正田家は代々太田市(旧:新田郡尾島町)に住居していましたが、正田六三郎が群馬県館林に移って商人となったのが館林正田の始まりです。
館林市は、「ツル舞う形」と喩えられた群馬県の「ツルの頭」の部分に位置します。
館林市のH/Pから
東部鉄道伊勢崎線の館林駅西口から徒歩1分のところにある正田記念館は、嘉永6年(1853年)に居宅・店舗として2代の正田文右衛門が創建した建物です。
江戸時代から続く米穀商「米文」ののれんを3代正田文右衛門が醤油醸造業へと改めたのは明治6年(1873年)。
以来、昭和61年(1986年)まで本社屋として使用され、現在は登録有形文化財に指定されています。
「正田記念館」では、創業当時の醸造道具や昭和初期のポスターなど江戸時代から明治、大正、昭和にかけての記念品が数多く陳列してあります。
新型コロナウイルスの影響で、一時閉鎖されていましたが、2021-10-28から一部施設を除いて見学が再開されましたので、行って来ました。
入館料は無料ですが、平日しか開館していません。
目次
1 門
入口の門です。
ここが入口です。
引き戸を開けると、展示室に直結します。
正田家の祖先は新田義重の家臣生田隼人義豊であり、天正年間徳川家康に謁し新田・徳川の郷土に関する旧記由緒を上申し知行を受け、命により正田と改姓したといわれています。
代々現在の新田郡世良田(現太田市世良田)に居住しましたが、正田六三郎(1682年没)が館林に移って商人なったのが館林正田のはじまりであります。
その後は代々「米文」の暖簾のもとに米穀商を営み、その名声は江戸から遠く大阪に迄聞こえ、又かたわら町名主をつとめる人物もでたといわれています。
明治6年(1873)三代正田文右衛門は醤油の醸造を始め爾来110有余年今日に及んでおります。
この建物は2代正田文右衛門が嘉永6年(1857)に店舗として建てたものであり大正6年(1917)正田醤油㈱設立後は昭和61年(1986)迄その本社として使用されておりました。
創立70周年にあたり、内部に資料を収めて、「正田記念館」として長く保存することにしたものであります。
昭和62年6月15日
正田醤油株式会社
社長 正田宏二
2 正田家系図
ルーツは300年前に遡るとのこと。
3 米穀商当時の品々
初代文右衛門の店卸帳
4 三代目文右衛門
米穀商が投機的であり、子孫に残すべき事業ではないと考え、明治6年に醤油醸造業を創めました。
商売替えをするのは簡単ではないですが、三代目の決断がその後の正田家発展の礎を作りました。
5 醤油醸造及び桶・樽の製作に用いた諸道具
6 6代目文右衛門
醤油協会の会長を務めました。
7 南極の石
正田醤油の研究者(後に社長)である本川保之(ほんかわ・やすゆき)さんが持ち帰ったものです。
本川さんは第7次越冬隊に参加し、南極における微生物分布について調査しました。
1998-1-30日に社長に就任していますが、一族以外の社長は初めての事でした。
8 上皇后美智子様
日清製粉グループ会長の正田英三郎・正田富美夫妻の長女の皇后美智子様は正田家の一族です。
「平民から妃を迎える」ということが考えられなかった時代で、1958年(昭和33年)の正田美智子様の結婚は、旧皇族・旧華族らに強く反対されました。
平民からみると、日清製粉グループの娘で、皇太子さまとテニスを楽しまれるようなお方がとても平民とは思えませんが、血筋が大事だったのでしょう。
家系図の写真にはありませんが、三代目文右衛門の孫の貞一郎の三男・英三郎の娘が上皇后様です。
貞一郎が興した日清製粉の記事は以下にアップしました。
9 九曜会
九曜の紋は正田家の家紋で、関連企業で九曜会を構成しています。
10 現在の社屋
記念館の奥に広がる近代的な工場です。
記念館の見学を通して、正田家のルーツが深まりました。
同じ日に行った「日清製粉グループ 製粉ミュージアム」も続くブログでレポートしています。