史跡 美術館/博物館

チーバくんの鼻先には関宿城(せきやどじょう)博物館がある

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関宿城(せきやどじょう)博物館は千葉県の輪郭をキャラクターにしたチーバくんの丁度鼻の位置(野田市)にあります。

外観は古いお城ですが、建物は平成7年11月に開館した近代的な鉄筋コンクリート造りです。

利根川沿いの小高い堤(スーパー堤防というらしいです)の上に立っていますので、周りに遮るものが無く、遠目からでもよく見えます。

1        入口

 

2        「川」と共に生きる

展示物の説明をよく見ていませんでしたが、地面から一段高い所に建造物を建てるのが、水郷地帯の常であることを示していたのだと思います

大きな川沿いに住むのは、命がけでした。

それでも水運は人々に経済利益をもたらしたのでしょう。

安政風聞集(あんせいふうぶんしゅう)

年代:江戸時代後期安政3年(1856)に襲った大洪水の様子が描かれており、我が子を背負い木に登って難を逃れる親子、 流されている家の屋根の上に避難する人々、 さらに蛇までもが這い上がっている状況など、洪水のすさまじさが窺えます。

 

3        関宿城主簗田(やなだ)氏 VS 小田原北条氏

梁田氏によってこの地に城が建てられた室町時代です。

その後、後北条家との長い攻防を経て、秀吉が北条を滅ぼすまでは北条の城となります。

- 関宿城攻防10年史一

  1. 古河公方と小田原北条氏

北条氏康をして一国に値すると言わしめた関宿城。

初めて関宿の地に城を築いたのは古河公方の重臣である簗田氏です。

簗田持助とその子成助は古河に近い関宿に配置され、 長禄元年 (1457)に関宿城を築きました。

利根川の水運を掌握し経済力と強力な軍事力を持った簗田氏は古河公方足利氏に重く用いられ、 何代にもわたり婚姻を通じ強く結びついていきました。

この関宿城を巡って簗田氏と小田原北条氏は、三度にわたって戦いを繰り広げました。

伊豆と相模を平定し、 次第に関東中央部に進出を目論む北条氏は、古河公方の足利高基に接近します。

しかし、古河公方の外戚に簗田氏がいるため、それがかないません。

北条氏は武力と婚姻関係を通じて簗田氏の追い落としを図ります。

北条氏綱は娘(芳春院殿)を古河公方足利高基の子の晴氏に嫁がせようとします。

しかし、晴氏は簗田高助 (成助の子)の娘と婚姻し、これに反発します。

天文7年 (1538) 第一次国府台合戦で勝利した氏綱はこの婚姻を承服させ、 天文21年 (1552)足利晴氏と芳春院殿との間に生まれた梅千代王丸に古河公方の家督を譲らせ、 古河公方の外戚としての地位を築田氏から奪いました。

そして永禄元年(1558) に義氏と改名した梅千代王丸を簗田氏の本拠地である関宿城に移したのです。

簗田氏の窮状に救いの手を差し伸べたのは越後国の上杉謙信でした。

 

関宿城主簗田氏 VS 小田原北条氏

--関宿城攻防10年史一

  1. 第一次関宿合戦

永禄3年(1560) 北条氏康から追われた関東管領上杉憲政の要請を受けた上杉謙信は関東に出陣し、 永禄4年 (1561) 小田原城攻めました。

簗田晴助 (高助の子) らも北条氏と戦い、永禄5年(1562) 関宿城は簗田晴助に戻りました。

北条氏は7年 (1564) 第二次国府台合戦で里見氏を破り上総国の支配を強め、翌永禄8年(1565) 関宿城の簗田氏を攻撃します。

これが第一次関宿合戦です。

永禄8年(1565) 3月に北条氏は、江戸城と岩槻城を拠点に簗田氏の籠る関を攻撃します。 この合戦で簗田氏は善戦し、北条方に多くの死者を出し関宿城攻略は失敗します。

しかし、永禄9年(1566) 上杉謙信が関東から引きあげてしまったため、簗田氏は翌年北条氏と和睦することになりました。

  1. 第二次関宿合戦

永禄11年(1568) 5月に北条氏照 (北条氏康の子)は栗橋城に入り着々と関宿城攻略を目指し、同年10月に関宿城を攻撃しました。

第二次関宿合戦です。

この時、武田信玄が駿河に侵攻し武田・今川・北条氏の三国同盟が崩壊したことで、簗田氏は武田信玄と結んで戦況を優位に展開しました。

北条氏康は上杉謙信と和睦し、永禄12年 (1569) 閏5月に北条氏康は関宿城攻撃を中止しました。

しかし、もう簗田氏は独力で北条氏に対抗できなくなっていました。

 

