桜田門近くの井伊家上屋敷跡(議事堂前公園)から内堀通りを北に数分歩くと、最高裁判所にたどりつきます。ここは三河田原藩跡です。
古地図をみると、35万石の井伊藩の北側に1万2千石の田原藩(愛知県田原市)があります。
現在の、最高裁判所と国立劇場の場所です。
目次
1 三宅坂交差点
井伊家上屋敷跡から内堀通りを北に向かうなだらかな上り坂が三宅坂です。
三宅坂は田原藩主である三宅家に由来します。
三宅坂交差点の内堀側からはす向かいに最高裁判所を見たところ。
北から南方面を見たところ。
なだらかな坂の様子が分かりますか?
2 渡辺崋山生誕の地の掲示 (三宅坂小公園)
三宅坂交差点の最高裁判所側の角にあります。
平和女人像は、1950年に日本電報通信社(現・電通)によって広告記念像として建立されたものということです。
像の裏にはひっそりと渡辺崋山誕生地の掲示板が立っています。
渡辺崋山は1793年(寛政5年)に、かつてこの場所にあった、田原藩(現在の愛知県)の上屋敷で生まれました。江戸時代後期の政治家として藩政改革や海防政策に業績を残す一方で、画家としても先駆的な功績を遺しました。
崋山は名を定静(さだやす)通称を登といいます。はじめは華山(くさかんむり)、のちに崋山と号しました。
1809年(文化6年)、16歳の時に絵師の金子金陵に入門し、後に谷文晁に学んでいます。崋山の画風は西洋画法を取り入れたもので、新に迫った肖像画や写実的な花鳥図、軽妙な筆による風景画のスケッチなどを得意としました。18歳の時には、儒学者の佐藤一斎に指示し、蘭学を中心とする幅広い分野の学者で結成された「尚歯会」にも参加しました。
1839年(天保10年)に執筆した「慎機論」で幕府の対外政策を批判したため、蛮社の獄で捕縛され、国許の田原での蟄居を命じられます。
その2年後、48歳で自決し、生涯を閉じました。
自刃の地、愛知県田原市は 「渡辺崋山 自刃の地 愛知県田原市池ノ原公園と田原城」 でレポートしています。
14年前の2007年8月の看板はこんな感じで、字もにじみ、申し訳程度に立っていただけなので凄い進歩です。
3 最高裁判所
フジテレビの『イチケイのカラス』は最終回を迎えてしまいましたが、法廷の様子は何度も放送されたため、裁判所も近づきがたい所から、急に親近感のある場所に変わりました。
中に入ることができないと思っているひとは多いと思いますが、実は、最高裁判所の庁舎見学は定期的に行っています。
ここからは、2007年8月6日に「親子見学会」に参加した時の写真です。
3.1 大法廷
15人の裁判官で判決が下されます。ここが見学の目玉です。
大法廷の天井です。
3.2 小法廷
第一~第三小法廷と三つあります。裁判官は5人います。
事件の難しさで、多数の裁判官の判断が必要と思われる場合は大法廷で判断されますが、普通は小法廷で結審されます。
3.3 大ホール
正面玄関からまっすぐ階段を登ると,幅18メートル,奥行き49.5メートル,床面積890平方メートルの大ホールがあります。
大ホール写真の右手には女神のブロンズ像があります。
良く考えずに撮影したため、剣の部分が切れてしまいました。
左手に持つ天秤は弁護士さんが胸につけている徽章の中心にあるマークです。
4 国立劇場
歌舞伎・日本舞踊・演劇が演じられる大劇場です。
昔、ここで小学生を対象とした歌舞伎講座があり、子どもと一緒に参加したことがあります。
歌舞伎と言えば、銀座の歌舞伎座ですが、こちらはどちらかというと歌舞伎等の伝統芸能普及のための活動を行っています。
田原藩は1万2千石の小大名でしたが、こうして跡地を見ると、江戸城脇の一等地に(現代人の目からすると)広々とした敷地を拝領していたことが分かりました。