史跡

東京街歩き:溜池櫓台跡、文部科学省構内に残る江戸城外堀石垣

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1        溜池櫓台跡(ためいけやぐらだいあと)

東京都千代田区霞が関3丁目8

地下鉄銀座線・虎ノ門駅近く、文部科学省の外堀通りを挟んで向かいにある溜池櫓台跡(ためいけやぐらだいあと)は、この付近にあった江戸城の外堀縁にありました。

昔の溜池(外堀の一部)の中心は、地下鉄銀座線で一駅、新宿方面に進んだところにある溜池山王駅のあたりです。

溜池櫓台は、溜池一体を見下ろすことができる位置にありました。

溜池櫓台跡(ためいけやぐらだいあと)は、江戸城外堀に3つ設けられた隅櫓(すみやぐら)のうちの1つです。

江戸城隅櫓はいずれも主要な道に面した場所につくられていました。

残る2つの隅櫓は、筋違門(すじかいもん)と浅草門に所在していましたが、どちらも取り壊されており、唯一この石垣だけが現存しています。

ただしこの櫓台も、以前は西側に溜池落口(ためいけおちくち)の櫓がもう1つあり、一対だったようです、

一対の溜池櫓台は、1636年(寛永13年)に因幡鳥取藩(現在の鳥取県)藩主池田光仲によって構築されたという記録が残っています。

かつて、この地点は禁制初期には外桜田門を起点とする小田原堂が通り、溜池上水の起点にもなるなど、江戸城の防備と都市政策の両方にとって重要な地域でした。

地形の上でも、この地点は西側に広がっていた溜池一体を見下ろすことができる位置にありました。

溜池及び周辺の堀は明治時代に埋められましたが、近隣の文部科学省構内には3か所の石垣が残っており、かつての外堀の姿をしのぶことができます。

 

古地図と現代地図を並べるとよくわかります。

現地写真で、石垣の角の所が、堀に突きだしている角(+の印)のところになります。

2        文部科学省構内に残る石垣

外堀通りを挟んで向かい側の文部科学省構内でも、外堀の石垣跡が見られます。

寛永13年(1636)に江戸幕府が全国の大名を動員して築いたものの一部です。

2.1        旧教育会館の石垣

延長9.5mで2段の石垣です。

子の石垣は江戸時代のものではありませんが、石垣下には旧来の石垣が残り、史跡指定されています。

この地点は石田長常が石垣を築いた場所です。

2.2        地下鉄部の石垣

東京都千代田区霞が関。虎ノ門駅11番出口付近。

延長25m、15段程度(高さ約7.4m)の石垣で、ほぼ築城当時の高さを残している。

この地点は、北端を除き毛利高直の築いた場所に該当する。

この石垣は江戸城外堀跡鍛冶橋北側の堀石垣(丸の内一丁目遺跡)から出土した石を利用して修復した。

地上と地下から見られます。地下には展示コーナーが作られ、パネル展示もありました。

正面の石垣は、虎ノ門から続く江戸城外堀の一部です。

この石垣は、寛永13年(1636)に築かれたものですが、部分的に不揃いな積み方があることから、数度も改修されたと考えられます。

石垣表面には石を割った矢穴や構築大名を示す刻印が見られます。

もともとこの堀は、石塁として高さ9mほどの石垣が続いていましたが、現在はその一部が点在して残るだけです。

ここでは、長さ20m、高さ7.4mの石垣をすべて保存したうえで一部埋め戻して、変形をきたした石垣を伝統技法によって旧態に戻す解体修理を実施しました。

この展示室と旧庁舎中庭石垣では、外堀の堀底および推定される水面の高さを表示し、正面の石垣は水面からそびえる石垣の姿を再現しました。

当敷地内には3カ所で石垣を公開するとともに、石垣のラインを表示しました。

これによって、江戸城外堀跡と現代の街区との比較が現地で確認できます。積替の石は同じ外堀の丸の内一丁目遺跡のものを使用しました。

石は主に伊豆から運搬されました。

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