関宿城主簗田氏 VS 小田原北条氏

-関宿城攻防 10 年史一

4.第三次関宿合戦

元亀2年(1571) 氏康の跡を継いだ北条氏政は、再び武田信玄と同盟を結び上杉謙信と対決します。

この時、北関東の北条方が強く抵抗したため謙信は下総に入ることができず、簗田氏は孤立しました。

北条氏による関宿城攻略の準備が整い、 第三次関宿合戦が始まりました。

天正元年(1573) 7月北条氏照は、 関宿城を夜襲しますが失敗します。

翌天正2年 (1574) 北条氏政・氏照兄弟による関宿城攻撃は本格化します。

簗田氏は上杉謙信と常陸の佐竹義重にも救援を求めましたが、 関宿城への救援は間に合いませんでした。

同年閏 11 月にとうとう簗田氏は関宿城を開城し、かつての根拠地であった水海城に入りました。

以後簗田氏は二度と関宿城に入ることはなく、 関宿城は天正18年 (1590)豊臣秀吉によって北条氏が討たれるまで、北条氏の支配下に置かれました。

 

4        利根川の川の流れを人為的に変える

江戸を水害から守るために利根川の流路は、人為的に変えられました。

  • 会の川締切りと利根川

会の川は川俣で二手に分かれた利根川のうち、南に流れて古利根川筋に入る流路で、 分岐点の様子が古絵図に遺されています。

この会の川の締切りは、文禄3年(1594) に忍城領主・松平忠吉(家康の四男) が家老小笠原三郎左右衛門に命じて施工させたといわれています。

会の川は、大きな中州を利用して締切りを行ったものと考えられ、流路周辺の洪水もかなり緩和できたと推察されます。

この結果、 利根川の本流は川俣から東に向かい邑楽(おうら)郡内を通って浅間川に抜けます。

人工的に流路を変えた第一歩と言われています。

  • 新川通の開削

「下総国旧事考」によると、 元和7年(1621) 伊奈忠治は浅間川の流頭部から東へ約8kmにわたって幅7間の新川を開削し、渡良瀬川と合流させ、4年後には10間に拡幅しているとしています。

この新水路が新川通です。

  • 赤堀川の初開削と拡幅

赤堀川は、 利根川、 渡良瀬川の水を、 栗橋東部の川妻村から前林村までの下総台地を1kmほど掘り割って常陸川に流そうとした水路です。

元和7年(1621) に7間幅で初開削、寛永12年 (1635) (寛永2年と記した文献もある)には10間幅に拡幅していますが通水しませんでした。

また、この頃は関東各地の幾つかの河川でも瀬替えが行われています。

寛永6年(1629) に鬼怒川、 寛永7年(1630) には小貝川、 さらに、寛永6年(1629) 荒川が付替えられました。

 

江戸川の開削

庄内古川は大雨の度に洪水を起こすため、伊奈忠治が治水工事の必要性を三代将軍家光に進言し、 工事実施の許可を得ました。

工事を直接指揮したのが小島庄右衛門で、寛永17年 (1640)に工事を開始しおよそ3年で竣工しています。

工事に当たっては、台地の掘削箇所を極力少なくするため、 谷地をうまく利用しています。

 

この時期には関宿城の北西側を流れる逆川も開削が行われたといわれ、 庄内古川の締切りも行われたと推定されます。

この工事で庄内領の洪水は緩和され、 新田開発も進み、 新たな流路は舟の航行も容易にしたと思われます。

 

 

  • 赤堀川の増掘削(通水)

元和7年(1621) の初開削、 その後の拡幅を行ったものの理由は定かでないが通水には至らなかったようで、承応3年(1654) に赤堀川の増掘削により、 利根川本流は常陸川筋に流路を変え、銚子へと向かいます。

ここで、 利根本流を太平洋に流すという目的は達せられました。

東遷事業の一応の完成を見たのです。

その後も下流域では、寛文6年(1666) 新利根川の開削や延宝4年(1676) 将監川の開削、 改修・拡幅事業が継続的に進められています。

それと同時に舟運路の整備や新田の開発は順調に行われ、 江戸繁栄の原動力となったのです。

5        関宿の歴史

 

