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武田と徳川が対峙した長篠城址

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長篠城は、戦国時代、武田と徳川が国堺の拠点として奪いあった城でした。

特に、大量の鉄砲と馬防柵を使った織田・徳川軍と武田の騎馬隊が対峙した設楽原の戦いの前哨戦としての武田の長篠城攻めは有名です。

GWには毎年長篠のぼり祭りが開催され、火縄銃のデモを行う日があります。

 

1        歴代城主

 

支配者 城主 年代 説明
今川 菅沼元成

 

菅沼俊則

菅沼元直

1508 永正5 ・今川氏親の部将として、ここに城を築く。

それより長篠菅沼氏とよばれた。

・山家三方衆――奥平氏  作手村

田峯菅沼氏 設楽町田峯

·長篠菅沼氏 鳳来町長篠

徳川 菅沼貞景 1561

1569

永禄4

永禄12

・今川義元死後、松平元康 (家康) に属する。

・徳川家康にしたがい掛川城 (今川氏・静岡県) を攻め、 貞景は天王山で戦死。

武田 菅沼正貞 1571 元亀2 ・天野景貫 (静岡県犬居) 秋山信友(長野県伊那)に攻められて降参、 武田信玄に属する。
1572 元亀3 ・武田軍山県昌景に属し三方原の戦いに参加。
1573 元亀4

天正元年

・信玄死去 (4.12) 徳川家康長篠城奪回(8月) 正貞は徳川へ内応の疑いで信州小諸(長野県)に入牢。 (奥平氏は武田軍より離脱、 徳川氏へ走る。)
徳川 奥平貞昌 1575 天正3 ・家康、 奥平貞昌を城主に任命 (2月) 城兵500人、 武田勝頼 (1万5千人) 長篠城包囲攻撃設楽原決戦 (5.21)
1576 天正4 長篠城をとりこわし、 新城市へ移築

 

2        帯郭あたり

内堀と外堀の間には帯郭と呼ばれる帯状の平地があります。

城は3方が川という自然の防御用の堀があり、唯一外部に対して手薄な方向に人為的に作られたのが内堀と外堀です。

要害の長篠城

要衝(ようしょう)

長篠の地は豊川をさかのぼって約二五Km、長野県、静岡県北部に通じる道中にあり、このあたりから平地は山に移っていく。

江戸時代の豊川舟運も長篠城を越えるところで終点になる。

戦国時代、武田軍と徳川軍がこの城を奪いあったいわゆる境目の城であった。

 

要害(ようがい)

長篠城の南面は宇連川、西は豊川、ともに五〇mの断崖である。

なお本丸の西北は矢沢の険しい谷である。

平地への面を水堀と土居、そして外郭は又は屏で囲んだ。

平地へ移ってきてもできるだけ天険を利用した戦国末期の典型的な築城である。

 

土居と堀(どいとほり)

この正面に見えるのは、本丸の土居と堀で天正三年の姿を残している。右手に門と土橋があり、続いて土居と堀が伸びていたが江戸時代に崩れされて今はない。

畑の土はかき上げられて土居にした。

堀には水を引き入れた。

土居と堀は直線に進まず直線に近い出入りがある。

この形はやがて近世の城郭へ移り変る姿を見せている。

 

本丸周辺の内堀跡

3        本丸跡

虎口から、本丸跡へ入ります。

本丸周辺の土塁。

背面は険しい川の断崖ですので、外敵の侵入は難しく、土塁は川の反対の虎口側に盛られています。

昔、吉川英治原作の映画「鳥居強右衛門」を見ました。

磔になった鳥居強右衛門が槍でぶすっと刺されて絶命するシーンに涙しましたが、今年(2023)の大河では、岡崎体育がこの役をやるようです。

久しぶりの強右衛門は楽しみです。

磔に散る烈士 鳥居強右衛門

五月十四日、武田軍は総攻撃をしかけた。

城中の食料はあと四、五日分だけ。

その夜、鳥居強右衛門は、徳川家康へ救援を依頼する使者として長篠城を抜けでた。

梅雨の時、増水の寒狭川へおりて豊川をくだること四km。

十五日朝かんぼう山で脱出成功の狼煙をあげ、岡崎へ走った。(長篠岡崎は50㎞)

岡崎には援軍の織田信長も到着していた。

家康、そして信長の前で城の危急を訴えまわりの人々も感動した。

使命を果たして、休養をすすめられたが、彼はすぐ引き返した。

十六日の朝、再びかんぼう山で「援軍きたる」の狼煙三発。

そして長篠城の対岸まできたが厳重に警戒する武田軍に捕えられた。

武田軍から「援軍はこない城を開け、武田軍は厚くもてなす」と呼ばるよう説得されて長篠城二の丸近くに立った。(この時城は本丸と二の丸だけ残る)

しかし「援軍はくる。 この眼で見てきた、あと二、三日、堅固に守れ」とさけんだので、対岸の篠場野の地で磔にされた。

強右衛門その時三十六才

十八日、織田、徳川三万八千の軍は設楽原に到着して陣をしいた。

 

