博覧強記

東京街歩き:勝海舟旧邸跡、赤坂氷川神社 赤穂藩浅野家屋敷はここにあった。

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幕末に幕臣として、江戸城を無血開城へと導いた勝海舟(1823-1899)は、1846年には本所から赤坂田町に移り、更に1859年から1868年まで赤坂氷川町に移り9年間住んでいました。一時期、徳川慶喜に付いて静岡に行きますが、再び上京すると、1872年から没年の1899年の27年間 赤坂氷川の地に住んでいました。

古地図の上の方にある浅野 斉粛(あさの なりたか)は、安芸国広島藩の第9代藩主です。
赤〇は徳川家の家臣柴田七九郎の屋敷ですが、維新後に勝海舟は柴田七九郎から屋敷を買い取りました。

柴田七九郎の屋敷はさらにさかのぼると、元禄の頃(1688~1704年)には赤穂藩浅野家の屋敷でしたが、1701(元禄14)年に藩主浅野長矩が江戸城松之廊下で刃傷沙汰を起こしたため召し上げとなっています。

旧邸には記念の碑が建っていますので、界隈を歩いて探索してみました。

1        勝海舟邸

古地図には青〇(港区赤坂6丁目10番39号)と、赤〇(港区赤坂6丁目6番14号)を入れてあります。

この2か所が勝海舟の住んでいたところです。

現代地図を見てもこの辺りの通りはほとんど変わっていません。

1.1         勝海舟邸(1859-1868)跡  (港区赤坂6丁目10番39号)

勝海舟邸跡の記

港区赤坂6丁目10番39号の「ソフトタウン赤坂」が建つこの地は、幕末から明治にかけて、幕臣として活躍した勝海舟 が安政6年(1859)から明治元年(1868)まで住んだ旧跡である。

海舟は終生赤坂の地を愛し、三カ所に住んだが、当初居住中の10年間が最も華々しく活躍した時期に当たる。

海舟は号で、名は義邦。通称麟太郎、安房守であったから安房と称し、後に安芳と改めた。夫人は民子。

海舟は文政6年(1823)、本所亀沢町の旗本屋敷(現墨田区両国4丁目の両国公園の地)で、貧しい御家人の子として出生。

長じて赤坂溜池の筑前黒田藩邸(のちの福吉町、現赤坂2丁目の赤坂ツインタワービルや衆議院赤坂議員宿舎などの地)に通って蘭学を学び、その縁から新婚23歳で赤坂田町中通り(現赤坂3丁目13番2号のみすじ通り)の借家で所帯を持った。

36歳からは赤坂本氷川坂下(もとひかわざかした、のちの氷川町)のこの地に住んだ。

明治元年45歳で、引退の徳川慶喜に従って、ここから静岡市に移ったが、明治5年(1872)再び上京し、満76歳で亡くなるまで赤坂区氷川町4番地(現赤坂6丁目6番14号)に住み、参議・海軍卿、枢密顧問官、伯爵として顕官の生活を送り、傍ら氷川清話などを遺した。この時の屋敷跡は東京市に寄付され、平成5年(1993)春まで区立氷川小学校敷地として使われた。

当所に住み始めた翌年の安政7年(1860)、幕府海軍の軍艦頭取(咸臨丸 艦長)として、上司の軍艦奉行木村攝津守、その従僕福沢諭吉 らを乗せ、正使の外国奉行新見豊前守を乗せた米艦ポーハタン号に先行して渡航、日本の艦船として初めて太平洋横断・往復に成功した。

文久2年(1862)11月、海舟を刺殺しようとして訪れた旧土佐藩士坂本龍馬 らに、世界情勢を説いて決意を変えさせ、逆に熱心な門下生に育てて、明治維新への流れに重要な転機を与えることになったのもこの場所である。

明治元年3月には、幕府陸軍総裁として、官軍の江戸城総攻撃を前に征討総督府参謀西郷隆盛 と談判を重ね、無血開城を決めて江戸の町を戦火から救った。

第1回会談は高輪の薩摩藩邸(品川駅前の、のちの高輪南町、現港区高輪3丁目のホテルパシフィックの地)で行われた。第2回については芝田町薩摩藩邸(のち三田四国町、現港区芝5丁目芝税務署辺りの地)または、三田海岸の薩摩藩蔵屋敷(くらやしき=倉庫)の表側にある民家(現港区芝5丁目の三菱自動車ビル周辺)で行われたとの両説がある。

いずれも当所居住中のことである。

明治維新では、明治元年5月、海舟の留守中に一部の官軍兵士がここの勝邸に乱入したが、海舟の妹で佐久間象山未亡人の瑞枝(旧名・順)が家人を励まして一歩も引かずに応対し、危急を救った。

