史跡

戦国時代の城跡・石神井公園、勝海舟邸の門が移築された三宝寺

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石神井公園は、西部池袋線・石神井駅から南西方向に徒歩7分、西側の三宝寺池と東側の石神井池の形は、江戸時代から変わっていません。

この池を中心とする一帯が公園として保存されたことにより、昔ながらの武蔵野の自然がそのまま残り、公園の中心に立つと都会の中にいることを忘れさせてくれるくらい緑豊かな場所です。

1        三宝寺

石神井公園に行く前にまずは三宝寺に立ち寄りました。

このお寺は石神井公園の南側にあります。

三宝寺

三宝寺は、江戸時代には山号を亀頂山といい、不動明王を本尊とする真言宗智山派の寺です。室町時代の応永元年(1394)、権大僧都幸尊が開山したと伝えられています。文明九年(1477)石神井城 落城の後、石神井池南方台地上の現在の野球場周辺から現在地に移ったといわれています。

戦国時代には小田原北条氏、江戸時代には徳川氏から保護を受け、近くに数十の末寺をもち、府内八十八か所巡りの第十六番札所となっていました。二度の火災で、焼失したものもありますが、優れた仏像や絵画などを、今でも数多く所蔵しています。

また、山門は、三代将軍徳川家光 が狩りをしたとき、ここを休憩所としたことから「御成門」と呼ばれるようになったと伝わります。山門東側の長屋門は、勝海舟 邸の屋敷の門を移したものといわれています。

なお、次の練馬区指定・登録文化財が所在しています。

練馬区指定文化財

○三宝寺の梵鐘 一口(鐘楼に吊られているもの)

練馬区登録文化財

○弥陀三尊来迎画像板碑 一基(子育千体地蔵堂に保管)

文明四年(1472)銘。来迎画像が描かれている。

○三宝寺山門 一棟

○永享八年の夜念仏板碑 一基(子育千体地蔵堂に保管)

永享八年(1436)銘。国内最古の夜念仏板碑。

平成二十八年三月

練馬区教育委員会

1.1         山門

立派な山門です。三宝寺で一番古い建物で、築200年以上です。

重厚な造りの四脚門で、主柱や控柱は上下を細め、肩を丸めた粽(ちまき)付き円柱。頭貫の獅子、像や獏(ばく)の彫刻などに、江戸時代後期の特徴が示されている。

よく見ると、柱の上に獏の彫刻が見えます。

江戸時代の寺院には平和を願う獏の彫刻を施したものが多いです。

御成門

寛永2年(1625)及び正保元年(1644)に、徳川家光が狩猟の際、當山が休憩所とされたので、この山門を御成門と称するようになった。

江戸時代には、平常は門扉を閉ざして庶民の通行を禁じていたといわれている。

棟札に記されたところによれば、當山第23世宥泉和尚が、布施物を蓄積して再建したものである、という。

文政10年(1827)7月26日に成り、二度の火災にもその難を免れ、當山第一の古建築であるばかりでなく、當地方稀に見る傑(すぐ)れた山門である。

昭和28年(1953)本堂完成と共に修覆の工を終えた。

 

1.2         本殿

本殿前の手手水に近づくと、突然水が湧いてきました。

神のなせる業か、と思いましたが、上部に赤外線センサーが設置してありました。

1.3         梵鐘

1.4         長屋門(勝海舟邸の門)

もとは勝海舟邸の門でしたが、移築されたものです。

通用門

練馬区旭町兎月園にあった勝海舟邸の屋敷門が、所有者の明電舎の事情により、取壊しの処分を受けるに際し、当時の練馬区長 須田操氏の斡旋で、当山に移建された。

昭和三十五年(一九六〇)十一月、新井工務店によって解体移建された。”

 

