対馬博物館は、2022年(令和4年)4月30日に開館したばかりの博物館で、対馬の自然、歴史文化を扱う総合博物館です。
何と金石城の石垣の上に建っています。
展示品はあまり多くはありませんが、古くから大陸と繋がる中で育んできた歴史や文化をゆったりと勉強するには絶好の博物館です。
展示のパネルについては 「観光情報館 ふれあい処つしま」展示内容とダブルところもありますが、重複する内容も敢えて記載しています。
設計は、石本建築事務所というところで、壱岐の黒川紀章設計の博物館と比べると名前負けしていると、ガイドさんが言っていましたが、なかなかどうして素敵な設計だと思いました。
目次
1 博物館外観
なぜか入口は建物の裏手にあります。
室内側から外を見るとこんな感じです。
室内は広々としています。
2 古代
石英および長石の斑晶が多くみられる火成岩。 対馬では古くから石材として利用
されており、城壁の石積みや屋敷の石垣・石畳などに広くみられるほか、 郷土料理の石焼でも使われている。
美津島町洲藻の白嶽は石英斑岩の岩体からなる山であり、山頂付近には白い岩肌が露出している。
島の成り立ちと対馬の始まり
「対馬」がその姿を現したのは、 約1700万年前から1400万年前の日本海拡大期です。
約2500万年前の古第三期まで、日本列島は大陸の一部で、 日本海もその間にある湖でした。
この湖に、約1900万年前から海が侵入し始め、水域が拡大していきます。
同時に日本の南西部が時計回りに回転し、 日本列島が大陸から分離した島弧となっていきました。
この時期に、 対馬 五島構造線と呼ばれる海底構造線の活動で五島列島とともに隆起することで、 後に 「対馬」 と呼ばれる島が形成されたのです。
これまで対馬で見つかっている最も古い遺跡は約7300年前の縄文時代のものですが、さらに古い時代の遺跡は存在するのでしょうか。
3 縄文時代
対馬の縄文時代の遺跡はこれまでに約30か所が確認されています。
主に浅茅(あそう)湾よりも北の西海岸に分布しています。
縄文時代早期末に位置づけられる上県町(かみあがたまち)の越高(こしたか)遺跡以降、 夫婦石(めおといし)遺跡や志多留(したる)貝塚、峰町(みねまち)の佐賀(さか)貝塚、 吉田遺跡、豊玉町(とよたままち)の住吉平(すみよしひら)貝塚、久原(くばら)遺跡 西加藤遺跡、ヌカシ遺跡などが各地に形成されていったことが分かっています。
いずれの遺跡からも、朝鮮半島に由来する土器が多く出土しています。
また、 例えば佐賀貝塚からは、 九州本土や日本海北部、南島(なんとう)地方、台湾海域などの様々な地域の遺物が混在して見つかり、広域で活発な活動を展開していたことが窺(うかが)えます。
4 古墳時代
これまで確認されている対馬の古墳時代の遺跡は、 ほとんどが墓地
です。 対馬で多く埋葬に用いられているのは箱式石棺墓(はこしきせっかんぼ)で、 高塚墳(たかつかふん)は十数基しか確認されていません。
高塚墳が約270基も確認されている隣島の壱岐とは対照的です。
墓地は弥生時代から続いて営まれていたものも多く、対馬では長く箱式石棺墓を用いた埋葬様式が主流だったことが分かります。
数少ない高塚墳は全て浅茅湾よりも南に分布しており、箱式石棺墓しか見つかっていない北とは異なった様相が窺えます。
5 金田城跡(かねだじょうあと)
金田城跡は浅茅(あそう)湾の南岸から北に突き出した城山(じょうやま)に位置しています。
三方を海で囲まれ、 頂上付近には明治時代の砲台の跡が残っています。
