分社されたものです。
住吉神社の御本社は、大阪府住吉区にあり、その御分霊をまつっている。祭神の三筒男は神功皇后三韓御征伐の皇軍を守護し給うた神で、海上守護の神、除災招福の神として崇敬せられている。
大鷲神社の御本社は、大阪府堺市鳳北町の大鳥神社でその御分霊をまつっている。
もとは武運を守護する神として信仰されていたが、現在では"おとりさま"と称され開運の神、商売繁昌の神としての信仰があつい。毎年11月の酉の日には、熊手の酉の市として親しまれている。
4 東照宮
東照宮と言えば、徳川家康です。
なぜにここにあるのか、と言えば下記です
元和4年(1618)二代将軍秀忠の命によって造営された。徳川家康公は大國魂神社の西、今の府中本町駅付近に御殿を建て鷹狩りを行っていたなど神社と縁が深く、歿後、駿河国久能山から下野国二荒山に霊輿を遷された時、その途次この国府の斎場に一夜逗留せられ、当社の宮司が祭祀を務めたのでその遺跡を後世に伝える為造営された。平成26年に市指定有形文化財に指定された。
5 大銀杏
落雷によって主幹は高さ5mほどのところで失われていて、支幹が高く成長しています。
6 松尾神社
當神社は寛政12年(1800年)に武蔵國の醸造家の懇請により松尾大社(京都市西京区)より勧請せられた御社であります。
祭神は太古より醸造の守護神と共に開拓の祖神として御神徳高き神であらせられ酒醤油味噌麹等の業者及び開拓関係者の信仰厚く霊験顕著で有名であります。
と、いう訳で、境内には奉納されたお酒が陳列されています。
中身があるかどうか確認し忘れました。
7 さざれ石
平成5年に皇太子殿下(現在の天皇陛下)御成婚記念として奉納された重量4850kgのさざれ石です。
君が代の歌の様に、末永いお幸せを祈ってのものなのでしょう。
8 本殿
律令時代国司が国内の大社六社を一所に勧請祭祀したのが始まりで、当時は武蔵総社、六所社と称していました。
源頼朝以降、歴代将軍家等武家の尊信が熱かったと言います。
現存する本殿は、正保三年(1646)の火事によ全焼の後、徳川四代将軍家綱の名医によって、寛文七年(1667)三月に完成したものです。
その御ハンドか修理を行っていますが、古式を伝えています。
構造は、一間社流造の社殿三棟を横に連結した三間社流造の相殿造です。
流造とは全面の屋根が長く伸びて庇(向拝)となったものです。
流造構造自体は神社の建築様式としては最も一般的な形ですが、三棟合わさった構造洋式は、遺例が少なく珍しいものです。
三棟の社殿は一つ屋根の下にありますが、それぞれ別々の神を祀っでいます。
本殿にかけてあったお参りのやり方どおり、二拝二拍手一拝で拝礼しました。
9 手水舎(てみずしゃ)
これは見事。
江戸彫工の飯田家四代目、飯田勇次郎による獅子や龍、獏や鳳凰等の彫刻が施されています。
取水口は龍になってます。
10 鼓楼
その昔は、時刻や緊急事態を知らせるための太鼓を置いた建物である。寺の鐘楼に対して、神社では太鼓を置くから「鼓楼」と呼ばれる。 慶長年間の造営の際に、三重の塔と相対して建設された。しかし正保3年(1646)の火災で焼失、約200年余後嘉永7年(1854)再建される。
11 髄神門(ずいしんもん)
平成23年に大國魂神社御鎮座壱千九百年事業として改築された。
門は高さ8.5m幅25m、門扉は高さ4.5m幅4.7m。扉一枚は畳5畳分程。国産の檜で製作され、屋根は銅板葺き、木造の門としても希に見る大きさである。正面には随神像、後面には恵比寿・大国が納められている。随神像は大國魂神社氏子青年崇敬会が独自に浄財を集め、東京藝術大学で製作された。俗に右大臣左大臣と呼ばれる「豊磐間戸命」「櫛磐間戸命」という門の神様である。
東照宮と同じように、平和を示す獏の彫り物が門の柱の上に飾られています。
12 大鳥居
正面の大鳥居です。
ここからの参道は長くお祭りでは屋台が並びます。
本来はこちらからお参りするのが筋ですが、今回は裏から入りました。
13 馬場大門(ばばだいもん)のケヤキ並木
馬場大門(ばばだいもん)のケヤキ並木は、東京都・府中市に古代からある神社、大國魂(おおくにたま)神社の参道の街路樹です。境内の北、「大国魂神社前」交差点から、京王線「府中駅」の横を経由して「けやき並木北」までの約600m。およそ150本のケヤキが植えられています。起源については、武蔵国府(奈良時代・平安時代の関東地方を統治した役所)の街路樹、源義経・源義家親子が寄進した説、徳川家康が馬場を整備したときに寄進した説など諸説あります。
14 源義家像
大國魂神社の大鳥居から、京王府中駅へ向かって歩く欅並木の途中にあります。
京都生まれ、幼名は不動丸、または源太丸。7歳の春に、山城国の石清水八幡宮で元服したことから八幡太郎とも呼ばれています。
「全9年の役」では、父親の源頼義とともに、陸奥の国(東北全体)の阿部氏の討伐を行いました。
その後の「後3年の役」でも奥州の豪族・清原氏の内紛を収め、源氏の祖と呼ばれました。
国の天然記念物「馬場大門けやき並木」は、九百四十有余年前、源頼義公・義家父子が奥州平定の「前九年の役」の途次、大國魂神社に戦勝を祈願し、同役平定後の康平5年(1062年)勝利の報宴として、神社にけやきの苗木千本を寄進したことにはじまる。
その後、徳川家康公により、補植されて現在の姿になったが、この場所にあった周囲9mに及んだ大けやきは、頼義公・義家公父子が奉植されたものと伝えられ、ご神木として氏子から敬愛されていた大けやきであった。
その大けやきも、度々の暴風雨と、近くは昭和24年のキテイ台風によって、幹や大枝が折れ、その後、残った幹の空洞内の出火で枯死してしまった。
義家公は、清和源氏に発する河内源氏の嫡流として、7歳の時、石清水八幡宮で元服、よって八幡太郎と号したが、前九年の役・後三年の役で卓抜した武勇をあらわした公の代に、源氏の武威の最盛期を迎えた。
このような大国、武蔵の国の国府であった府中、大國魂神社、けやき並木と源義家公の史実を後世に伝えるため、当時の若さあふれる公の像をこの地に建立するものである。
この「八幡太郎源義家公之像」が府中の歴史を伝え、永く市民各位の心に生き続けることを願いたい。
制作は、高岡市在住、勅許御鋳物師藤原朝臣喜多家第三十代当主の三男、喜多敏勝先生 題字は、財団法人日本書道美術院審査員、鹿島敬帆先生の撣毫による。」
説明は引用が多かったですが、今まで本殿でお参りするだけのために参拝していましたので気が付きませんでしたが、よく見ると見どころ一杯の大國魂神社でした。