目次
1 虎ノ門の跡
虎ノ門の地名は、江戸城にあった36の門のうち、「寅」の方角(北東)の門である「虎御門」に由来します。
門は江戸城の外堀にあり、江戸時代初期には日比谷入り江(江戸湾)に面していました。
現在は門の跡形はありませんが、港区虎ノ門一丁目交差点脇に、虎ノ門遺址があります。
小さな虎のブロンズ像が上に鎮座しています。
【碑文】
「1952(昭和27)年9月、町の名前が今入町から虎ノ門に改称されて3周年になったのを記念して地元町内会の「虎ノ門会」が建てた。
虎ノ門の由来は、江戸城にあった36の門のうち、「寅」の方角の門だったことによる。
江戸時代には立派な渡櫓がある門だった。
1923(大正12)年の関東大震災による火災とその後、2度にわたる区画整理が実施され大通りができ、太平洋戦争による空襲で再び町が焼けたことから、堀も虎ノ門そのものも、今はない。
戦後、復興を成し遂げた虎ノ門会の人々が「往時を偲ぶ一片の石」として石碑を建て、
石碑の上に石造りの虎を置いた。
古地図と重ね合わせると、虎ノ門駅の場所が、虎御門の位置と同じ所にあるのが分かります。
地名の由来となった虎御門
外堀に架かる橋ではありますが、橋の長さは外堀の幅の1/4程度しかありません。
堀と言うより、川の様でもあります。古地図では築地川に繋がっています。
この水の流れは現在どうなっているのでしょうか。
1.1 虎ノ門事件
1923年(大正12年)12月27日、皇太子裕仁親王(後の昭和天皇、当時22歳)が自動車に乗り通過中、群衆の中にいた男が警戒線を突破して接近し、ステッキ仕込み式の散弾銃で狙撃しました。
事件のあった場所は、虎ノ門遺址の道を挟んで反対側にあります。
銃弾は皇太子には命中しませんでしたが、車の窓ガラスを破って同乗していた東宮侍従長・入江為守が軽傷を負いました。
男は逮捕された後、大逆罪で起訴され1924年(大正13年)11月13日に死刑判決を受け、11月15日、死刑を執行されました。
この事件の背景には、関東大震災後の社会不安や、労働運動弾圧に対する社会主義者達の反発がありました。
幸徳秋水らが処刑された事件も明治天皇暗殺計画が発覚し逮捕されたものですが、戦前は、天皇家に対する暗殺計画はたとえ未遂に終わっても極刑になりました。
2 虎ノ門ヒルズ
虎ノ門を代表する建物として「虎ノ門ヒルズ」があります。
2021-5-13放送のTBSプレバト・水彩画の査定では
ナイツの土屋伸之が、この虎ノ門ヒルズの絵を描いていました。
作品名は「ラスボスの待つ巨頭」 アンミカがヒルズの最上階に住んでいるのを想像して描いたそうです。
このビルの直下には環二通りが走っています。
こんな大きなビルの下に主要道路とは驚きです。
3 虎ノ門病院
国家公務員共済組合連合会の中核病院です。
よく聞く名前ですが、普通の病院です。
都心にあり便が良いので、名前が売れているのでしょう。
4 虎ノ門・金刀比羅神社
古地図を見ると、虎御門の南に讃岐国丸亀藩・京極佐渡守朗徹の屋敷があります。
京極 朗徹(きょうごく あきゆき)は、丸亀藩7代(最後の)藩主です。
金刀比羅宮(本宮)は讃岐の象頭山に鎮座しています。
虎ノ門の金刀比羅宮は万治三年(1660年)に藩主であった京極高和が、御分霊を当時藩邸があった芝・三田の地に勧請し、延宝七年(1679年)、京極高豊の代に現在の虎ノ門に遷座しました。
342年の時を経て、現在、この神社の隣には高層オフィスビルの虎ノ門琴平タワーが建ち、同じ敷地内に高層ビルと神社が併存する、不思議な光景が見られます。
社務所は虎ノ門琴平タワーの1Fにあります。