海舟は終生赤坂の地を愛したが、郊外の風光にも惹かれ、初めは葛飾区東四ツ木1丁目に、次いで洗足池畔の大田区南千束1丁目現大田区立大森第六中学校の地に別邸を設けた。

墓は洗足池に面して作られ、自ら建てた西郷隆盛を偲ぶ碑と共に大田区文化財に指定されている。

平成7年11月吉日

ソフトタウン赤坂管理自治会

撰文 伊波 新之助

協賛 勝海舟顕彰会

協力 港区郷土資料館

1.2         勝海舟邸(1872-1899)跡  (港区赤坂6丁目6番14号)

「明日に向かって」

勝海舟·坂本龍馬の師弟像

この地は、勝海舟が1872年(明治5年)から1899年(同32年)に77歳で亡くなるまで27年間住んだ屋敷のあった場所です。 海舟は、明治維新後 旧幕臣の代表格として維新政府の要職に在り協力していました。坂本龍馬との係りは海舟が幕府の要職に付いていた頃(海舟37歳~46歳)で、 龍馬 (26歳~31歳)は海舟を師と仰いで慕い緊密な交流があったようです。

この交流の始まりは、海舟が威臨丸での渡米、帰国後幕府軍艦奉行就任の1862年(文久2年)海舟39歳のとき、龍馬が海舟を斬ろうと面会を申し入れ逆に感化され、 海舟の門人となり身辺警護をかってでたことからと言われております。

当時、日本国の未来を見据え大意を進めるに当って海舟と龍馬とは相反する体制下にありながら、改革を行うことが出来たのは海と繋がっている広い世界を観る目、日本国を取り巻く世界情勢の中で日本のゆくえについて日本人が一体となって事に当らなければならないことを教えたと伝えられています。

また、海舟は軍艦奉行に就いていた 1864年2月(文久4年)英・仏・米・蘭4ヶ国艦隊の下関砲撃の中止交渉を幕府から命じられ、神戸から九州の豊後街道を通り長崎まで旅をしています。

この旅に海舟は自らが主催する「神戸海軍塾」の塾生だった龍馬らを同行させています。

重責を担って旅する海舟にとって龍馬に日本国の行く末を教える機会の旅であり、 当時の欧米の植民地政策の過の中にあるこの国の現状をつぶさに語り合い、後の薩長同盟、大政奉還、江戸無血開城へと繋げていったと考えられます。

海舟、龍馬の生きた19世紀末と21世紀の今をとりまく時代状況は比較にならないくらい違ってきていますが、 彼らの明日を切り開いて行く強い志とエネルギーを、 宇宙船地球丸に乗っているこれからの時代を担う世代に伝えてゆくシンボルとしての銅像でありたいと願っております。

銅像の細部を見て頂くと、 海も龍馬も視線は、明日に向かって海のかなたに広がる世界を向いています。 また、 海舟の刀の鍔(つば)に下緒(刀のさやを帯に巻くための紐) を絡めて刀をぬけないようにしています。 剣術の達人でありながら、当時の風潮を憂い何事にも対処するに当って刀を絶対に抜かないとの心がまえを表しています。

 

勝海舟坂本龍馬の師弟像を建てる会

 

この銅像の建立にあたっては、 「勝海舟坂本龍馬の師弟像を建てる会」の呼びかけに赤坂をはじめとする全国のみなさまからのご支援ご協力を頂き、彫刻家 山崎和国氏に製作をお願いし2016年9月 (平成28年)完成建立し港区に寄贈しました。

 

2        氷川神社

赤坂氷川の地名は、近くにある氷川神社に由来します。

刃傷沙汰を起こしたため召し上げとなった赤穂藩浅野家の屋敷の東部には浅野長矩夫人遥泉院の実家である三次藩浅野家の屋敷がありました。

この跡地に1729(享保14)年、古呂故が丘(現在の赤坂四丁目)から赤坂氷川神社が移転してきました。

雨の中、結婚式を行っていました。

3        氷川清話

晩年、海舟が赤坂氷川の自邸において、人物評、時局批判等を「氷川清話」のなかで、自由奔放に綴っています。

氷川清話 (講談社学術文庫)


氷川清話 付勝海舟伝 (角川ソフィア文庫)

読んだ感想です。

⻄郷を褒めあげる事しきり。江⼾城無⾎開城の談判で勝海⾈が芝、⽥町の薩摩屋敷に出かけた時も、勝に対する敬意を失わず、談判の時も終始座を正して⼿を膝の上に乗せ、少しも戦勝の威光でもって敗軍の将を軽蔑することがありませんでした。

江⼾城の無⾎開城は⻄郷なくして成しえませんでした。

西郷さんの人柄がにじみ出ています。

また、その後を引き受けて東京の反映する基を開いたのは⼤久保の功績だとしています。

明治10年に起った⻄南戦争後の記述ではありますが、勝を始め⻄郷を悪く思うものはなかったということです。

勝⾃⾝については、全く武⼠らしくなく、半分は町⼈⾵というイメージを持ちました。

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