山の西側から北側にかけては険しい断崖であり、城戸(きど)と呼ばれる城門跡などの主要施設は東側に集中しています。
遺構の良好な状態と築城に至った歴史的背景から、その重要性が評価され、1982(昭和57)年に特別史跡に指定されました。
663(天智天皇2)年に朝鮮半島南西部で起こった白村江(はくすきのえ)の戦いで、唐・新羅に敗れた倭(大和朝廷)は、翌年に筑紫・壱岐・対馬に防人と蜂(とぶし)を設置しました。
また、九州から瀬戸内海に至る各地に防衛の拠点を整え、 667 (天智天皇6)年には対馬に金田城(かなたのき)を築きました。 国防の最前線に位置する金田城は、見張りや通信などの役割が期待されていたと考えられています。
6 遣唐使と遣新羅使の時代
対馬は古くから、大陸や朝鮮半島に派遣される外交使節の国内最後の寄港地でした。
使節一行を乗せた船は浅茅湾に停泊して順風を待ちました。
8世紀に入ると遣唐使の多くは対馬を経由せずに東シナ海を横断する南路を航海するようになりましたが、 朝鮮半島に渡る遣新羅使はその後も対馬を通りました。
現在伝わる最古の和歌集である 「万葉集』には、遣新羅使が対馬で詠んだ歌も残されており、外国への旅立ちを前にした使節の心境や対馬の情景が描写されています。
9世紀以降、外交使節の派遣を通じた国家主導の交流は衰えていきました。
一方で、 新羅や唐の商人が大陸と日本とを活発に往来するようになり、交易の時代が幕を開けました。
7 阿比留氏と神社
11世紀初頭から12世紀末にかけて対馬で最も有力であったのが阿比留氏です。
阿比留氏は大宰府に属する対馬の在庁官人として勢力を伸ばしたと考えられています。
その出自については諸説あり、古くから対馬に土着していた豪族の末裔であるという説や、上総国畔蒜(かずさのくに あひる)郡の出身であるという説があります。
13世紀中頃以降、鎌倉幕府と結びついた宗氏が台頭し、次第に対馬を掌握するようになっていきましたが、阿比留氏は以後も命脈を保ち続け、現在でも対馬市内で最も多い姓の一つです。
8 海上貿易の中継地
国家間の正式な通交が途絶えた後も、大陸と日本との間で人々の往来は続きました。
それを示すように、 対馬の中世遺跡では、日本本土やアジア各地から流入した様々な遺物が見つかっています。
朝鮮半島や中国大陸以外にも東南アジアで生産された陶磁器などが確認されており、 海上貿易の中継地であった対馬が幅広い地域と直接的、あるいは間接的に交易していたことが分かります。
交易品をもたらしたのは、対馬に寄港した貿易船だけではありませんでした。
倭寇の首領で、浅茅(あそう)湾に本拠地を持つ早田(そうだ)氏や、佐賀(さか)など島の東側に基盤を持ち、朝鮮との貿易権益を次第に独占していった島主宗氏など、島内の有力者たちも主体的に交易活動をしました。
9 『海東諸国紀』(かいとう しょこくき)に描かれた対馬
『海東諸国紀』(かいとう しょこくき)に描かれた対馬
『海東諸国紀』 は、 1471 (文明3)年に成立した日本と琉球に関する書物であり、朝鮮の外交官である申叔舟(しんしゅくしゅう) (1417~1475) が王命を受けて編纂したものです。 冒頭には「海東諸国総図」 「日本国対馬島之図」などの地図が収められており、続く本文では、歴史や地理、風俗、外交に関する情報が記されています。
対馬を扱った部分では、各浦の名称や戸数、朝鮮への通交者の情報も載せられています。 「沙加浦」(佐賀) の世帯数は五百余戸と記録され、浅茅湾南岸の尾崎地域は4浦合計で七百余戸にものぼる世帯があったと記録されています。