戦国時代と簗田氏

戦国時代、関東平野の中心部に位置する関宿は、 大形河川の集まる地として内陸水上交通の要衝であるとともに軍事的な拠点としても重要な地でした。

康正元年(1455)に簗田持助(やなだもちすけ)が関宿に配置されて以降、簗田氏が関宿を本拠地に古河公方足利氏筆頭家臣として、その地位を確固たるものとし、 河川水上交通をも掌握し力を強め、この地を治めていきます。

この間、永禄元年(1558)、 簗田氏は古河公方足利義氏の関宿城移座によって古河城に移されますが、 永禄5年(1562)、上杉謙信の関東南進を機に関宿城に戻ります。

その後、北条氏康、武田信玄、今川義元、上杉謙信らの関東をめぐる対立や駆け引きの中で、簗田氏は後北条氏との3回にわたる関宿合戦の末、 天正2年(1574)に関宿城を開城し水海城(みずうみじょう)に逃れ、 再び関宿に戻ることはありませんでした。

関宿は徳川家康の関東移封まで後北条氏が治めることとなります。

戦国時代における簗田氏の歴史

簗田氏は下野国梁田御厨(しもつけのくにやなだのみくりや現・栃木県足利市)を名字の地とし、梁田郡の在地土豪でした。

簗田満助のときに下総国水海(しもおさのくにみずうみ現・茨城県古河市)を本拠とし、 簗田持助のときに古河公方・足利成氏の命により下総国関宿(現・千葉県野田市)に配置され、一族発展の基礎を築いていきます。

永正3年(1506), 古河公方・足利政氏と子・高基との間に対立が生じると、 簗田氏においても政氏側に叔父の政助、高基側に甥の高助が味方し、内紛が起こりました。 その結果、簗田高助は内紛を収め、 古河公方・足利高基を支える筆頭の家臣となり、娘を高基の子・晴氏に嫁がせ、血縁関係を深めていきました。

しかし、天文8年 (1539) 年に北条氏綱は娘の芳春院と古河公方・足利晴氏との婚姻を画策し、 関東への勢力を急速に伸ばしていきました。 そして、後北条氏は簗田氏と対峙し関宿合戦を引き起こすことになりました。

関宿合戦

簗田氏と後北条氏 (北条早雲を祖とする北条氏)は敵対関係となり、永禄8年(1565) に第一次関宿合戦が勃発します。

簗田晴助は勝利したものの、 関宿城を攻撃されたことで危機を感じ、後北条氏の北条氏政と和睦します。

しかし、永禄11年 (1568) に再び戦いの火蓋が切って落とされることになります。

これが第二次関宿合戦です。

北条氏政・氏照兄弟が圧倒的に優位でしたが、 武田信玄が簗田晴助 ・持助親子に味方したことで、 簗田氏は危機を脱することが出来ました。

さらに、天正2年(1574) に三度目の関宿合戦が起こりました。

これが第三次関宿合戦です。 北条氏照は本格的に関宿城を攻撃し、ついに簗田氏を関宿城から水海城へ追い出すことに成功します。

そして、後北条氏は関宿城を拠点として北関東への勢力拡大と、 房総への支配を図っていきます。一方、簗田氏は後北条氏の実質的な支配下に入り、以後、水海に腰を下ろすことになります。

関宿藩誕生

譜代大名の配置と関宿城

徳川家康が関東移封を命ぜられ江戸入府以降、 大形河川の集まる関宿は軍事的にも経済的にも重要視され、江戸時代を通じて幕府はここに譜代大名を配置しました。

初代藩主は家康の異父弟にあたる松平康元で、 歴代藩主の多くは幕府要職を務め、 4人の老中を輩出しています。

また、水上交通の要衝であったことから関所(川関所)も置かれていました。

関宿城は平地に築かれた平城で、 利根川や江戸川は濠の役目もしています。

主郭は本丸、二の丸、三の丸、 発端曲輪(はったんぐるわ)、 天神曲輪(てんじんくるわ)があり、 外郭に家臣団の屋敷が置かれました。

本丸の北西隅に 「御三階櫓(おさんかいやぐら)」と呼ばれる天守閣があります。

これは、寛文11年(1671)に江戸城富士見櫓を模して再建したものです。

久世氏の治世

幕府を支えた老中

23代におよぶ関宿藩主の中でも久世氏の治世は最も長く、寛文9年(1669) から幕末まで9人の藩主を数えます。

久世氏は関ヶ原の戦い以前から徳川氏に仕えた譜代の家臣で、うち広之、重之、 広明、広周が幕府老中に就任したほか、大坂城代、 京都所司代、 寺社奉行などの要職に就き、幕政において重要な地位を占めました。

