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東京街歩き:「解体新書」で有名な杉田玄白の墓

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港区西久保巴町九八 栄閑院には「解体新書」で有名な杉田玄白のお墓があります。

杉田玄白は江戸、江戸・牛込の小浜藩(福井県小浜市)酒井家の下屋敷に生まれました。

元文5年(1740年)には一家で小浜へ移りますが、延享2年(1745年)に藩医で父の杉田甫仙(ほせん)が江戸詰めを命じられたため再び江戸に戻ります。

明和6年(1769年)には父の玄甫が死去し、家督と侍医の職を継ぎました。

明和8年(1771年)3月4日 前野良沢・中川淳庵と、オランダ語医学書『ターヘル・アナトミア』の記載内容を確認するために、小塚原の刑場において罪人の腑分け(解剖)を見学しました。

玄白は実際の解剖と見比べて『ターヘル・アナトミア』の正確さに驚嘆し、オランダ語は読めませんでしたが、これを翻訳しようと良沢に提案し、翻訳が開始されました。

安永3年(1774年)、4年の歳月を経て訳書である「解体新書」は刊行されました。

翻訳のときの様子は杉田玄白自身が書いた『蘭学事始』に詳しく記載されています。


蘭学事始 (講談社学術文庫)

解体新書を前野良沢らと供に七転八倒しながら翻訳していた頃から50年近くが経ち、蘭学蘭学と、もてはやされる時代になったことを感慨深げに語っています。

『ターヘル・アナトミア』の翻訳は、当時の蘭学の知識を大いに発展させました。

この発展の跡を正しく残そうと執筆した書です。

「解体新書」発行に至るまでは実にいろいろな人の知恵が集まって出来た書だということがよくわかります。

辞書もない中での翻訳は大変なものでした。

初本は誤訳が多かったのも致し方ないかと思います。

下の写真が杉田玄白のお墓のある栄閑院の門です。

都史跡 杉田玄白墓
所在 港区西久保巴町98 内
指定 昭和41年3月17日

杉田玄白(1723~1817)は江戸中期の蘭方医、蘭学の祖である。若狭小浜藩の藩医杉田甫仙 の子、名は翼、字は子鳳、号は鷧斎、九幸翁など。江戸に生まれ、西玄哲 に外科、西幸作 にオランダ外科を学んだ。前野良沢、桂川甫周 らとオランダ語解剖書を翻訳した『解体新書』は日本医学史上画期的な文献である。文化12年(1815)に脱稿した『蘭学事始』は『解体新書』翻訳の苦心談を回想した点で有名である。このほか「形影夜話」「野叟独語」などの著書がある。

昭和43年3月1日 建設

古地図をみると、愛宕山の西には、寺がいくつも並んでいます。

字は違いますが、「営閑院」と書いてあるところが「栄閑院」です。

以下に杉田玄白以外で、『ターヘル・アナトミア』の翻訳に係った人たちを記載します。

江戸詰の藩医が多いですね。

江戸で情報交換をしながら最新の医学情報を集めていた様子がうかがわれます。

人名 経歴
前野良沢

(まえの りょうたく)

豊前国中津藩(現在の大分県中津市)の藩医。

小塚原の刑場において罪人の腑分け(解剖)を見学しました。

翻訳作業の中心でしたが、著者としての名は『解体新書』にありません。

桂川甫周

(かつらがわ ほしゅう)

代々将軍家に仕えた幕府奥医師。翻訳作業

随分頭の良い方だったようですが、自分の意志をまげず、人と和合しない偏屈な性向があったようです。

中川淳庵

(なかがわ じゅんあん)

小浜藩の蘭方医を務めた家系。

小塚原の刑場において罪人の腑分け(解剖)を見学しました。

杉田玄白同様、オランダ語は読めませんでした。

大槻玄沢

(おおつき げんたく)

仙台藩医。

『解体新書』は誤訳も多かったため、師である杉田玄白から『解体新書』の改訂を命ぜられ、『重訂解体新書』を文政9年(1826年)に刊行しました。

2014年3月15日(土)~6月15日(日)の間、東京上野の国立科学博物館で、特別展 「医は仁術」を開催していました。

このブログに掲載した、「解体新書」の複製版も展示されていましたが、資料の多くは江戸時代の腑分けの絵図で、ちょっとグロかったです。

 

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