朝鮮から請来(しょうらい)した仏教文物
室町時代の宗氏当主の貞茂(さだしげ)、貞盛(さだもり)、成職(しげもと)、貞国(さだくに)は、朝鮮から経典や梵鐘(ぼんしょう)を積極的に請来しました。 このことは朝鮮
の正史(せいし)である 『朝鮮王朝実録』 にも記されており、貞茂らの求めに応じて、朝鮮から大蔵経 (一切経)や各種経典が贈られたことが分かります。
また、島内の寺社に残る古文書には、こうして請来された経典などを貞盛らが積極的に寄進していたことが記録されています。
宗盛家・職家(もといえ)父子の発願で筑前芦屋の鋳物師によって作られた梵鐘。
10 蒙古襲来と宗資国
蒙古襲来と宗資国(そうすけくに)
13世紀後半、元と高麗の軍が二度にわたって日本に侵攻しました。
これを蒙古襲来といいます。1274(文永11)年に開始された1回目の侵攻では、 対馬も甚大な被害を受けました。
対馬南西海岸の佐須浦に攻め入った軍勢を地頭代の宗資国が八十余騎で迎えて奮戦しましたが、全員が討ち死にしたといいます。
佐須一帯には、 資国ら主従を祀った小茂田浜神社、 資国のふんぼ
墳墓とも伝えられる「御首塚(おくびづか)」や「御胴塚(おどうづか)」など、 蒙古襲来に関する文化財が残されています。
如来坐像
上県町志多留に伝世した金銅仏。肉髻(にくけい)は緩やかに盛り上がり、小さな螺髪を刻む。
顔は丸みを帯び、 鍍金のあとが残る頬は膨らみをもつ。
左手は膝上、右手は胸前でそれぞれ第1・3指を相捻じ、結跏坐(けっかふざ)する。
右背面から右膝にかけて欠失し、木造で補作される。
高麗後期の作と考えられるが対馬への請来時期は未詳。
香炉
如来坐像の像前に供えられていた香炉。
火炉部と基台部は銅板による打物仕上げ。
これを下垂形と節のある細長い鋳物の竿柱(さおばしら)が繋ぎ、馬上杯状の形となっている。
高麗後期の作と考えられるが対馬への渡来時期は未詳。
11 倭寇と呼ばれた人々
倭寇と呼ばれた人々
「倭寇」とは、中世に朝鮮半島や中国大陸の沿海部や一部内陸部で活動した武装集団に対する朝鮮・中国側の呼び名です。
14世紀後半から15世紀前半にかけ、 対馬や壱岐、肥前松浦地方などを拠点とする集団が主に朝鮮半島を襲撃しましたが、 朝鮮は投降者への官職授与や宗氏を通じた通交統制によって倭寇を沈静化しました。
16世紀半ば頃には、中国沿海部を中心に倭寇の活動がみられます。
中国で作られた 『倭寇図巻』 などの絵巻物には、 倭寇と明軍との戦闘が描かれています。 この時期の倭寇の実態は、 中国人を主体とする密貿易集団と考えられていますが、 明軍の勝利を強調する 『倭寇図巻』 では、描かれた倭寇に日本人の特徴が見受けられます。
12 偽を用いた通交
偽を用いた通交
対馬島主宗氏にとって、朝鮮との通交は生命線であり、その拡大を図ることが領国経営においても重要となっていました。
一方、朝鮮側は通交者が増えることで輸出の負担が増すことになり、1443(嘉吉3) 年には、対馬島主が年間に派遣することができる船の数を50隻に制限する癸亥約条(きがいやくじょう)を締結するなど、 次第に通交を制限するようになりました。
そこで、日本から派遣されたのが「偽使(ぎし)」です。
実在の有力者を騙(かた)った人物が使節を派遣したり、 架空の有力者の使節を装って通交したりしていました。
このような方法が、定められた派遣船の数を超えて遣使する方法として確立しました。
特に、 文引(ぶんいん)を発給する権限を持っていた宗氏は、 その立場を逆手にとり、積極的にこの偽使を派遣するなど、 「偽」を用いた外交技術を蓄積していきました。