門には「海舟書屋」の扁額(へんがく)がかかっています。

勝海舟は長く赤坂氷川に住んでいました。

もともとはそちら (港区赤坂6丁目6番14号)にあったものだと思われます。

赤坂の旧邸跡は 「東京街歩き:勝海舟旧邸跡、赤坂氷川神社 赤穂藩浅野家屋敷はここにあった。」 で報告しています。

2        石神井公園

2.1         石神井池

ここは一体どこ?  尾瀬沼に行ったみたいです。(行ったことなないのですが)

蓮が凄い。池全体に広がっています。

2.2         三宝寺池

2.3         石神井城跡

石神井城の中心内郭跡(ないかくあと)

石神井城は、平安時代末期から室町時代中期まで、現在の台東区、文京区、豊島区、北区、荒川区、板橋区、足立区、練馬区などやその周辺地域に勢力を持っていた豊島氏の居城の一つです。

城の築城は、鎌倉時代後期と考えられ、文明9年(1477)4月28日に太田道灌(おおたどうかん)に攻められ落城し、廃城になりました。「太田道灌状」によれば、最後の城主豊島泰経(としまやすつね)は、石神井城落城の後、平塚城(北区西ヶ原)に敗走し、その翌年の1月25日、再び道灌に攻められ小机城(横浜市)に逃げています。その後の泰経の足どりは、記録として文献には残っていません。

城は、石神井川と三宝寺池に挟まれた台地に築かれており、全体では9ヘクタール前後の規模であったと推定されています。当時の城は、土塁(どるい)と壕(ほり)で土地を四角形に区画した場所(郭(くるわ))をいくつか築き、防御施設としていました。例えば、城の東側は、ここより約100メートル程の場所に幅7メートル程の壕で区画されていたと考えられ、西側は、ここより約220メートル程の場所に幅9メートル程の壕と土塁で区画されていました。また、北側と南側は、三宝寺池と石神井川という自然の地形を利用して防御されていました。

この場所は、本城の中心となる郭で、土塁と壕が良く残っています。昭和42年の発掘調査では、次のような規模の郭であることが分かりました。

空壕 上幅 11.6メートル

底幅 3メートル

深さ 6.1メートル

土塁 基底幅 12.3メートル

現在高 2.3メートル

(築城当時の高さ推定4.5メートル)

また、内部は平坦であり、陶磁器片、かわらけ(素焼土器)、鉄釘なども出土しており、何らかの建物があったと考えられます。

この地域は、右のように壕と土塁が良く残っている大切な場所です。少しでも永くこの状態が残せる様、皆様のご協力をお願い致します。

東京都

 

石神井城史跡の碑です。

石神井城跡

石神井城は、中世武士の豊島氏の城です。

豊島氏は、葛西、江戸両氏とともに、秩父流平氏で、鎌倉時代の末には、石神井郷を領有していました。

室町時代に、城主の豊島泰経(としまやすつね)は、武蔵守護の上杉顕定にそむいた長尾景春に味方しました。そのために顕定を援助していた江戸城主の上杉定正の重臣の太田道灌は、文明9年(1477)4月、この城に泰経を攻めて、これを落しました。

石神井城は、中世の平城の一つで、三宝寺池の谷と石神井川の低地とに挟まれた小高い丘陵の上にあって、その周囲は空堀や土囲(どい)でめぐらされていました。

今でも空堀のあとの一部を見ることができますが、落城によって照姫が水中に身を投げたという伝説など数々の哀れな物語を秘めています。

昭和58年3月 練馬区教育委員会

 

2.4         殿塚

殿塚も姫塚も、後世の人が後から建てたもので墓ではないようです。

殿塚の由来

文明九年(1477)石神井城が上杉氏の軍将太田道灌 との戦いに敗れて落城したときに、城主豊島太郎泰経 は黄金の鞍をつけた愛馬に乗り三宝寺池に沈んだという伝説があります。この塚は縁者が徳をしのんで築いたといわれています

また、これより西方三〇メートルのところに、落城のとき同じく三宝寺池に身を投げた城主泰経の二女照姫 供養の姫塚があります。

平成元年 四月

練馬区教育委員会

2.5         姫塚

 

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