塩原温泉の観光で、源三窟と塩原八幡宮を訪れました。
二つとも温泉街から離れておらず、市街から車を使うと5分以内で行けます。
源三窟は伊藤園ホテルの目の前にありました。
目次
1 源三窟
源三窟は、鍾乳洞ですが、看板には史跡とあります。
それは、源氏の隠れ岩屋という史実があるからです。
鎌倉時代、源頼朝に追われた源義経の盟友・源有綱が、再起を図って郎党と一緒に隠れていたとパンフには書かれています。
しかし、実際のところ伝承にすぎません。
源三窟は南と北の道路の間に位置します。
北の塩原街道方面から向かうと、広い駐車場があり、そこから長い階段を上って行きます。
南側の道路からは、階段は下りが少しあるだけなので、脚の悪い人は南側に回ると良いと思います。
階段の入口には立派な門があります。
樹齢およそ150年の夫婦欅(けやき)の原木の形を生かした丸太の柱です。
名前の由来は源有綱の祖父源三位頼政の「源三位」から来ているということでした。
しかし、源頼政自体は、平時の乱以降、平家の専横に不満が高まる中で、後白河天皇の皇子である以仁王と結んで挙兵を計画しました。
しかしながら、計画が露見して平家の追討を受け、宇治平等院の戦いに敗れ自害しています。
そのため、この鍾乳洞と係わりがあったとは思えません。
ただ、清和源氏としては突出した高い位の従三位を朝廷から叙せられたとのことです。
由来については、併設の武具資料館に由来に纏わる資料がありました。写真も後の記事に添付しましたので興味のある方は読んでみてください。
私も読んでみましたが、よく理解できませんでした。
このホワイトボードの系図を使って、入洞前に、おじさんが説明してくれました。
有綱は義経の娘婿との説明でしたが、有綱と義経は年齢も近いため、有綱の妻は義経の養女の可能性が高いようです。
これが、源三窟の入口です。
入洞してすぐに、一休さんの像がお出迎えしてくれます。
有綱とその郎党は、洞の中で米を研いでいたため、そのとぎ汁が川に流れて、追手に捕縛されたとされていますが、こんなに水量の多い地下水に少しの研ぎ汁を流したからと言って、追手に気づかれるとは思えません。
よっぽど鼻の効く人が、洞の外にいたのでしょうか。
当時は米のほか稗や粟を主食とし、とくに山間地で痩せ地でもあった塩原は、稗、粟が作物の中心であったと推測されるが、村人たちは戦乱の世、村の安泰を願い貴重な米を武士たちに献上していたと思われます。
源有綱はお家再興を祈願し再び立ち上がろうとしたが、洞内に流れる滝水で米をとぎ、そのとぎ汁により発見され無念の最期を遂げたと伝えられています。
鍾乳洞のできるまで
昔、塩原一帯は、塩原湖と呼ばれる湖でした。その湖底に、周辺から流れ出した炭酸カルシウムを含む温泉水が流れ、石灰が付着します。
その石灰の上を溶岩が覆った後、地面が地殻変動で隆起し、雨水で溶岩の下の石灰岩が溶けて、鍾乳洞が出来上がります。
2 武具資料館
塩原温泉の歴史が書いてあります。
山奥の温泉地ですが、明治時代に塩原街道ができてから、人の往来が激しくなった様子が窺えます。
源三窟の名前の由来が書いてあります。
明治時代の陸軍の軍人さんです。
名前はよく聞く人たちばかりですが、写真はあまり見たことがありません。
かなり貴重な写真だと思います。
戊辰戦争時、会津を攻めるのに使われた大砲です。
もっと大きなものかと思いましたが、意外に“かわいい”サイズです。
鍾乳洞の外では、清水を飲むことができます。
クセが無くておいしい水でした。
洞外には源有綱の墓碑がありました。
「大明神源三位源有綱公」と書いてあります。
してみると、源三位の称号は源頼政以降の子孫に代々引き継がれていたのかもしれません。
3 塩原八幡宮
源三窟から500m位北西に位置する神宮です。
昔は源三窟から通じる地下の鍾乳洞があったようですが、1659年の岩谷・下野地震(いわたにしもつけじしん)で崩壊してしまいました。
この地震はおよそ80戸の塩原温泉の地域を、ほぼ土砂で埋めてしまうくらい激しいものでした。
源三窟とセットで訪れると、それぞれの場所に対する理解が深まると思います。
下の写真は鍾乳洞の中で撮影したものです。
神宮の入口は、道路に面しているため、現在はここから入場する人は殆どいません。
天然記念物逆杉(さかさすぎ)の文字も彫られています。
源有綱はここにも祀られています。
ここにもきれいな水が神宮の南側にある斜面から湧いています。
池の近くに行くと鮮やかな鯉が近寄ってきます。
これが逆杉です。推定樹齢は約1,500年。
成長しすぎて、枝が垂れ下がってしまったので逆杉と呼ばれています。
以上 源三窟と塩原八幡宮でした。
塩原温泉の他の記事は以下を参考にしてください。