青磁獅子形硯滴(せいじししがたけんてき)
高麗時代 13世紀 幅6.1cm高11.4cm
磁器 対馬博物館藏
13世紀の高麗で制作されたと推定される青磁の硯用水差し。
巫(ざ)した獅子を象(かたど)る。
韓国西海岸南部で沈没した、元の寧波から博多に向かう貿易船の引揚げ遺物に類例がある。
本品は、対馬北西部の上県町越高の海岸で採集されたというが、対馬への流入経路は不明。 中世アジア海域の活発な交易を象徴する遺物である。
13 対馬藩主とまちづくり
対馬藩主とまちづくり
16世紀末から17世紀初めにかけての宗氏当主である宗義智は、朝鮮出兵とその後の国交回復交渉、 そして関ヶ原の戦いや大坂冬の陣・夏の陣などが起こった激動の時期を乗り切り、初代対馬藩主となりました。
宗氏は実高約3万石(対馬一円、 肥前田代領など)の外様小藩ながらも、従四位下を授けられ、 対馬守・侍従に任じられるのが通例となりました。
3代藩主宗義真(在位1657~1692) の頃には、 朝鮮貿易と銀山経営が最盛期を迎え、まちづくりを行い、江戸幕府からも10万石格を称することを認められました。
宗氏は、朝鮮との外交と国境警備が家役とされ、 唯一の在外公館である釜山の倭館で外交交渉にあたりました。
19世紀後半になると、 外国船が接近するようになったため、国境警備を担当する藩としての役割が高まりました。
朝鮮通信使の再現動画です。
14 巧みな外交戦術
巧みな外交戦術
15世紀に倭寇の取り締まりに取り組んだ宗氏は朝鮮王朝と友好関係を築き上げました。
倭寇に貿易権を認める懐柔政策に経済を圧迫された朝鮮王朝は日本からの通交者を制限するようになりましたが、 宗氏は通交権を得て日朝貿易において重要な地位を確立しました。
倭寇が悪いことをしないように貿易権を認めて、商売で利益を得られるようにしたんだよ
だから貿易額が上がっちゃって経済的に苦しくなったんだね
朝鮮王朝が貿易制限を強める中、宗氏は優遇され、 癸亥約条(きがい やくじょう)を結びます。
日朝貿易における宗氏の権力はどんどん高まっていきました。
ところが、 貿易制限に不満を募らせた人々は三浦の乱を引き起こします。
乱はすぐに鎮圧されましたが、 壬申(じんしん)約条を結び、 宗氏も貿易を制限されるようになりました。
貿易の制限によって経済的な窮地に立たされた宗氏は偽造印を用いて偽りの日本国王使を派遣し、貿易権の独占を図りました。
中世で培った外交技術は近世の対馬藩にも受け継がれていきます。
偽造印を作ったのは日朝貿易での生き残りを懸けた作戦だったんだね!
ニセモノの日本国王の使いを出して交渉を有利にしていたんだね
15 島主となった宗氏
13世紀中頃以降、新たに台頭したのが宗氏です。
その出自は、対馬の在庁官人(ざいちょうかんじん)である惟宗(これむね)氏とされ、後に武士化して宗と名乗るようになりました。
宗氏は、対馬・筑前・肥前などの守護であった鎌倉幕府有力御家人の武藤氏(後の少弐氏)との主従関係を背景に、 対馬で勢力を拡大しました。
室町時代にかけては、 少弐氏に従い北部九州を転戦する一方、 島内勢力に対する支配も強化していきました。
また、朝鮮との外交や貿易制度の整備にも力を注ぎました。
翻弄される宗氏
宗義智は、天下統一を果たした豊臣秀吉から朝鮮国王を来日させるよう命じられます。
困った義智は天下統一を祝う朝鮮通信使の派遣を依頼する秀吉の国書を偽造しました。
朝鮮国の王様に「来い」なんて言えないよね..….