磔死の碑は、本丸から川を挟んで対岸にあります

写真では影が見えるだけですが・・・。

城の南側にあった野牛郭跡には、空き家が1軒ありました。

4        長篠城周辺

設楽原の戦闘前後の長篠城周辺。

徳川方の酒井忠次達が、右側の武田勢の背後に布陣しているのが分かります。

合戦はまず酒井忠次達が攻めかかって始まりました。

五月二十一日の夜明け、徳川軍の酒井忠次は東三河の将を率い 長篠城監視のために残留した武田軍の五つの砦を奇襲した。

この時、設楽原方面に進出していた武田勝頼は、背後の鳶が巣砦方面の火の手と銃声に驚き本隊に戦闘開始を指令した。

五つの砦を守る武田信実以下は激しく戦ったが指揮官のほとんどが討ちとこれ残兵は「長走り」の瀬を渡って本隊に合流しようとした。

その前夜、酒井忠次たち将士は大雨の中を豊川渡河「舟着山」の裏をまわり五つの砦の背後の山中に潜み夜明けを待っていたのである。

 

5        長篠城址・史跡保存館

長篠城に関わる資料と遺物が保存されています。

 

長篠合戦図屏風

「長篠城」と鉄砲

「長篠の戦い」と聞くと、多くの方は今でも「織田・徳川連合軍が鉄砲と馬防柵で武田騎馬隊を迎え撃つ」場面を想像されると思います。

これは長篠城での出来事ではなく、長篠城を救出に来た織田信長・徳川家康と、 城を攻撃していた武田勝頼が決戦を行った際のことで、 長篠城から約4km離れた設楽原で行われました。

それでは、 長篠城では鉄砲はどのように使用されていたのでしょうか?

長篠城主であった奥平家の記録では、 長篠城が包囲された際、 武田軍が城の外から地面を掘り、土塁を崩そうとしていたのを城内の奥平軍が察知、 その場所へ城の内側から逆に地面を掘り進み、敵に鉄砲を撃ちかけて撃退したこと、 武田軍が井楼 (移動式のやぐら)を組んで城を攻撃した時に、 城内より鉄砲や大筒 (異風筒とも大砲のことか) を使用して反撃、 多数を死傷させたことなど、 城の防衛に鉄砲を活用していたことが記録されています。

また、 武田軍も長篠城を攻撃する際に鉄砲を使用しており、銃撃で城内の今泉内記が死亡、 後藤助左衛門が負傷したことが記録されています。

さらに、城跡からは鉄砲の弾丸が多数発見されています。 このように、 長篠城においても鉄砲は巧みに使用され、 攻防戦に重要な役割を果たしていたことがわかります。

※ 「符牒余録」 巻二七 松平下総守 「奥平家記録」 及び 「奥平家伝記」

 

鳥居強右衛門城脱出の図

「新城」の始まりと亀姫・ 奥平家

奥平信昌と奥平家

天正3年(1575) 設楽原の戦いで、 長篠城主であった奥平貞昌は、家臣である鳥居強右衛門等の決死の働きにより城を死守した。

この功績により、 翌年貞昌は、 信長から一字をもらい信昌と改名し、 郷ヶ原に新城城を築いた。

同年12月、 信長のとりなしで家康の長女、 亀姫をめとり、 4男1女をもうけた。 信昌の新城築城は、 現在の中心市街区を形成する基礎となり、 「新城」 の地名の由来にもなっている。

奥平家のふるさとは群馬県吉井町下奥平である。 8代貞俊の時、 作手村に移り、 12代貞能、 13代貞昌は、 今川、 徳川、 武田に属しながら戦国の世を生きのびた。

設楽原の戦いを経て、 新城城主となった奥平信昌 (貞昌) は、 天正18年 (1590) 家康の関東入国と同時に上州宮崎 (群馬県富岡市)に移り、その後、初代京都所司代となり、慶長6年(1601) 岐阜加納10万石の大名となった。

加納では、城下の整備や治山治水事業につとめ、元和元年 (1615) 61歳で死去した。

加納奥平は3代で絶えたが、 宗家にあたる宇都宮奥平は家昌・忠昌・昌能・昌章と続き、 昌成のときに豊前国中津10万石の大名として迎えられた。

藩主は、 昌成・昌教・昌鹿・昌男・昌高・昌暢・昌猷・昌服・昌邁と続き、 最後の昌邁は華族令の施行により、 明治17年伯爵に任ぜられた。

大分県中津市の奥平神社では、毎年5月21日に奥平家の子孫が、 信昌の長篠籠城を偲び、 「たにし祭」 を行っている。

 

亀姫屋敷の門

長篠の戦いの翌年(天正四年1576)奥平信昌(貞昌)夫人として輿入れした亀姫(徳川家康の長女)

の屋敷の門である。

解体保存されていたがここに復元して展示した。

柱・扉はクスノキが使われている。

 

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