久世氏の中で最初の藩主となった12代藩主の広之は老中として、法令や制度の整備、社会秩序の安定に尽力するなど文治政治の実現に努力する一方、藩内の新田開発も積極的に進めました。

また、 その子重之は老中として朝鮮との外交文書を取り交わしています。

なかでも、 21代藩主広周は、 老中として安藤信正とともに公武合体運動に力を尽くし、 歴史上に残る活躍をしました。

また、 藩内の治水事業や教育を積極的に進め、領民から最も慕われた藩主といわれています。

幕府外交との関わり

江戸幕府は、寛永12年 (1635) にオランダと中国以外の諸外国との交易を制限する政策をとりましたが、 実際は朝鮮国や琉球、北方アイヌとの交易も行われていました。

慶長12年(1607)に始まる朝鮮通信使の来聘(らいへい)は、幕府将軍職の襲職(しゅうしょく)祝賀などで12回行われ、両国の友好関係が継続されることを願う文書などが取り交わされています。

この来聘に際して、 幕府の要職についていた久世氏も重要な役割を果たしています。

最初に関わるのは久世広之が小姓組番頭の役職の頃で、明暦元年(1655)の来聘の際、 江戸城の警護と接待給仕を仰せつかります。

正徳元年(1711)の来聘では、 第16代藩主久世重之 (再封)が若年寄として、江戸城中での国書伝命の式典で御前護衛をしました。

次いで、享保4年(1719) の来では、重之も老中として国書伝命の式典に同席し、 式を見守り、同年10月11日には 「日本国源吉宗」の国書と別副を手渡す大役を務めました。

この時、朝鮮上々官が久世家上屋敷に国書・別副の謝辞を述べに訪問しており、 「礼曹書契」 が渡されたと考えられます。

 

 

関宿藩士

関宿藩の藩士は、城代・家老・中老を筆頭に、 およそ500人で組織されていました。

藩士の多くは、 関宿城内の小姓町や鷹匠町、 久保町の武家屋敷に住んでいました。

「世喜宿城之図」 には100余りの屋敷地が示されています。

また、江戸の日本橋箱崎 (中央区)、 深川 (江東区)、 小日向 (文京区) の3か所に藩邸をもち、およそ100人の藩士が 「江戸詰」として勤務していました。

後世に名を残した関宿藩士には、 農学を深く研究して「関宿落とし」の開削や大島埜地(おおじまのち)の開発を指揮し、 大規模な新田開発を成功させ、幕末の久世広周(くぜひろちか)のときに 「農兵隊」を組織するなど藩政に尽力した船橋随庵 久世広周の命により国後島に渡るなど蝦夷地を探検した成石修輔、久世暉之に仕えたときに熊沢蕃山の影響を強く受け、 『田舎荘子』を著した佚斎山(本名:丹羽十郎右衛門忠明)などがいます。

維新への動き

嘉永6年(1853)のペリー来航を機に、 安政5年(1858) に大老井伊直弼が朝廷の許可を得ないまま日米修好通商条約を締結したことで、朝廷と幕府の対立が高まります。

井伊は朝廷に味方した徳川慶喜の支持勢力を排除し、 尊王攘夷派への弾圧 (安政の大獄)を断行します。

しかし、万延元年(1860)に井伊が暗殺される (桜田門外の変) と、 幕府の権威は失墜していきます。

幕府は権威回復を図るため、 老中の安藤信正と久世広周を中心とした新体制を組み、 14代将軍家茂と孝明天皇の妹和宮との婚姻 (和宮降嫁)を成立させ、 公武合体による幕府権威の強化を図ろうとします。

その後、 幕府の権力が衰えると、 尊王攘夷が倒幕運動へと変化していきました。

慶応3年(1867)、 15代将軍慶喜は大政奉還を行い、 武力による倒幕の大義名分をなくします。

ところが、武力倒幕派は王政復古の大号令を宣言して、天皇を頂点とした新しい政府を樹立します。

その後、 戊辰戦争を経て新政府による新しい時代を迎えることになりました。

 