だから国書を偽造して「お祝いしてほしい」っていう内容に変えたんだ
この依頼に応じて派遣された通信使は、 義智が送った秀吉名義の国書に対する返信を持参しました。
この返信が秀吉の手に渡ると国書の偽造が明るみに出てしまうため、 義智は朝鮮国王の返信を往信の体裁に改ざんしました。
朝鮮王朝との良好な関係を願う義智の努力も空しく、 文禄元年(1592)秀吉は朝鮮出兵を行いました。
中世の頃から倭寇を取り締まって通交権を認められたりして仲良くしてたのに......
朝鮮国の王様のお手紙を書き替えてまで平和を願ったけど結局は戦争になっちゃったんだね
16 再び国交回復へ
再び国交回復へ
豊臣秀吉の死後、 宗氏は再び国交回復を求めて奔走します。
朝鮮王朝の提示した国交回復の条件は日本から先に国書を送ること。
これは朝鮮王朝へ従うことを意味します。
宗氏にとって貿易は重要な収入源だからね 将軍も国交回復には賛成だったみたいだよ
朝鮮王朝と貿易できないと生活が苦しいんだよね
初代将軍徳川家康がこの条件に応じるはずもないため、 義智は家康の国書を偽造し、江戸時代最初の朝鮮通信使である回答兼刷還使(かいとうけんさつかんし)の招致に成功しました。
また宗氏が偽造したお手紙にお返しがきちゃったね......
またバレないように書き替えるしかないね・
しかし、この一行が持参した国書は家康の国書に対する返信であった
ため、 義智は朝鮮国王の国書を改ざんし、 往信の内容の国書が届くように工作しました。 改ざんされた国書を2代将軍徳川秀忠が受け取り、国交が回復しました。
使節が来たときには2代目になっていたんだね
秀忠に渡した国書は実はあんまり似てないんだけどバレなくて良かった・・・・・・!
17 対朝鮮外交の舞台裏
対朝鮮外交の舞台裏
室町時代から江戸時代にかけて、朝鮮は日本に通信使と呼ばれる使節を送りました。
16世紀末の文禄・慶長の役の後、両国の関係は一時途絶えていましたが、1607 (慶長12)年に朝鮮が派遣した使節を契機に通交が再開されました。
以後、江戸幕府への使節は将軍の代替わりなどの慶事の際に派遣され、この時を含めて合計12回に及びました。
使節派遣が再開された背景には、朝鮮との貿易が生命線であった対馬藩の工作がありました。
対馬藩が徳川家康の国書を偽造して朝鮮に使節の派遣を再開するよう要請すると、それに応える形で朝鮮が幕府に使節を送って国書を渡しました。
ところが、その国書も辻褄を合わせるために対馬藩が内容を改竄してすり替えたものでした。
その後も国書の改竄は繰り返されますが、 藩主宗氏とその家老である柳川氏との権力抗争により、 1635(寛永12)年に改竄は幕府の知るところとなりました。
しかし、江戸幕府3代将軍徳川家光自らの裁定の結果、 宗氏の地位は保たれ、 対朝鮮
外交は引き続き対馬藩が担当しました。
朝鮮外交のポイント
どんな外交だったの?----- 誠信外交だね
対馬藩は、お抱え儒者である雨森芳洲が説いた「誠信交隣」に従い、相手の歴史や風俗などをよく理解し、互いに尊重し合って誠信(まごころ)を尽くした外交に努めました。
どんな人が働いてたの?----- 朝鮮通詞(ちょうせんつうじ)だよ
芳洲の訴えを受けて、享保12年 (1727) に朝鮮語通詞養成所を創設し、専任の外交官である朝鮮通詞の養成に取り組みました。
これにより、語学堪能な商人に頼りきりの体制から、 朝鮮王朝の専任の外交官である訳官と対等に交渉できる体制へと改善されました。
どこで働いてたの?-----唯一の海外拠点・倭館だよ!
倭館とは朝鮮王朝が設置した日本人使節のための客館のことです。
倭館には外交使節のための宿泊施設や長期滞在して業務にあたる人の居住区が整備されました。
倭館を統括する館守として対馬藩の上級藩士が派遣され、 外交交渉や貿易を行いました。
これは金石城の絵図かな?
18 朝鮮外交がもたらしたもの
朝鮮外交がもたらしたもの
経済効果
朝鮮貿易によって、耕作地に恵まれなかった対馬藩は十万石格といわれるまでの利益を得ることができました。
主な輸出品 : 銀
主な輸入品:高麗人参、 中国産白糸、鷹
飛び地もあったけど飛び地の収穫だけで島全体を支えるのは難しいだろうね
貿易してなかったら生活できなかったかも!?
文化交流
来日した朝鮮通信使や渡海訳官使(とかいやっかんし)と交流し、 書画や詩文を得たり、日本の農業技術等を提供したりすることが多々ありました。
そのほかに馬上才などの曲芸の披露も行われました。
楽隊もいて賑やかだもんね
通信使行列を見物する人も多かったよ!
学問隆盛
倭館を通じて朝鮮の書物を取り寄せるなど、 対馬藩は大陸の学問を受け入れる窓口にもなりました。
また、 8代将軍徳川吉宗の命を受けて朝鮮医薬の材料の調査も行いました。
本の取り寄せを対馬藩に依頼する大名もいたよ
将軍や各地の大名にとっても外交担当の対馬は貴重な情報源だったんだね!
19 柳川一件 (やながわいっけん)
藩存続の危機!?柳川一件
2代藩主宗義成と対立した重臣柳川調興が、度重なる対馬藩の国書偽造を江戸幕府に訴えました。
藩の存続が危ぶまれたものの、 これまでと同様に対馬藩に朝鮮外交を担当させた方が良いと考えた3代将軍徳川家光の裁定により、義成は無罪、調興は津軽に流罪となりました。
朝鮮外交は引き続き対馬藩が担うこととなりましたが、 外交文書の作成や使節の応接のために京都五山から外交僧が派遣されることになりました。
これを「以酊庵輪番制(いていあんりんぱんせい)」といいます。
幕府の命令でお坊さんが派遣されるようになったってことは今までみたいに宗氏が
自由に外交できなくなっちゃったの!?
幕お卑府が朝鮮外交を監察するようになったけど幕府が関わることによって朝鮮との外交に幕府の権威がついて宗氏が担当する朝鮮外交の正当性が認められるようになったよ。
20 雨森芳洲の碑
江戸時代の初期から中期にかけて日本のどの儒者も朝鮮に関心がありました。
しかし朝鮮語会話に不自由することが無かった雨森芳洲ほどはなはだしく関心のある人はいませんでした。
芳洲は二十一、二歳で対馬藩に聘(へい)せられてから対朝鮮関係の書記として厳原(いづはら)で八十八歳まで生き、官僚としての生涯を大過なく過ごしました。
雨森芳洲(一六六八~一七五五)
寛文八年、現在の滋賀県伊香郡高月町雨森に生れたというが異説もある。
幼少より京都で家業の匠を修めたが、のち儒学を志し、十七歳で江戸に出て木下順庵の門に学ぶ。
新井白石、室鳩巣、榊原篁州、祇園南海らと木下の俊英と称されたが、後に幕府の執政となった新井白石と日本国王号問題で対立し、論争におよんだ経緯はよく知られている。
二二歳で師の推挙により対馬藩に仕官、以来六十余年、朝鮮外交の衝に当り、朱子学の名分論を通して隣国との交渉に活躍した。
朝鮮語、中国語にも精通した芳洲を、第九朝鮮通信使の製述官申維も、その著「海游録」で、偉大な人物として紹介している。
江戸幕藩鎖国時代に、稀有の国際人であった。
芳洲の名著「交隣提醒」には、「たがいに欺かず、争わず、誠実と信頼が肝要」と説き、対等の交隣思想と人道主義的信念が貫かれている。
この誠信の交隣こそ現代にも通じる念として、日韓新時代を迎える今日、ここに改めて顕彰するゆえんである。
館内のパネルは殆ど撮影してきました。
このブログだけで、対馬の歴史はかなりわかると思いますが、現地に行って是非その外観と展示品の実物を見ていただきたいと思います。