動乱の関宿

幕末の世情が混乱する時期に久世広文が藩主となりました。

この頃藩内では木村正右衛門を中心とする佐幕派と、家老亀井満次を中心とする勤王派の対立が激化しており、 幼少の広文では藩内の混乱を鎮めることはできませんでした。

慶應3年(1867) 王政復古の大号令が発せられると、勤王派の亀井は広文の名代として上京し新政府に勤王を誓約します。

しかし佐幕派の木村らはこれに強く反発し暴徒化したため、元家老の杉山対軒が鎮圧に努めます。

佐幕派は広文を擁(よう)して関宿を脱走しますが上野寛永寺で新政府軍に敗れます。

勤王派は広文を奪還し、 新政府に対し

本領安堵・藩主への恩赦などの嘆願を再三行った結果、処分も寛大なものとなり関宿藩は取りつぶしの危機を脱し、 新藩主には広業が就任しました。

これが 「久世騒動」です。

その後、 廃藩置県により関宿藩は解体し、 関宿城も一部民間に払い下げられ、天守は取り壊しとなりました。

 

6        河川交通と伝統産業

香取神宮 式年神幸祭

香取神社は経津主大神(ふつぬしのおおかみ)を祭神とする神社で、関東地方では主に利根川・江戸川流域中心として分布しており、水運業や漁業に携わる人々に多く信仰されています。

野田市内でも20箇所近く、 香取神社があります。

これらの香取神社の総本社は、千葉県香取市にある香取神宮です。

香取神宮では、 12年に一度の午年に式年神幸祭という祭が執り行われます。

祭りは、神職や騎馬武者らによる神幸行列と、香取の神と鹿島の神が再会する行事で構成されています。 香取神宮からは、この鶴首をつけた御座船で利根川をさかのぼります。

 

7        展望室

天守閣から見た周辺の景色です。

 

 

 

北東方向

北西方向

南西方向

関宿城はこちらの方向にあります。

南東方向

 

8       関宿城本丸跡

野田市関宿町230-1

博物館から江戸川の堤防沿いに500m程南に行くと、 関宿城本丸跡があり石碑が建っています。

天正18年(1590) に松平康元が2万石の関宿藩を建てました。

かつては本丸を中心に二の丸や三の丸が広がり、 本丸には江戸城富士見櫓を模したという天守閣がありました。

廃藩後江戸川の河川改修で本丸の大半と天守閣などは失われ、 現在は本丸の一部に土塁が残っています。

関宿城博物館

関宿(せきやど)城の歴史

関宿城の起源は明確ではありませんが、長禄元年(一四五七)には簗田(やなだ)氏によってこの地に城が築かれていました。

関東平野の中心に位置し、水上交通の要衝であることや乱流する大河を天然の要害とする強固な守りを持つことから、「この城を手に入れるのは一国を得ると同じ」と称され、戦国時代にはたびたび争奪戦が繰り広げられました。

簗田氏による支配は一〇〇年ほどにわたりましたが、天正二年(一五七四)に後北条氏の支配下となります。

小田原征伐の際には、豊臣・徳川連合軍の手に落ち、天正一八年(一五九〇)、徳川家康の関東移封に際して、家康の実弟である松平康元が二万石の領地を与えられ関宿藩主として入封します。

以後は、板倉氏、牧野氏など江戸幕府でも要職に就く大名が配され、宝永二年(一七〇五)に久世重之が入城してからは、明治維新まで久世氏が藩主を務めました。

江戸時代の関宿城は本丸、二の丸、三の丸、発端曲輪(はったんくるわ)のほか侍屋敷が置かれ、三層の天守を中心に、多くの建物が築造されていました。

明治二年(一八六九)の藩籍奉還後は、明治政府に管理が移され廃城となり、一部が民間へ払い下げられました。

市内には埋門(うずめもん・市指定有形文化財・東高野)や本丸御殿(実相寺客殿)などが現存しています。

また、本丸の三分の二が関宿城跡(市指定史跡)として残されています。

野田市教育委員会

 

関宿城下町模型

江戸川は天然の堀となりましたが、利根川は城から少し離れているので、見た感じでは堀の役割は少し弱いかなと思います。

江戸時代の関宿城と城下町の模型です。

関宿城は本丸の周囲を幾重もの堀と二の丸・三の丸などの曲輪によって囲まれています。

城下町は城の南側と東側に発達し、利根川・江戸川の対岸には河岸が発達していました。

江戸川の対岸には関所が設けられていました。

 

関宿城跡から関宿城博物館を望む。

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